光の美しき者
1
少し前には蛙が冬眠から目覚め始めたと感じていたのが今では大合唱になっている。それが耳に入ってくる時と他のことを考えていてまったく聞こえない時とあるが、眠る前に楽しげな大合唱をじっくりと聞いていると突然一気に鳴き声がなくなる。気づいた頃は何か恐ろしいことでも起こるのではという不安に襲われたが、よく考えれば蝉も同じだ。
人と話すのも良いが、こうやって縁側で横になり、片手で頭を支えながらもうひとつの手で酒を呑んで月や外の生き物の言葉を聞いているのもやはり良い。月の光に照らされて自分の着ている着物にあるたくさんの菊が輝く姿は、姿の見えない蛙たちと同じたくさんの命の光に感じる。きっと俺も弟の蓮菊も両親にとって美しく愛しい命の光なのだろうなと思う。
月や命をうっとりと見つめ、それからそのままの体勢で背の後ろに置いている茹でた鶏肉に手を伸ばした。すると庭の木の上からしゅっと音を立てるように猫が飛び降りてきた。しばらく見つめ合ってから笑いかけ鶏肉を縁側の下の石の段に置いた。いつ動いたのだろうという俊敏さで移動し鶏肉に食らいつくこの猫は向こう隣で飼われている者だ。俺が一人で呑んでいる時を計ってこうやって会いに来る。そして用意しておいた鶏肉を食べるのだ。歯が剥き出しの状態で食べるので野良のように見えるが舌が肥えた飼い猫。若鶏の茹でたのはさほど好まずに親鶏を好む。茹で加減も重要視する。そんな猫だ。
「使ったことのない肉だがどうだ」
と声に出してみても答えはしないが食らいつく姿ではっきりわかる。
「お前は人間だったとしてもきっとそんな食べ方のまま可愛いのだろうな」
歯を剥き出して鶏肉を頬張るこやつは時々ちらりとこちらに目だけ向ける。一瞬細める目が惚れた者負けよと言っているように見える。憎らしくて愛しい獣。
「美実〈みみ〉が来てるのか」
開け放していた戸の向こうで弟の蓮菊が声をかけてきた。腰から上で半分回転して振り向こうとしたらうっかりそのまま全身が回転してしまって寝返りのように向いてしまった自分に笑いそうになったが、その前に蓮菊が笑った。
「お前、前世は猫だったんじゃないか」
そう言ってしまうくらい私は美実がくつろいでいる時と似た動きをしたようだ。
「良い月だな。木の影も見えるくらいの光だ」
蓮菊は近寄って俺の足元の縁側の柱にもたれて庭を見た。俺は体の向きがかわってしまっているのを再び戻そうと手をついて腰から上を起こした。座って片手を軸に裸足の足に力を込めて回転する。するとうまくあぐらをかいた状態で蓮菊の右後ろに座した。ほんのりこちらの様子を視界に入れていたらしい蓮菊は口の端を上げて「つまらん」と言う。こいつのことだからまたさっきのような失敗をするのではと期待していたのだろう。しかしその顔はつまらんようには見えない。
「美しい月に酒。溺れないようにな」
奴の肩が揺れている。奴め、気づいているな。
「俺は溺れ死んだりしないよ」
俺が李白のように死んでも誰にも浪慢は訪れない。それくらい知っている。
「第一あれは作り話だ」
そうだなと蓮菊はうなずいた。
2
美実の飼い主夫婦を俺は美実のお父さん、お母さんと呼んでいる。子供の頃から知っている美実のお母さんは決して見目麗しいとは言えなかったがいつも輝くような笑顔と笑い声を発するこだった。
「宗ちゃん、色気ってどうやったら出るものなの?」
そんなことを聞かれたのはまだ小学校の中学年の頃だった。さして年のかわらない俺は色気の意味もわらかないまま考え、大人になるということかなと勝手に思って二十歳になれば大丈夫なんじゃないかと答えた。成人式が大人の条件と思っていた私の精一杯の返答だった。年齢の問題ならどうしようもないとしょげた彼女に俺はどうしたら励ませるだろうと悩んだが、悩んでいる間に家に戻っていた。恐らく好きな人が出来たのだろうなと思い返すと感じる。しかし当時は自分が彼女をしょげさせてしまったのだと家の庭に戻って木に抱きついてどうして気のきいた言葉を返せなかったのだろうと落ち込んでいた。そんな俺を縁側で見ていた蓮菊に気づくこともあった。特に何か話しかけてくることなかったのでそのままでいた。その時の木がいつも美実が降りてくる木だった。蓮菊はあれから厠へ行き戻りには特に声をかけずに通りすぎたが大きなあくびの音だけは聞こえた。
美実は勢いよく食べていた鶏肉を食べ終わると片足ごとに体を伸ばして一瞬こちらを見て「じゃあね」とでも言うような顔をして散歩に行った。食べた後を見ると綺麗さっぱりなくなっている。しばらくはこの鶏肉にしようと口元をゆるませていると向こう隣の二階から声がした。
「宗ちゃん、美実はそこにいる?」
美実のお母さんがいつものように少し不安そうにしているのが顔を見なくてもわかるくらいの年月を友人として過ごしている。
「さっきまでいたよ」
それを聞くと彼女はおやすみなさいと続けてから窓をしめ、後ろから現れたご主人がこちらに頭を下げてからカーテンを閉めた。部屋の灯りからは逆光で顔は見えないがふと綺麗になったなと感じる。いい人と出会えて良かったと思う半面、子供の頃からの自分の気持ちを伝えていればまた違った人生だったのだろうと心がむずむずする。しかし蓮菊にも釘を刺されたがその時を逃した俺は心の中だけに持つ思いでなければならない。いつか他の人を愛しいと思える日がくるのを願う。それが同じく心の中だけのものだったとしても。
「輝くは 満月の夜の 君の声」
手もとの酒を月と彼女が先程いた窓との間に照らす。ほんのりと滲む涙で視界がぼやけた。伝えもしなかった身で伴侶のいる人への思いの沼に沈んではならない。
3
月も見えない、星すらあるのかないのかわからないような暗闇を手探りで歩いていると、美実の声が聞こえた気がした。見回しても何も見えない。しゃがんで足もとを探しても毛の感触すらない。やつは俺の手には寄ってくるはずなのにおかしい。冷や汗で体が震えた。たしかに声は聞こえる。美実、どこにいる。動揺していると背中に衝撃がきて視界が光に溢れた。途端
「宗菊! 寝る時はちゃんと部屋に戻りなさい」
怒鳴りつける母の声が背後から聞こえた。次いで背中に痛みが走る。どうやら母に蹴られたらしい。
「ここで呑む分にはいいけど風邪をひいても看護なんてしませんよ」
留め袖を着て俺と蓮菊の誕生日に贈ってくれた着物を着ている息子を蹴って起こした母は丹前を持ってきてくれていた。それを受け取り身につける。
「宗菊は家族にはとっても気を使ってくれるのに自分のことに無頓着ね」
溜め息をつきながらちょうど良い具合に飲みやすくなった生姜湯をくれた。立ち上る湯気が気持ちを温めてくれ、湯飲みに口をつけると体を温めてくれる。
いつの間にか朝を迎えていた。そしてやけに寒かった。ありがとうと言うと母は眉間に皺を寄せたがそれは怒っているというよりも心配でならないのを隠そうとしているようだ。きっと幾つになっても母はこんな顔をするのだろうなと思う。
「朝はまだ寒かったんだね」
少しずつ生姜湯を口にふくんでは温もる息を吐き出す。
「まあ、いつもはちゃんと部屋に戻って布団で寝ているから気がつかないのは仕方がないわね」
「おはよう」
起きてきた父と蓮菊が小声で寒いと言う。それを聞いてガラス戸を開けたままだったことに気づいて手を伸ばし閉めた。
「お前、ここで寝てたのか。風邪ひくぞ」
父の言葉に蓮菊が
「宗菊は美実を旨い肉で捕まえて愛でるのが大好きなんだからたまには仕方がないよ」
と目を細めた。
「そういえば昔から猫が好きだったなあ。お前はビールは呑まないから大丈夫だとは思うが、甕で溺れさすなよ」
「漱石かよ」
俺よりも早く反応した蓮菊が手の甲で父の額をこついた。そういうのをどこで覚えたのだろうと考えると、こいつは自覚のない人たらしだったと気づく。手先の動きの美しさが際立つのだ。
にゃあと高らかな声が響いたと思ったら向こう隣の二階から美実と美実を抱えた夫婦二人が見えた。おはようと手を振っている。やつらめ俺がここで寝てしまっていたのを見ていたなと睨んでもこの口からは笑いが飛び出してしまった。
俺の周りは暗闇ではない。人と生き物の温かい光で満ちている。
4
仕事の帰りに美実の飼い主夫婦に会った。二人で外食をしてきたらしい。おじさんとおばさんの分はどうしたのか聞くと、おばさんはたまには夫婦水入らずで食事がしたいから祝い事なら二人でしてこいと二人を促したらしい。
何のお祝いなのか聞くと「子供が出来たの」と返ってきた。一瞬美実に子供が出来たのかと思ってしまって衝撃を受け、それから違うことに気づいた。この二人の子供だ。
おめでとうという言葉がすぐに出た。寂しさはあっても苦しさや悲しさは感じなかった。そこで俺の初恋はいつの間にやら終わっていたことに気づいた。美しい記憶。過ぎた想いにふける涙。幸せを望む心。
夜の食事の時にあの二人の子供が宿ったらしいと話し、きっと可愛いこに違いないといつもより長く食べながら話した。その後に一人、自分の部屋に戻り窓の外を見ながら酒を呑んだ。するとすぐ前の木から猫の声がした。窓を開けると美実だった。
「肉はないぞ」
と言ったが美実は部屋の中に飛び込んできた。畳に着地して振り返る美実の顔はやはり、恋人のように美しかった。