作品が読まれなくて、次の一歩が踏み出せないときに吐き出したいアレコレ。
初めての人は、初めまして~。
一度でも我が頁にやって来て下さった方は、お久しぶりです。
『あの陽炎…… 妖怪の足跡と見た!』とか顔を決めてる、夏。 皿鉢です。
今日は『作品を発表すること』について、思うところがありまして……
エッセイ(?)なるものをしてみむとする也~ と、筆を取った次第です。(とても軽薄な行動)
突然ですが、これを読んで下さってる方で、自分の作品(何でもいいです、小説でも、絵でも、音楽でも)を発表したことある人って、どれくらいいらっしゃいますか? 挙手願います!
あ、この場合、誰か一人でも他者に鑑賞されたとすれば『発表』としてくださって構いません。
(ざっと、眺める)
――――なるほど、流石創作者の梁山泊・『小説家になろう』…… 沢山手が上がりましたね!(喜)
ビバ! 創作!
ところで私皿鉢、そんな皆さんにお聞きしたいことがあるんです。
どうぞ、皆さん自身の胸に手を当てて、心に耳を澄ませて、ご自分と語らって下さい。
では、お聞きします。
『皆さんは、自分の作品が『誰かの中にある何かに』爪を立てた! と感じた瞬間はありますか?』
抽象的で分かりにくいですな……
一般的に言うと、誰かを喜怒哀楽、どれでもいいんです。
感情を震わせて、その作品を無視できなくした。
無反応とは正反対の何かを相手から引き出すことができた…… かな? そういった方はいますか?
例えるなら、二次創作で己の考えた萌えが相手のドツボを突くとか、言語化でしにくい感情を持った人のそれを、見事に言葉にするとか?
「これこれ! これだよ、探してたのはさあ!」って、人に言わせることができた人。
…………いらっしゃいます? いえ、問いはしません。 ご自分と語り合ってください、是非。
作るって、一から産み出すって、とっても難しいですよね。
彼のジョ〇ズさんも『人は目の前に見せつけられて初めて、イメージを明確に認識できる』みたいなことを仰ってたとか、いないとか。
完璧にイメージできていない頭の中であやふやで、現実にまだ産まれ来ることのできていないモノに形を与える。
それって、とても凄いことだと思うわけです。 産みの苦しさですよ。
そうやって作り出した作品。
皆さんなら、どうしたいと思いますか?
『いや~、作るだけで満足かな~。 特に見てもらいたいとかは』
『すっごい沢山の人に知ってほしい! なんなら、世界中の人とかに!』
色々あると思いますよ、誰だって同じじゃぁ無いんですから。
で、ここまで語っといて『お前はどうなのよ?』ってなりますよね?(『興味ねーよ!』って方、どうぞお慈悲!)
私はですね…… ここで、前の問いが効いてくるんですけど、
『自分の作品が一番刺さる人のところへ、届いてほしい』って、思うんですよ。
経済的に言えば、需要と供給が正しく成立してほしい……って言い方合ってます?(教えてエコい人!)
何でもそうなんです。
必要なところに、必要なものを。
できる限り過不足なく、『それ』が十全に効力を発揮できるように。
作品もそう。 一番響きあう人のところに、届いてほしい。
でも、世の中そんなにうまくいかない。
すれ違いなんてそこいら中、嫌ってほど起きてる。
だから、きっとこの言葉はまことしやかに語り継がれている。
『(成功するには、)努力や才能だけじゃない。 『運』だって必要だ』
(ここでは、世間で成功することは、語りません。 それはまた別の話と言うことで……)
出会いって変則的で、不確実で、確かに『運』に委ねられてるところがある。
ネットの膨大な作品を前にして…… 山ほどの本が整然と並ぶ図書館や書店でだって、いつも思う。
『ああ、この中で、本当に必要とされた出会いを果たす『作品』は、『人』は、幾ばかりだろう』
果てしなくて、溜息が出る。
でも、自分を顧みる。
お世辞にも、今までの人生で、人より沢山の作品に出会ってきたとは言い難い。
けれど、今でもどうしても忘れられなくて、
「ねぇ、今まで読んだ本だったらさ……」「絵だったらさ……」「音楽だったらさ……」
『特別だなーって思う、『何』を思いだす?』
そう聞かれたときに、咄嗟に口に出すのはきっと決まってる。
そういう出会いを、私はしてきた。
それは、私にはとても必要な『何か』だった。
私は、今、私の血肉になっているそれに、とても感謝している。
陳腐と言われようと、出会いは奇跡なんだろう、きっと。
だから思う。
産み出した自分の作品の手を取って、願う。
『現実に形を得たのなら…… 産み出した作者としては身の程知らずかもしれないけど、作品にはそんな出会いを果たしてほしい』
『私が出会ったように、誰かに出会ってほしい』
『そうして、『特別』にまでならなくていい。 ちょっとした酒の肴に、思い出されるくらいでも』
『誰かの心に残ってほしい』
世の中にある、沢山の作品にも、そうであってほしい。 遠く離れていても、出会ってほしい。
ネットっていうのは、そういった意味で便利なのかもしれない。
でも、先に言ったように、すれ違いはどうしても起きる。
ネットの場合は、選択肢が増え過ぎたからこそ、届かないこともある。
そのせいで、作品が誰にも響かないことで、作ることを儚む人が居るのも哀しい。
そういった時にその人に必要なのは、そこいらの適当な人間の言葉ではなくて、その人の作品を理解しようとしてくれる人の、正真正銘本気の言葉だ――――と思う。
だから、おいそれと『言うに適当ではない人間』が言葉をかけ合うことは難しくて、それも哀しいと思う。
作ることは、届けることは、生半可に行かない。
いや、意外と行動すれば何とかなることもあるのかもしれない。
でも、何とか『作り出す』と言う一歩を踏み出して、それに何も返ってくるものが無いとき。
加速のついていない一歩目の状態では、そのまま歩むことをやめてしまう人が居ることも理解できる。
そうして、作品はどこにも行けないまま、消えていく。
だから、どうにかしよう!
なぁ~んて、私、言えた義理は無いんです。 行動力がないのは、肉親から折り紙づきですから。
ただ、出会わずに消えていくものがあるのが寄る辺が無いような気持で、吐き出さずにはいられなかったんです。
皆さんはどうですか?
自分の作品に、どんな出会いをしてほしいですか?
そのために、何をしてますか?
『ああ、コイツには刺さったな』、そう思えた事、ありますか?
その経験が無くても、『それ』を産み出せるまで、筆を握る心意気がありますか?
長々書きました。
皿鉢、満足(笑)
作ってる間は良いんですよね。
もう夢中ですから。 プロットっていうレースを走り切るだけですよ。
でも、走り終わった時。
ゴールテープを切って振り返った時。
手を振ってくれるたった一人も居なかったら、多分寂しい。
褒めて欲しいも、もっとって叱咤してほしいも、お前より速く走ってやるって煽ってほしいも。
多分色んな感情が。
創作中に内に向かっていた感情が、外に向かって噴き出していく。
だから、作品を誰かに差し出したいと思う心は、間違ってなんていない。
少なくとも、私みたいなタイプの人にとっては。
願わくば、この文を読んでくれた貴方にも、貴方の作品にも、素敵な出会いがあることを。
ハッピー・執筆life!




