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彼女の21時50分〜22時20分くらいについて

作者: 東村

彼女はいつものようにヘッドホンをつける。

画面に少しヒビが入ったiPhoneのホームボタンを押す。

彼女のiPhoneは、ホームボタンを強く押さないとスリープモードから起動してくれない。

使い潰しているからだ。


それからプレイリストを再生する。

彼女の耳に、聞き馴染んだメロディーが流れてくる。

ルーティンだから、いちいち何か考えたりしながら音楽を聞くわけではない。

でも、音楽がないと彼女のバランスは途端に崩れてしまう。

少なくとも、彼女自身はそう考えている。


ヘッドホンというところにもこだわりがある。

イヤホンではだめ。弱い。

彼女をとりまく環境音がなだれ込んでくるのを防ぐことができない。

それに、イヤホンは無防備のあらわれだ。

さっと取って、首にでもかければ、いつでも周りと会話することができる。

だから、この前も、彼女は街中で、わけのわからない男に話しかけられた。

イヤホンをしている時に。

それ以来、彼女はヘッドホンしかしないことにした。

ヘッドホンをつけていると、誰かに話しかけられることはない。


彼女の生活世界は、彼女が聞いている音楽のなかにしかない。

ほかのものごとを認めていない。

というか、ほかのものごとのことで判断されるのが嫌。


たとえば、Twitterで援助交際の相手を募集していること。

彼女の母親は覚せい剤に溺れ、実家は足の踏み場もないほど散らかっていること。

でも彼女の人生のなかで、そんなことは大きな意味を持っていない。

少なくともそう思いたくはない。

だけど、みんな「そういう子なんだ」「そういうお家で育ったんだ」って判断する。

だから彼女はそんな「誰か」を避けたくて、距離を置きたくて、ヘッドホンをつけて、そして生きている。


彼女がいま住んでいるのは、正確には家じゃない。

最近スマートニュースで見た、いわゆる民泊というものだと思う。

建物も、玄関も、彼女の実家の団地との違いがよくわからないし。

でも、法律のことはよくわからないから民泊ではないのかもしれない。

彼女は、昔ヒッピーでしたみたいな風貌の男に、毎月3万円を払って、大きい部屋にたくさんある二段ベッドの下の部分を使わせてもらっている。

その男は、ここはゲストハウスだって言うけど、彼女はゲストハウスと言われてもよくわからない。

とにかく、実家には戻りたくないし、たった3万円で寝られて、シャワーを浴びれて、お化粧もすることができるならそれでいい。

彼女がおとなの男の人からたまに貰うセンスのないバッグを置くスペースはないけど、センスのないバッグなんてもともといらないし、どうでもいい。

彼女はそう思っている。


彼女は会釈というにも及ばないほど少しだけ頭を下げて、ヒッピー男に挨拶して、彼女のホームを出た。

ヒッピー男はいってらっしゃいと声をかけたような気がするが、彼女の耳には彼女が好きな音楽が流れていて、ちょっとしか空気の揺れのようなものしか感じなかった。


時間は夜の22時。

彼女の寝床がある街は、いわゆる場末の歓楽街で、本番もOKということで売り込んでいるフィリピンパブがたくさんある。

でもフィリピン人の娼婦はみんな年増で、どんどん人気がなくなってきているらしい。

彼女はこういう話は、うわさ程度でしか聞かない。

フィリピン人の娼婦とは特に話す機会もないからだ。


彼女のTwitterの客のなかには、年をとったらどうするの、と聞いてくるやつもいる。

知らない。

そんなとき、彼女はぶっきらぼうに答えている。

売れなくなるほど年をとったときに、生きているかもわからないのだ。

だから将来のことなんて考えたこともないし、考えたくもない。

無理やり考えろと言われても、考えることなんてできない。


彼女のホームから駅まで歩いて5分。

駅前ではワンカップを飲んでいるわけのわからない老人や、わけのわからないことばで騒いでいるわけのわからない若い男たちがうろついている。

改札にPasmoをかざして、彼女はホームに上がって電車を待つ。

夜風が体を冷やす。

彼女は5分ほどしてきた電車に乗り込む。


いまはプレイリストの3曲目。

彼女が一番気に入っている曲だ。

でも彼女はそれをプレイリストの1曲目にはしたくない。

なぜかはわからないけど。


プレイリスト5曲目のまんなかあたりで、電車はターミナル駅に滑り込む。

どっと人が降りる。

彼女もその雑踏のなかの匿名のひとり。

これから彼女が行く場所も、彼女の匿名性を保証してくれる。

これから彼女が会う人も、彼女の本当の名前を知らない。

そもそも名前なんていらないんだよね。

彼女は、人間のなかの誰にも聞こえないように、そっと呟いた。


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