終末はワンサイドゲーム
赤。
鮮血。
血の池。
血しぶき。
塔は魔人の血で赤く染まっていた。
首は虚空を見つめ、身体は八つ裂きにされ、両手は切断され、両足は引き千切られ、心臓は抜き出され、臓物はまき散らされ、骨はへし折られ、目は抉りだされ、生は否定された。
これは戦闘が開始して五十秒後の光景である。一秒に一人殺害したのだ。たった一人で、たった一人の堕天使が。何も特別な事はしていない。唯々魔法の武器を縦横無尽に振るっただけ。それだけでこの光景を作り上げてしまったのだ。
地獄絵図だ。魔人だけでは無い。きっと誰が見ても、その光景をそう思うだろう。その中心、誰よりも返り血を浴び、誰よりも死を量産し、誰よりも凶悪になった堕天使は、「掃除が大変そうだなぁ」と呟いた。達成感も高揚感も何も無い。
天使と悪魔の力を併せ持つオロバスにとって、魔人の魔法などアリの噛みつきよりも意味が無い物だった。真正面から堂々と、ねじ伏せてもらった。
「服も血で汚れちゃいましたし……やっぱ戦いなんてするもんじゃないですね」
オロバスはそう言って塔の最上階から古城を眺める。
援軍に行ってもいいのだろうが、殺した魔人の強さからしても、あまり強敵のようには感じられなかった。むしろ逆、邪神教の戦闘力ならば、たとえ下っ端だって魔人十人くらいは倒せただろう。そこまでの差を先ほどの戦闘で感じたのだ。
「これが終わったら、多分お祝いパーティーとか開くんだろうなぁ、邪神は」
オロバスはパーティーに出す品物を考えながら、曇った空を見上げるのだった。
◇
一方、大書庫ではエーミルの攻撃が続いていた。
「”貴族の重圧”」
エーミルは魔法を発動。指先に魔法陣が浮かび上がり、指さした方向にいたルキヘラは地面に磔にされた。ミシミシと大書庫の地面にひびが入り、振動で本が吹き飛ぶ。そこから更にエーミルが畳みかけた。
「”貴族の重圧・第二段階”」
今度は地面に押し付けられただけでは無かった。身体の全方向から通常の何倍もの重力が襲い掛かり、ルキヘラの小さな体を圧縮する。身体が捩じれ、押し潰されてもルキヘラは苦悶の声一つ上げない。そのことに疑問を持ちながらも、更に勝利を確実なものにすべく、最終魔法をかける。
「”貴族の重圧・最終段階”」
辺り一帯の重力がルキヘラを中心に集まる。
疑似的なブラックホールが発生し、そこに向かって大書庫の本たちが落ちて行く。
ルキヘラはそれにも無抵抗のまま、身体が本に埋まりさらに重圧を掛けられる。そして壁や天井の部品が集まってきた頃、エーミルは魔法を解いた。
大書庫はひどい有様だった。
何万もの本は落下したせいか、破れたり折れたりしている。壁も破れて修繕できるような状態では無い。そして本の山と化したそこには、エーミルの『貴族の重圧』で圧死したはずのルキヘラがいるのだ。
エーミルは本の山に向かって嘲るような笑みを浮かべる。エーミルの人生において、この魔法が破られたことなど一度も無かった。全ての庶民はこの魔法と自分の前に跪き、許しを請うしか生き残る方法など無い。だからこそルキヘラにも許しを請うチャンスを何度か与えてやったのだが、どうやら無駄足に終わったようだった。
ルキヘラは死んだ。エーミルの魔法によって圧死した。エーミルはそのことに対して、殺したものを嘲るという行動を選択した。だが、それは間違いだったのだ。
「まったく、片付けが大変じゃないの」
本の山からひょっこりと出たルキヘラによって、エーミルの精神は凍り付いた。
顔面が笑顔のまま固定されてしまう。エーミルはその顔のままグルグルと考え事をする。どういうことなのだろうか。どうして自分の魔法を食らって生き残っているのだろうか。自分の魔法は効いていたのだろうか。それとも相手が自分の魔法を無効化する何かを持っていて、それによって自分の魔法が無効化されたのだろうか。
いくら考えても答えなどでない。エーミルにとってこれが初めての経験なのだ。自分が獲物を殺し損ねたという経験は、エーミルの人生にて一度も無かったのだ。
だからこそ恐怖する。得体の知れない何かに恐怖する。自分が殺せない物に恐怖する。
自然と一歩下がったその時、エーミルは自分の感情を理解した。理解した後、憤慨した。
――この僕が下等な悪魔風情に向かって恐怖するなんて有り得ていい話じゃない。このような黒歴史を誰かに知らせていいわけが無い。だとしたらこいつは早く殺さないといけない。殺さないといけない。殺すべきだ。殺すしかない。
「殺してやる!」
自分の魔法を食らって生き残った者がいるという事実。それはエーミルにとっては一生の恥として残る物だった。だが、まだ取り返しは付く。ここで殺せばいいのだ。ここで殺して口封じすれば、エーミルの失態など無かったことになる。死人に口なし。この出来事はエーミルの中にだけ生き続けるのだ。
だからこそ、ここは確実に殺す。
「”貴族の重圧・多重段階”!」
今まで行ってきた『貴族の重圧』をまとめて放つ。それは最早疑似なのでは無く、本物のブラックホールとなるだろう。もしかしたら古城丸ごと消滅するかもしれない。そうなったら自分も唯では済まないだろう。だがそれでも気に入らない上司は潰す事は出来る。それに恥の象徴を生かすぐらいだったら、自分は死んだ方が良いとエーミルは考えていた。
それほどまでに、エーミルはルキヘラに恐怖した。
だが、その魔法が放たれる事は無かった。
「ハイお終い」
ぽん。
それは本を閉じた音だった。
同時に強烈な違和感がエーミルを襲った。大書庫が片付けられている。いや、これはエーミルが大書庫に来た時の状態と同じだ。
そしてエーミルはある一つの結論に達した。
ルキヘラはエーミルに幻覚を見せていた可能性だ。そうすればすべてに説明がつく。エーミルの魔法を受けてもルキヘラが無傷だったのは、幻覚によって魔法で攻撃したと錯覚してしまったからだ。本当はただ突っ立っていただけなのだ。
そう考えると、次に強烈な憤慨がマグマのようにグツグツと湧き上がるような感覚がした。高貴な身分である自分を慌てさせ、醜態をさらそうと幻術を見せたルキヘラに対して、復讐心派だった爆発寸前だった。
そしてもう一度魔法を発動させる。今度こそ確実に息の根を止めるのだ。
「無駄よ」
ルキヘラはそう言って、いつの間にか右手に持っていた本を開く。
「『”メモリーブック・リワインド”」
その瞬間、エーミルが放つはずだった魔法は消え去り、また同じ大書庫へと戻った。そして本を閉じる。
エーミルは更に混乱する。魔法を打とうとした瞬間、また世界が戻ってしまう。まるでその時間に自分が固定されているかの様に、その時間だけが延々と流れ続けるのだ。
「……なんだこれは。幻覚なのか……」
「幻覚?」
ルキヘラはエーミルが何を言っているのかよく分からなかったらしいが、数秒してやっと理解できたらしい。
「ああ、なるほど。コレを幻術の類だと思ったのね」
仮面で顔が見えないが、声色でエーミルは分かってしまった。
明らかに、馬鹿にした声だった。「これくらいの魔法すら見破れないのか?」と言外に言われているのだ。途端に体中が沸騰するような怒りが込み上げてくる。貴族である自分をここまで貶してくれたのはルキヘラが初めてだ。だからこそ、この借りは絶対に返さなくてはならない。
だがしかし、これは一体どういうことだ。幻術でないとしたら、いったいこの現象は何なのだ。理解できないこの現象をどうにか理解しようとしていると、不意にルキヘラが答えを教えた。
「これ、ただ時間を巻き戻しているだけよ」
エーミルはルキヘラが言い放った言葉を理解できなかった。
時間を巻き戻す。その事がいったいどれほどの事なのか、この悪魔は理解しているのだろうか。いや、多分理解しているのだろう。理解できたからこそ、こんな魔法が扱えるのだろう。
この魔法があれば、どんな事でも出来てしまうだろう。どんな強敵だろうと赤ん坊の時代くらいはあるだろう。そこに剣を一突きすれば、簡単にタイムパラドックスを発生させ、なかったことに出来る。
エーミルはルキヘラの小さな体が一瞬だけ、まるで世界すら飲み込みかねない大きな物に見えた。
これは勝てない。エーミルはその事実を許容できなかった。自分が負けるはずが無い。今までだってたくさんの敵を倒してきた。それもどれもが魔法で一発である。今回だってそのつもりだった。なのに、その筈だったのに、こんな所で絶望と直面した。こんな所で死と向き合った。
「なん……で」
「何が?」
「なん、で、貴様は邪神に従っている。じ、時間を操る魔法など、もう無敵ではないか!それほどまでの力がありながら、なぜ邪神に跪いている!なぜこんな所で引きこもっている!この僕を倒せるような力があるなら、きっと魔王だって殺せる!世界だって征服できる!神すら殺せるかもしれないんだぞ!そんな力を持っていて!僕を倒せるぐらいの力を持っていて!どうしてそうしない!どうしてお前が頂点じゃないんだ!」
エーミルの自己評価では、自分はあと十年後には魔王を倒せるまでに成長すると自負していた。そして愚かな人間どもを征服し、そして自分が神になる。今第四部隊の副隊長などに甘んじているのは、能ある鷹は爪を隠すというように、魔王から目を付けられないようにするためだ。
今の状態ではまだ魔王は倒せない。だがそれでも、エーミルは自分はもっと成長すると思い込んでいた。魔王を殺し、世界を征服し、神と成れるに違いないと、何の根拠も無く確信していた。
なのに、自分はこんな所で死ぬのだ。
だったら、自分を殺すルキヘラが、いずれ倒すであろう邪神の配下となっているのなど我慢できないのだ。殺されるとしたら、もっと自分は強い人物に殺されなければならないのだ。弱者よりも弱者に殺されるなど、エーミルのプライドが許してはならないのだ。
それに対し、
「……はぁ……?」
ルキヘラはエーミルの言葉を今度こそ理解できなかった。
何を勘違いしているのだろうか、この豚にも劣る畜生は。きっとエーミルは、人生の中で一度も敗北していなかったから気付かなかったのだろう。魔王はエーミルが想像するよりもずっと強いという事を。世界を征服するなど、エーミルの寿命と強さから考えて絶対に無理なのだという事を。神を殺して神になるなど、時間を操る程度では不可能な事を。
ルキヘラは邪神の恐ろしさを知っている。彼を本気で怒らせ、真の力を開放した時が来たら、時間を操るなど子供の悪あがきでしかない事を。
それなのに、エーミルは本気で邪神に勝てると思っていた。重力をちょっと操れる如きで、神に匹敵出来るつもりでいた。
何たる傲慢。エーミルは己を高めることを一切せず、たった一つの魔法で頂点に立ったつもりでいたのだ。悪魔である自分でさえ、この魔法の他にも数百の切り札を温存してあったのに。
ルキヘラは呆れの溜息を吐いた。最早プランクトン以下であるこの魔人を視界に映す事すらうっとおしい。早々に切り上げるべきだろう。
「もうさっさと研究に戻りたいから、消えてくれない?」
エーミルに向かって魔法を発動。魔人の魔力を暴走させて魂から殺すこの魔法は、数秒足らずでエーミルの外見を一切傷つけることなく殺したのだった。
結局ワンサイドゲームになってしまったこの戦いでは、何も得る物が無かった。相手が使って来たのは重力操作の魔法一つだけ、しかも自分の開発した重力魔法の方が何倍も効率と範囲が優れていた事から、参考にさせてもらうことなど無い。メモリーブックだって、何度も研究して実践でも何回か使った魔法だ。新たなデータが取れるわけでもない。
「無駄な時間を過ごしたわね」とルキヘラはもう一度ため息を漏らし、研究を再開するのだった。
◇
園木の方でも大乱闘が巻き起こっていた。
なんといっても、どちらの攻撃も通用しないのだ。
園木は刀で戦っている。何の魔法も掛けられていない、唯々極限まで磨いただけの刀だったが、それなりの切れ味は誇っていた。だが、ガンベルにはそれが通用しないのだ。皮膚を硬質化させる事によって斬撃を防ぎ、ガンベルへとダメージを与えることが出来ない。
そしてガンベルも、園木の斬撃自体は効かないのだが、攻撃をヒラヒラと避けられてしまう。掴もうとしても瞬時に後退され、進もうと思ったらまた斬撃の嵐。
どちらにも決定打が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。
その事実に苛立っているのは、ガンベルの方だった。
「テメェ!アたれェ!」
園木はその攻撃を受け流し、ガンベルの体勢を崩す。だがそれだけでガンベルを切り裂けるわけでは無い。刀は鋼の肌によって弾かれ、傷一つ付けられない。
完全に千日手。どちらも攻撃は効かず、どちらも防御に徹する。斬撃を弾き、打撃を避け、攻撃を崩し、防御を崩せず。時間だけが過ぎていく。
「アたれッ、アたれッ、アたれッ!」
ガンベルは焦っていた。時間が過ぎるごとにその攻撃は苛烈になり、逆に集中が切れている。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる戦法だろうか。だがその攻撃は園木にとって、避け易くなっただけだ。宙を舞う木の葉の様に、ひらりひらりと避ける。
そして隙が出来たと同時に刀の斬撃。勿論鉄と鋼がぶつかり合うだけなのだが、ガンベルはその攻撃に冷や汗を掻いた。歯軋りをして裏拳。園木はバックステップをして回避した。
「その鋼の身体」
「アアッ!?」
「時間制限があるんですよね」
「……チィッ!」
そう、ガンベルの身体強化には時間制限がある。何故なら魔力を消費して身体を強化するからだ。故に長期戦はガンベルにとって不利になる。逆に園木の刀の切れ味自体は低下しているだろうが、それ以外は最初とほとんど同じだ。
勝負あった。この戦闘が長引けば長引くほど、ガンベルの方が不利になる。ガンベルも馬鹿なりにその事実に気付いているらしい。焦りが精神を蝕み、身体の動きをさらに鈍化させる。段々と力任せな攻撃が目立つようになった。
そして園木はガンベルに更なるプレッシャーを与えるため、大して肉体的な効果は無い斬撃を繰り出す。しかし、その斬撃はガンベルの精神を凍りつかせる。身体強化が解けてしまったのなら、この鋼の身体が無かったら、あの斬撃は容易にガンベルの肉の身体を切り裂くだろう。避けることも出来ない。掴むことも出来ない。自然と息が上がってしまう。
そして――身体強化が切れた。
ガンベルの目の前には、銀色に光り輝く刀の先端。ガンベルの四肢は身体強化が切れたと同時に、園木によって神経を切り裂かれていた。
ガンベルは腕が動くか確認したが、どうにも神経を斬られた影響で動かない。指先程度なら動いたが、それだけではどうしようもない。完全に詰みだ。
「……オレサマのマけだ」
「そのようですね」
園木は刀を鞘に納めた。ガンベルは怪訝な顔をして、園木に話しかける。
「トドメはササねぇのか?」
「動けない生物なんて、植物みたいなものですからね。私は植物は殺しません」
ガンベルは「ハッ」と鼻で笑った後、嘲るような視線を園木に向ける。
「ずいぶんアマチャンじゃねーか。そんなんでコロされたって、オレサマはシらねーぜ」
「その時は、なるべく抵抗させて頂きます」
園木は踵を返す。
「奪われるだけの生き方も、奪うだけの生き方も、ボクは絶対にしません。それが奪われるばかりだったボクの、唯一奪えない信念です」
園木――種族は木霊。
ただの木の怨念から生まれた、木の妖怪。
彼女にとって、奪うというのは木としての本分に逆らう。奪われるだけというのも、奪われるだけの木の怨念から生まれた、妖怪としての本分に逆らう。だからこそ彼女は、どの生き方もしないのだ。
◇
――強い。
アンドロはエマの初撃を受け止めて、そう感じた。邪気を最小限だけ身体に纏わせ、最大限の威力を引き出している。そして周りの建物に影響が出ないように細心の注意をしながら、アドロスだけを狙って攻撃を仕掛けた。
邪気の剣による一閃。不吉で不気味な低音を響かせながら、水平に襲い掛かってきた斬撃をアンドロは跳んで躱す。
空中に静止したアンドロは、背後に半径一メートル程度の魔法陣を五つ展開し、その中心から紫色の極太レーザーを照射する。
エマがこの攻撃を避けられない事はアンドロは分かりきっていた。エマは信心深い邪神教徒であることはもう疑いようが無い。そしてエマの背後には邪神を象っているのであろう、アンドロからして見れば醜悪でしかない銅像。避けたりでもしたら、その銅像に当たってしまう。この魔法なら銅像など木っ端みじんになるだろう。だからこそ、エマはこの攻撃を受けるしかない。
案の定エマは邪気を盾のように設置し、自分と背後にある銅像と自分を守った。だが、その邪気の盾は邪気が濃すぎるせいで黒い幕のようになっており、エマからアンドロは見えなくなってしまう。アンドロはそれを狙っていた。エマから視線が外れるこの瞬間を。
瞬時に転移してエマの背後を取る。エマはまだアンドロが前方にいて、今もまだレーザーを放っていると思っているのだろう。実際、今もまだレーザーは照射し続けている。アンドロが放ったレーザーは、特定の方向に数秒間放ち続けるタイプのレーザーであったため、例え移動した所でレーザーは放ち続けることが出来るのだ。
アンドロは手の平から魔法を発動する。これもレーザー照射の魔法だ。だが今度はほとんど無音の暗殺用レーザーであり、エマが防いでいるレーザーの轟音と相まって、魔法の発動音をかき消している。手を銃の形にして、標準をエマの心臓に合わせる。心臓を貫通し焼いてしまえば、いくら邪神教の教主と言えども死は免れないだろう。
そして――放った。レーザーは間違いなくエマの心臓を貫いた。
「……やったか?」
見事なまでのフラグ台詞をアンドロが呟く。
案の定エマは平気そうな顔をしている。
「心臓がなくなったぐらい、どうにでもなりますよ。まあ、邪神様の恩恵ってほとんどが破壊系のスキルなんですけどね。それでも新陳代謝とかを底上げすれば何とかなるでしょう」
心臓が無くなり、息が出来ない筈なのだが、エマはなんとでもない様に呼吸をしている。どんなカラクリなのかアンドロがエマを観察していると、エマの背後にある邪気の盾に見過ごせない物が写った。
心臓だ。ただし人間サイズの物ではない。エマの身長すら超えている、巨大な心臓だ。それが邪気の盾に写っているのだ。「どういうことだ?」とアンドロが一歩下がると、巨大な心臓はいつの間にか消えてしまった。代わりにエマの心臓がいつの間にか出来上がっていた。血の跡は消えていないが、肉体と服は再生している。
「貴様、人間か?」
「うーん、定義が難しい所ですが」
「質問を変えよう。貴様は人間を超えているか?」
「まあ、超えていますね」
律儀に答えようとするエマ。
アンドロは先ほどの光景からエマの能力を考察する。
あの巨大な心臓と再生した心臓にはきっと関連性がある。多分ではあるが、損傷した肉体を再生するときに、再生する部位を邪神から分けて貰っているとしたらどうだろうか。そのために邪気を介して邪神とコンタクトを取り、結果的に邪気から邪神の分けて貰う部位が写るのだ。邪神の恩恵などと言ったことから、この事に間違いはないだろう。
だとすると、とても厄介なことになる。
再生する隙さえあれば、何時でも再生できるという事だ。そして再生する隙など、邪気で自身の身体を覆えばいくらでもある。魔人であるアンドロは人間など比べ物にならない程の回復力を持っているが、それはあくまでも軽傷を治したり、病気に耐性が付く程度の事でしかない。今までの戦闘がエマの全力だとしたら、ジリ貧で負けるだろう。
そして間違いなくエマはまだ本気ではない。それは未だにあふれ出しているエマの邪気が証明している。
エマにとって今までの攻防はすべて様子見であり、戦闘の内に入るかどうかも分からない。
やはり、恐ろしい。鳥肌が立つ。歯が鳴る。息が苦しい。心臓の音だけがバクバクと五月蠅い。だけれども、アンドロはそんな心情をおくびにも出さない。落ち着いたふりをして、自分の心すら偽る。大丈夫だと。自分はこんなにも落ち着いているのだと。
アンドロは自分の性格を臆病だと評価している。アドロスは決してそのことを恥じない。戦闘で恐怖を無くす。それはつまり死ぬ事を恐れなくなり、死への抵抗が無くなるという事だ。そんな奴がどんな末路を辿るかなど、アドロスは嫌というほど経験している。
恐怖は自分の行動を制限するからといって、恐怖が無くなって良いわけが無いのだ。恐怖は生物が本来持つ、生きるための本能だ。生きるための物を生きるために捨てるなど、本末転倒なのだ。
だがしかし、この場に限りそれは通用しない。この作戦を失敗したら、自分は確実に処分されるだろう。地位を失うのは確定、ひどい場合だと命すら奪われかねない。だからこそ、この作戦は絶対に成功させなければならない。そのための教主の殺害は不可避。殺すしか生き残る道は無いのだ。茨の道を前進するしか、後退して奈落の底へと落ちるか。そのためには恐怖を押さえつける他ない。茨への恐怖を断ち切るのだ。その代わりに後ろへの恐怖を増大させる。そうする事で、やっと自分は前へと進める。
もう落ち着いた。心臓は規則的なリズムで鼓動し、呼吸は正常なものへと変化していく。揺らぐ視点を何とか合わせ、歯のカスタネットを押さえつける。
エマはやはり、律儀に待っていたようである。
舐められているのか、それとも敬意で待っててくれているのか。
多分前者だろうなぁ、とアンドロは思いながらも、とりあえず心の中で礼を言う。思考中に攻撃されてしまっては、大して抵抗すら出来ずに殺されてしまっていただろう。
だから今、精一杯抵抗させてもらう。
空中を待って距離をとり、もう一度魔法を放とうとした。
しかし、エマはこれ以上は待つつもりが無いらしい。
エマが地面を蹴る。爆発的な筋力で瞬時に空中にいるアンドロまでたどり着き、剣を振り下ろす。アンドロは体勢を崩しながらも何とか回避。しかし集中が切れて魔法陣がかき消えてしまった。エマはエプロンドレスという一見動き辛い格好であるにも関わらず、壁を蹴り上げてまたもやアンドロへと攻撃を仕掛ける。アンドロはエマの驚異の身体能力に舌を巻きつつも、魔法で壁を作り出して防御する。
だが、それは完全に悪手だった。アンドロとしてはエマが壁にぶつかって地面に着地するまでの間に、魔法を完成させてしまおうと考えたのだろうが、エマは邪神の恩恵を受けた人間である。それはすなわち、破壊に特化した恩恵を持っているという事だ。
エマが左手の拳で魔法の壁を殴りつける。鏡のように割れた魔法の壁を驚愕の表情で眺めてしまったアドロスに、一瞬でも驚愕で思考を停止してしまった代償が降りかかる。
右頬に衝撃と激痛。頭蓋骨にもひびが入っただろう。鋭い痛みが脳内を駆けまわる。身体が一瞬だけ硬直し、脳が揺れて目眩がする。だがそれでも意識はある。エマの左腕を両手でつかみ取り、魔法を発動させる。標的はもちろん目の前にいる敵だ。
未だに落ち着いているエマは左腕に邪気を纏い、アンドロの両手を腐らせ始めた。両腕から感覚が無くなっていく。神経が死んでいっている証拠だろう。きっともう治らないかもしれない。だったら、こんな肉の塊は使い捨てる。
魔法が完成。半径三メートルを超えた巨大な魔法陣が一つ、エマの真上に展開される。このまま撃てば、攻撃範囲に両腕が入ってしまい、エマと同時に消失してしまうだろう。だがアンドロはそれでも構わない。むしろ両腕が回復不可能になったおかげで、踏ん切りがついたともいえる。
「死ねッ!」
魔法を全力で発動する。それと同時に目の前を走るレーザー。それにエマは完全に飲み込まれた。爆発音を轟かせ、眩い紫の光をまき散らし、閃光の彼方へと消失したのだ。
アンドロの鼓膜にすべてを焼き尽くす破壊の音が聞こえた。数舜遅れて、アドロスの両腕もエマと共に、灰すらも残さずに燃え尽きた事を理解した。未だに脳内に湧いてくるアドレナリンのせいか、それとも一瞬の出来事で、脳が両腕が無い事を理解しきれていないのか。
アンドロは両腕を犠牲にして、邪神教教主の身体を痕跡一つ残さず消し飛ばした。それは覆しようもない事実であり、確定した事であった。
そう、身体は見事に消滅したのだ。
消滅したのなら――
――再生するのだ
アドロスは思わず膝をついてしまった。戦意が完全に喪失した。己の無力さをショート寸前の脳に無理矢理刻み込みこまれ、心に絶望を叩きつけられる。心臓は最早鼓動すらしない。する必要性を感じなくなってしまった。
邪気が集まって行く。
それはまるで水蒸気のように、空気中から音も無く現れた。粘土細工のようにかき集まって形作られた人型の邪気は、その奥底に化け物を写す。
今度は心臓だけでは無い。血走って充血した黒い瞳、焼け爛れているのか、腐り落ちているのか、それとも単に脂肪が付きすぎただけなのか、判別不能な血に濡れた肉塊には、子供が遊びで玩具を分解してくっつけて作ったような、アンバランスで醜い顔のパーツが付いていた。紫色の唇の隙間から僅かに見える、鮫のように尖った歯。平坦な顔で唯一突き抜けている、豚のように息が荒い鼻。ついでに付けられたような、目を凝らさないと見逃してしまいそうな小ささの耳。
アドロスは、醜悪で、凄惨で、厭らしく、穢く、卑しく、見苦しく、下司で、下劣で、不細工で不器量で不体裁で不格好で不意気で下手糞な、卑陋を、曲事を、邪悪を、――
――この世全ての闇を見た。
その瞬間、アンドロの意識はプツンと切れた。
◇
「いったったった」
夜市は心臓の辺りを撫で回しながら、大して痛そうもないのに痛みを訴える。赤い絨毯の上を軽やかに歩き、敵の捜索という名の散歩を楽しんでいた。
千里眼で邪神教徒全員の戦いを見させてもらったが、そのどれもがワンサイドゲームだったと夜市は感じた。それは確かに仕方ない事なのかもしれない。基本的に邪神教のスペックはその全員がはるかに高水準であり、邪神教でなければそれなりに強者として、歴史に名を連ねそうな者だってたくさんいる。なぜそんな者達に限って邪神教を入信するのか、夜市としてはあまり理解できない事なのだが、取り敢えず防衛に役立ちそうな人材で入信したいと言う者を、わざわざ返す必要性など無いので、夜市としては万々歳のつもりだ。
それにしても、今回攻めてきた魔人軍。過去を省みても稀に見る弱さだったが、そこまで魔人全体としての質は落ちたのだろうか。魔人族と人間は戦争中だと聞いてはいるが、本当の意味で戦争をしていたのは精々八十年前までであり、そこからは膠着状態のまま、境界線で起こる小競り合い以外、目立った戦闘などしていない。そのせいで練度の低い兵ばかりが軍に所属し、戦争を経験した猛者たちは老いていき、やがて軍を辞める事となったのだろうか。
うーんと、現代の若者を嘆く老人風に唸ってはいるが、夜市としてはその傾向を悪しく思っているわけでは無い。平和である事は良い事だと思っている。だがそれでは、やがて訪れる危険分子に対処できないのではないか?と心配になるのだ。
神々が邪神に虐殺された様に、魔人も魔人を超えるナニカによって滅ぼされるのではないか。
魔人よりも上の存在と言えば、魔紳が真っ先に当てはまるだろう。魔族の上位種であり、神の名を冠する種族だ。だが、魔族の頂点である魔紳が、魔族を殺す例など聞いたことが無い。常に例外はあり続けるのが世の常とはいえ、その例外が起こる確率は極めて低い。よってこの考えは一旦放棄。
次に考えられるのは、人間だ。これは単純に魔族と戦争中だからだが、これも確率は低そうだと判断する。魔族が八十年の平和で兵全体の戦闘力が落ちたという仮説が本当なら、人間だって多少は落ちているはずだ。何より、夜市は魔王の強さを知っている。アレは人間に殺されるほどやわじゃない。すまし顔で圧倒すそうだ。
最後の可能性、魔人だ。正直これが一番確率が高いと夜市は思っている。邪神だって神の名を冠する神なのだ。邪神がやっていたのは同族殺しと言っても過言ではない。天界の神々は邪神が自分たちと同じ神であるなど絶対に認めようとしないだろうが、それでも邪神は神なのである。これを魔人に置き換えることも出来る。例えば突然変異か何かで強力な魔人が生まれる可能性だ。その場合はきっと魔王がその力を封印し、隔離施設へと送らせるだろう。隔離とは言うが、多分隔離施設を作るとすれば魔王城の地下だ。あそこなら力が暴走してもすぐに魔王が迎えるし、修復も首都なのだから物流も良い筈、そこまで時間はかからないだろう。つまり、魔人が滅ぶ可能性で一番高いのは、魔王と同レベルの魔人が生まれた場合だ。魔王自身がそうであったため、魔王そのものが証明しているのだ。魔人は魔人を超える魔人を作り上げる時があると。
そこまで考えていると、夜市の足がぴたりと止まる。今現在立っているのは、紅い絨毯が敷かれた廊下。そしてその先には一人の少女。
十歳くらいだろう、小さな体の少女は赤い目を爛々と輝かせ、夜市を凝視している。ロングの白髪は誰がやったのかポニーテールにして纏めており、多少動き辛いにしてもそのままよりはいいだろうという感じだ。服装は動き安い黒のミニスカートに、これまた黒の半袖。完全に夜市と同じ黒ずくめである。
なんだかペアルックにしてあるみたいで夜市としてはすごく恥ずかしい。逆に少女の方は自分と同じ黒ずくめである事に興奮しているようだ。なんだかわからない喜び方をしている。
「ねーねー、あなたがもしかして邪神!?」
「なんだチミはってか!? え!? そうです、私が変な邪神様です」
変なじゃ~しん、だか~ら変なじゃ~しん……とふざけた様子で奇怪な踊りを少女の前で披露。少女は白けるどころかなんと腹を抱えて笑い出した。
「あは、あはははっ、おもしろーい!」
「ほんとに!?」
夜市が踊りを中断して少女に詰め寄る。そこまで少女の反応と言葉が夜市にとって影響のあるものだからだ。別の世界からオマージュとして作り上げた渾身の芸。しかし邪神教徒の前でやっても「いや、それオマージュじゃなくてパクリじゃないですか、スベッてますよ」という反応しかもらえず、基本的に行儀の悪いことをした時以外は夜市の味方である筈のエマでさえ、苦笑いで夜市から走り去っていった。もうハッキリ無表情になってもらった方が、精神的にまだ救いがあった。だがしかし、そんな不遇な夜市の魂を全力で注入したネタを、笑ってくれる人がいたのだ。決してフリなどでは無い。腹を抱えて涙を浮かべ、心の底から笑っているのだ。「まだ僕には笑ってくれる人がいるんだ。こんなに嬉しい事は無い」とサムズアップをするネタの幻影が夜市には見えた。夜市もそれに応える。およそ五年間踊りのキレや間延びの長さなどを研究し、完成されながらも全く笑われなかった日々。それが今日やっと、報われる日が来たのだ。思わず目尻が熱くなってしまう。このネタは、ここで一人の少女を笑顔にするために生まれてきたのだ。
一人で感動し咽び泣いている夜市に向かって、少女が語りかける。まだ笑いの影響が残っているのか、肩で息をしながらだ。
「ふっ、ふふふっ、えっとねぇー、ふふっ」
「何かな?君の頼み事だったら、今なら何だって聞いてあげられる気がするよ」
「ちょっと死んでもらえるかな?あははっ」
「気がするだからね。頼み事を絶対に叶えるなんて言ってないからね」
「だいじょーぶ!夢は自分の手で叶えるものなんだよね!」
「夢がもう少し可愛かったら応援してあげられたよ」
「うふふ、”闇手:チェムノタールゥカー”」
「話聞いてたかッ――な!」
少女の右手が闇となって夜市に襲い掛かる。砂鉄のようにサラサラと空中を滑る闇は、触れる物全てを分子レベルで消滅させて何も残さない。黒の弾幕が夜市の身体を包み込もうと前進する。
だが、それを簡単に許す夜市ではない。対抗するべく邪神のスキルを活用する。
壁のようになって夜市を消滅させようと迫る闇が、蜘蛛の子を散らすように消滅する。消滅の性質を持つ闇が、逆に消滅させられたのだ。それはつまり、夜市の破壊能力が少女の破壊能力を上回ったことに他ならない。
少女は更に笑みを深める。
「あー、名乗ったほーがいーかな?あたしの名前はヴォラク。あなたは?」
「フッ、相手に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るもんだぜ?」
「名乗ったよ?」
夜市は変なポーズのまま数泊だけ停止し、途端に顔が真っ赤になった。
「……煤神夜市です」
「よいちってもしかしてバカ?」
「傷口を抉らないで!」
廊下の隅っこに丸まり、真っ赤な顔を隠す。穴があったら入りたいと言うような有様だ。ヴォラクはそこに容赦なく追撃を開始した。
辺り一帯が黒に包まれる。その中で唯一見えるのは、紅い捕食者の眼光。暗闇の世界の中でヴォラクは破壊の言葉と共に、右手を手刀の形にして天に掲げる。
そして――振り下げた。
「”闇葬:チェムノターヴィミラニエ”」
直後、圧倒的な破壊と消滅の嵐が、一切の容赦もなく夜市の身体へと襲い掛かった。