とある老爺の憂鬱
コーンフィールドの老爺
市内で一番大きなコーンフィールドを営むマイケル・キャリック老人がそのことに気がついたのはつい最近のことであった。それは初めのうち家の柱や調度品の影、あるいは夜の廊下の突き当りなどに現れた。
物陰の中でいっそう濃く見える暗闇にそれはあった。老マイケルが近づいてみたところ、どうやら凹んだ穴のようであった。しかしさらに真相を確かめようと彼が近づくときには必ず、その穴は消え去ってしまうのだ。
さて、ようやく一日の仕事を終えて彼が暖炉のソファーに身を沈めていると、それは忽然と姿を現すのだ。
ある日を境に、その穴は影から陽の当たるところにまで姿を見せるようになった。
その日の朝、老マイケルが目を覚ましてベッドから降りようとしたとき、例の穴が彼の足元にぽかりと空いていた。これまでになく大きな穴であった。覗き込んでみると、ベッドの四脚は穴の縁でなんとか踏み止まっているような有様で、穴はどこまでも計り知れないほどに深かった。穴を避けて床に降りた彼は、いよいよ大事になってきた穴の問題を気がかりに思いながらも仕事に向かったのだ。
調査の結果、それは実のところ、ひずみのような性質をもつことが判明した。
たとえば穴の中へ垂れ下がるカーペットは本来の形からありえないほどに引き伸ばされ、椅子はその脚を穴の奥底まで延々と伸ばしながら落下することなく立つのだった。
穴はどこまでも続いているようで、二階の床にできた穴を覗きこんでみても下の階の様子は全く分からず、ただフローリングの溝からなる無限の平行線が見えるばかりであった。
穴は家の中であればどこにでも自在に現れた。あまりにも素早く動くため、移動している姿を見ることはできない。目を離した隙に、それこそ瞬きした瞬間に、それはどこかへ消え去ってしまうのだ。
あるとき賢い老マイケルは片目ずつ交互に目をつぶって穴を見張ることを思いついた。これで穴を出し抜くことができると意気込んだ老人は、さっそく次の日の仕事を休んで一日中それを見張った。穴はその場から動こうとしなかった。その日から暫く力なく垂れ下がった彼の瞼は数分おきにぶるぶると痙攣するようになってしまった ―― もちろん左右交互に。
気がかりな穴の調査を老マイケルは続けた。
あるとき彼は予てからの計画通り、穴の中へと物を落とす実験を行った。
彼はまず気に入らない香りのする石鹸を落とした。次に埃を被ったペアカップ、錆びついたフォークとナイフをワンセット落としてから、ちぢれて縮んだマフラー、小さすぎて入らない靴をたくさん、そして中身の抜けた写真立てをひとつだけ落した。
いずれも穴の中に消えてから二度と老人の手に戻ることはなかった。どうやらその穴に落ちたものは消えてしまうらしい。だが彼の手でそこに物を落とさなければ、家の物が勝手に消えることはなかった。
ある日のこと教会の鐘が鳴り一日の仕事が終わってから、老マイケルのもとに友人が訪れた。ふたりは暖炉の前でチーズと燻製肉を摘まみながら、暖かいワインを口にした。
「最近、表に顔を出さないとか。ちょっとした噂になっていたよ」
「そうかい。家で気がかりなことがあって。なかなか外に出られなかったんだ」
「そうなのか。気になるな」
「いつも家のどこかに穴が開いているんだ」
「だからそれの修繕でもしているのかい。俺ならひとを雇うがね」
「そういうわけにもいかないんだ」
老マイケルはソファーから立ち上がると、暖炉の火に薪をくべた。彼は部屋の中を見渡して例の穴が視界入らないか確認した。テーブルの下にも戸口の影にも、それの姿はなかった。彼はソファーに重たげに沈みこむと、息を大きく吐いた。
「そういえば最近なぜだろうか、ひどく疲れることがあるんだ。まるで行き先を見失ったときのように、それまで続けてきたことが全く無意味なことのように思えて。いつの間にすべては過ぎ去ってしまったのだろう。まるで引き返すことのできない道を居眠り運転してきたような気分になるんだ」
「誰だってこのくらいの年になればそう思うはずさ」
「そうなのか」
「そうさ。気にすることでもない。そういえば明日の礼拝には出席するのかい」
「ああ。きっと行こう」
その夜、老マイケルは友人に泊まっていくように控え目に申し出たが、友人は礼儀正しくそれを辞退した。
老マイケルがランプを消してベッドに潜りこんだとき、あの穴は天井で見つかった。それはほとんど天井を覆い尽くしてしまうほどの大きさで、今までのどの穴より深く底知れない。老人はしばらくそれを見つめていたが、やがて眠りについた。
老人は夢と覚醒の合間をさ迷っていた。夢の中で、ああ夢を見ているのだと気がついた次の瞬間に意識を手放し、あるいは夢から覚めて自分が眠っていたことを自覚した瞬間に、再び夢の続きを見はじめた。
彼の父から継いだコーンフィールドの空は低く、一年中風が吹いていたからだろう。やはり夢の中でも風はとうもろこしの房を揺らして強く吹いていた。
ひとりの少女がいた。銀粉を塗ったかのように輝くブロンドの髪が、黄金のとうもろこし畑の中で見え隠れした。風の中、彼女が髪を抑えながら振り返った先に彼は立っていた。
朝目覚めて老マイケルがベッドから足を降ろそうとしたとき、いつかのように例の穴がぽかりと開いていた。
穴は部屋の全てを覆うほど大きく、ベッドはその四本脚をどこまでも引き伸ばして頼りなく立っていた。ベッドの下へ首を伸ばしてみると、やはり穴は底知れない暗闇を孕んでいた。この暗い穴はいったいどこまで続いているのだろうか。その答えを彼が知ることはない。
老爺は次に目を覚ましたときには、穴がどこかへ消え去ることを願って、静かに目を閉じた。