6.銀の鏡
六花の続きです。
「私はクレナイ。紅き竜セキの鱗を譲り受け、娘と認められた者です、シラユキさん」
娘が遠慮なく真名を呼んだ途端、シラユキの周りに雪と氷の結晶が現れた。キラキラと光を反射しながら厚みを増している。冷たい怒気で、周囲の気温がどんどん下がっているのだ。
「私はヒトガタの名前なんてどうでもいいわ」
怒気を吹雪に変えて、シラユキは吐き捨てる。
「兄さんが竜以外に名前を聞いたことは知っていたのよ。若いうちはそんなこともあるのかって、その時は流したわ。その相手もあんたなのね?」
「恐らくそうですね」
片手は薙刀、片手は腰に当て、娘は肯定する。
「兄さんだけでなく、伯父さまもお母さままで誑かすなんて……身のほど知らずにもほどがあるわ! ここで雪に埋もれなさい!」
シラユキは激昂した。
娘も目を眇め、
「多少振り回したかもしれないことは認めますが、誑かしただなんて心外です。誤解があるようですから、ぜひとも解かせていただきましょう」
左腕の魔法布と薙刀の鞘布を取り払い、娘はシラユキと対峙した。
「ま、待て! 待て待て待てっ!!」
慌てたのはカナリヤだ。
吹雪の檻が閉じかけ、ひとりと一頭の世界になろうとしたところに割って入ってきた。身体に魔法障壁を張っているらしく、吹雪による負傷はもちろんない。
「伯父さま邪魔しないで! このヒトガタは私が片づけるわ!」
「教えを受けるどころではありませんから、説得に手を貸していただけませんか? 竜族と一対一は分が悪すぎますので、できれば言い合いに留めたいのです」
「どの道ぶつかること前提なのか!?」
カナリヤは頭を抱えた。
「伯父さま、下がっていて。すぐに終わらせるわ!」
「加勢いただけないなら、せめて見守っていてください。全力を出してだめならば諦めもつきます」
シラユキは複数の氷柱の槍を作り出し、狙いを娘に定めた。
娘は娘で、腰を低く落とし熱を発する薙刀を構え、もう片方の手には数枚のまじない札を広げて今にも打って出ようとしている。
「お前たち、本当にやめろ――!」
カナリヤは“息吹”を声高らかに響かせた。
放たれたそれは魔法を弱めるものだったようで、吹雪の壁と氷柱、まじない札に込められた魔法の明滅などの効果をもたらしていく。
次の瞬間。
「その喧嘩、あたしが預かった!」
雪の中にもかかわらず、その女の声はよく通った。
薄くなった吹雪に、天上から何かが礫のように突っ込んで来た。衝撃で地面がすり鉢状に凹む。細かい氷の粒がもうもうと舞い上がり、辺りを白く染めた。
「この声、まさかっ!?」
シラユキのうろたえる声が聞こえる。カナリヤも何か言っているが、再び地面に何かが打ちつけられた衝撃で、どちらの声も娘には聞き取れなくなった。娘も含め、あの場の全員が吹き飛ばされたらしい。
「はい、おじょーちゃんはこっち」
何者かが娘の腰に腕を回し、軽々と抱え上げる。
「じゃ、行こっか!」
娘が反応する間もなく、声の主は身を屈め、とんでもない勢いで跳躍して雪煙の中から抜け出した。
◇ ◆ ◇
くらくらする頭を押さえ、娘は洞穴の中でへたりこんでいた。先日もこんなことがあったような気がすると思いながら。
娘を抱え上げた何者かは、上へ下へ、右へ左へと、曲芸よろしく散々跳ね回ってようやく娘を下ろしたのだ。平衡感覚がおかしくなるのも当然と言える。
母である紅き竜も飛ぶと速かったが、娘が背中に乗っているときはまだ加減してくれていた。今回は全くそれがないようなものだった。
「あー、大丈夫? あたし加減がヘタでねー」
あははは! と、まったく悪気がなさそうに女の声が笑う。
「あなたは……」
揺れる視界に、声の主を捉えてみる。
なかなか輪郭を結ばないが、娘を見下ろして立つ姿はそれほど大きくない。人間大だ。背丈は高めで、娘の実の姉・アカネくらいだと思われた。
「いやー、あの場で一番不利っぽいのはおじょーちゃんかなって。口は達者そうだけど、相手はまだ若いといっても竜だしねぇ」
そう言って、声の主は娘にぐっと顔を近づけた。
そこまで近ければはっきり見える。
にかっと笑って娘の顔を覗きこんでいたのは、齢三十過ぎほど、白く長い髪に青い目の、人間と思しき女だった。
思しきというのは、女の腰辺りから、大トカゲの尾のようなものが下がっていたからだ。
娘の視線の先に気づき、
「ああ、これ? ほら」
女は無造作に尾に手を伸ばす。むんずとつかまれた尾は腰から離れ、女の手でぶらぶらと揺れている。娘はびくりと身体を強ばらせた。
「びっくりした? よく見なよ、出来はいいけど作りものだから」
尾を持った手をずいと近づけられ、娘は思わず身を引いた。それからそっと、まだ輪郭のぶれる光景しか映さない目を近づける。
なるほど、たしかにそれは、鱗を貼りつけて作られた工芸品のようだ。
「トカゲの尻尾切りかと思いました」
「まーたしかに、竜はでっかいトカゲみたいなもんだけど。おじょーちゃんも作ってみる? 案外簡単に作れるよ?」
「教えていただけるなら」
素材と大きさを変えれば、こどもに評判のおもちゃになるだろう。
娘はこんな時でもまた、商いのことに考えが行ってしまうのだった。
「あ、でもこっちは本物。おじょーちゃんともお揃いだねぇ」
女は両腕を見せてきた。眩暈もおさまり、娘にもそれは良く見えた。
ところどころ、鏡のように周りの光を反射する銀の鱗が、その腕のほとんどを覆っている。
「あなたも……人間なのですか?」
「人間だった、て方がしっくりくるかなー。なんせもう、こうなって長いから」
女はにかっと、白い歯を見せて笑った。
「久しぶりに顔見かけたのがいくらかいたから、懐かしくなって近づいてみたらさ。おじょーちゃんのその鱗、見覚えあるんだけど。もしかしなくてもあの子の?」
「……恐らく、その通りかと」
「へー! めんどくさがりなあの子がねぇ。あたしが育てたからかなー。あ、だからさっきカナリヤもいたのか」
女はカラカラと、陽気な声で豪快に笑う。
娘はほぼ確信していた。この風変わりな鱗の女が何者なのかを。
「私のお母さん――紅き竜セキや、カナリヤさんは知っているのですか? 育ての親が元人間だったということを」
「うんにゃ? 多分、人間に化身した小柄な竜だと思ってるね」
女――紅き竜セキとその兄竜カナリヤを育てた母は、笑顔のまま娘の言外の問いかけをいくつか肯定した。
「あ、名乗るの遅れたね。あたしはカガミ。それ以外に名前はないけど、“小さき銀竜”とか呼ばれてるよ」
「私はクレナイです。同じく名はひとつですが、外では単に“巫女”、で通しています。……カガミおばあさん」
カガミは目を細め、笑みを深くした。
「そっかそっか。また孫が増えてたかー。こんなきれいなおじょーちゃんなら大歓迎だよ!」
「私も、お会いできて嬉しいです。まさかこんな形で、とは思いもしませんでしたが」
娘も苦笑する。たしかに豪快で破天荒、何頭もの竜を育て上げてきた、聞いた通りの竜たちの母だ。
「あ、そーだ。シラユキなんとかしないとね。生まれて六十年っていやぁ人間の十六くらいなんだけど。親と正反対の性質で、それでもなんとか育てようとしたからか甘やかされててさー。同じ頃育ったクロガネは、逆に年の割に落ち着いてんだよね。妹の面倒見てたからかなー。あっちは人間でいや二十歳をいくらかすぎたくらいなんだけど。てか、おじょーちゃん会ったことあるよね? セキだけじゃなくて、クロガネの鱗も持ってるし」
「え?」
娘は思わず、気の抜けた声を出してしまった。
カガミが娘の腰から下がっている道具入れを指差すので、示されたまま中を探る。
何か、ひんやりとして硬いものに指先が当たる。そのまま引っ張り出してみると、娘の手よりもやや大きい、黒鋼の板のようなものが出てきた。
「気づきませんでした……」
「あっは、あいつ図体の割に小器用なんだよね! 魔力も隠されてるし、ほんと手の込んだイタズラだ!」
大きさからして逆鱗だねとカガミはまた笑うが、娘は別れ際のクロガネ――ハガネの言葉を思い出して小さく唸った。
「ま、今も昔も、若い竜ってのはマセてんだよ。カナリヤも、セキだってそうだったし」
「そうなんですか!?」
それについては知っていることをできる限り教えてほしいと思った娘だったが、ぐっとこらえた。まずはやることがある。
「先ほどの場に、生まれたばかりの魔法生物の少年がいるのですが」
「あ、そういやいた気がする。ちっちゃいの」
「あの子は私のふたり目の子でして、おばあさんのひ孫にあたるかもしれません」
「ん? しれませんってのは?」
娘はかくかくしかじかと、これまでのあらましをカガミに説明した。
「なるほどねー、それでこんなとこに。たしかにそれならカナリヤよりシラユキだわ。かわいい孫とそのこどものために、おばあちゃんもがんばっちゃうぞー!」
カガミは拳を握って、頼もしい笑みを娘に向けた。
◇ ◆ ◇
娘は再びカガミに担がれ、シラユキとにらみ合った場所まで戻ってきた(今度はほどほどの速度での移動だったため、娘は目を回さずにすんだ)。
カガミは娘を下ろしてすぐに、二頭の竜たちの元へ大股で歩み寄り、
どおん、と音がして、シラユキが白銀の山肌に沈んだ。余韻を引きずるように轟音がこだまする中で、その隣には首から下が雪に埋まったカナリヤの姿もある。
カナリヤは小さなため息に諦観を滲ませていた。
「甘んじて受けるよ、おふくろ」
「まったくだね本当に。カナリヤ、もういい年なんだからしっかりしな!」
魔力の粒を握り拳に漂わせながら、片手を腰に当てたカガミが言う。腰につけた尾の飾りが生き物のようにしなり、雪の地面を打ちすえた。
シラユキはこの鉄拳を受けて沈んだ。巨大な獅子型の魔獣を一撃で殴り飛ばしたという剛腕は、未だ健在のようである。
カナリヤはといえば、半ば自主的に雪に埋まったのだった。
「で、でもおばあさま……」
「でももだってもないね。シラユキ、あんたも独り立ちした竜なら、力の使いどころをまちがえるんじゃないよ!」
カナリヤを雪の中からずぼっと片手で引き抜いて、カガミはぴしゃりと言う。
「ま、おしおきはこれくらいとして。シラユキ、おじょーちゃんに魔力の扱い方を教えてやりな。このままだと、またあのぼーやみたいな子が顕現するからねー」
カガミは、離れたところでクラノたちと一緒にいる、翡翠色の髪の幼子を見やる。口調や態度は、洞穴で娘と話していた時のような飄々としたものに戻っていた。
シラユキは渋々といった様子で頷く。拳骨を受けた頭を、まだ痛そうにさすりながら。
「ちょっと、こっち来なさいよ……熱っ!」
娘が招かれるままに近づくと、シラユキは思い切り上半身をのけ反らせた。
「ちょ、だめ離れて離れて! 腕の鱗と首飾りはお母さまのものね!? 溶けるから近づかないで!」
「これは失礼しました」
娘は素直に数歩下がる。母である紅き竜も、こんな風に苦労して子育てしていたのだろうと思いつつ。
「仕方ないわね……。今回は特別よ。しっかり受け取りなさい!」
シラユキの眉間に淡い光の粒が集まってきて、それは雪の結晶模様を表面に刻んだ白いかけらに変わる。
シラユキの鼻先で押されたそれは、弧を描いて娘の手の中に納まる。ひんやりと冷たい、真珠光沢のある白い鱗だった。
「“永遠の雪”よ。魔力の扱い方はそこに詰めたから、あとは魔力使って読んでちょうだい」
加護もついているんだからいいでしょと言ってそっぽを向き、シラユキはチラリと横目でカガミの様子を窺った。
カガミはうんうんと、満足げに頷いていた。
「あ、それとシラ――リッカさん」
「何よ、今さらな呼び方ね」
「その節は失礼しました。ひとつだけお聞きしたいことがありまして。腕の鱗はこれで抑えられますから、少し近づいてもいいですか?」
娘は左腕に魔法布を巻きつけ、それをシラユキに見せる。シラユキはじっと目を細め、品定めでもするようにしてから、
「……いいわよ。ひとつだけね」
「ありがとうございます」
娘はシラユキの元まで歩き、そっと耳打ちした。
「元気でねー!」
シラユキと共に雪山に残ったカガミに見送られながら、一頭と四人は穏やかな気候の雪山を下りる。
「いやしかし、まさかおふくろと会うとはな」
ふぅーっと、カナリヤは深く長いため息をつく。
「なんか、今日は……今日もすごかったね……」
ラニは色々な意味で震えながら、ぽつりとこぼす。
「いつものことだろ? 相棒のおっかさんが気持ちいいくらい豪快だっただけで」
クラノがヒスイ――顕現したばかりの魔法生物の少年だ――の毛皮を巻き直してやりながらがははと笑う。
娘はヒスイの手を引きながら、シラユキとの会話を思い出していた。
◇ ◆ ◇
――娘は、シラユキに顔を寄せてそっと耳打ちする。
「カガミさんは――」
「竜じゃないわ、兄さんも知ってる。でも、お母さまと伯父さまたちはずっと竜だって信じてるの。あんたも、今さら知らせるほどヤボじゃないわよね」
もういいでしょ、と、シラユキは娘から離れた。
娘も数歩距離を取り、カガミとカナリヤをちらと見る。それは、どこにでもありそうな母子のやりとりだった。
◆“永遠の雪”、銀の尾
「これがリッカさんにいただいた鱗です」
娘は、竜の目の前に、ひんやりと冷たい白い鱗を近づける。
「ほう……よくできているな。懇切丁寧に、魔力の扱い方が詰められている」
「読み出してくれたカナリヤさんもそう言っていました」
「シラユキは年の割には幼いが、性根は素直なのだ」
「はい、私もよくわかっています」
この鱗のおかげで、娘はそう時間をかけずに魔力を遮断する術を身につけることができた。
「そうそう、こんなものも」
娘は腰の道具袋から、手のひらに乗る大きさのトカゲの尾を取り出した。
表面には、色の美しい葉や花弁が貼り付けられている。
「カガミさんに教えていただいた“トカゲの尾”です。こどものおもちゃの試作品として、小さく作ってみました」
「鱗として見立てるものによっては、蓑虫に見えそうだな……」
「そうならないよう、色々試してみます。本物の鱗は調達できませんからね。この辺りで採れるものか、行商人からきれいな貝殻を仕入れるのが現実的でしょう」
「まったく、お前は商魂たくましいな」
ふん、と、竜は短く鼻を鳴らす。
「まずはルリとヒスイに遊んでもらって、感想を聞きましょう。最終的には、こどもが腰につけて尻尾のようにつけられる大きさにします。親子の遊び道具にもなるように作るつもりですし」
「親子、か」
「はい、親子です。種族が違おうと、血のつながりが怪しかろうと」




