挿話:カナリヤの歌
紅き竜の棲まう山から遠く離れた異国の地。
木々よりも、まばらな草原や砂地が目立つところを、娘たちは旅していた。
石を積み上げて造られた、飾り気のない無人の建造物が今日の宿だ。
旅に出てから二週間、月の明るい夜だった。
「なんだ、まだ起きてたのか」
枠だけの大きな窓に腰かけて、目的もなく夜景を眺めている娘に声をかける者がいた。
娘が視線をやると、黄玉色の鱗で身体を覆われた小さな竜が、背中の翼を羽ばたかせて近づいてくる。
この竜は、娘の母である紅き竜の兄だ。身体こそ猫くらいの大きさだが、これでも成体だ。
「コハクさん」
娘は、兄竜の名乗りの名を呼ぶ。
真名は「カナリヤ」とかわいらしいが、魔法生物である竜族のそれを口にするのは色々と差し障りがある。
「いいんですか、猫の擬態を解いて」
「それを言うならお嬢さんもだろ? 鱗がむき出しだ」
コハクが前脚で娘の左腕を指す。
いつもは魔法布で隠している、紅い鱗に覆われた左腕が月明かりに照らされていた。
「私たち以外に誰もいませんし、いいかなと思いまして」
聞こえてくるのは、微かな虫の声に、上空で風が巻く音。眩しいほどの星空。
そんな夜の気配以外に、感じるものは何もない。
「ま、オレも似たようなもんかな。誰もいなけりゃ、竜だって狙われないさ」
コハクは娘の隣に着地した。
何を話すでもなく、ひとりと一頭は周囲の音に耳を傾けていた。
「私、故郷を離れるのは初めてで」
ぽつりと、言葉を零したのは娘だった。
「生まれた村へは、巫女としてよく訪れていましたし」
紅き竜の巫女として山に移り住んでも、ふた月に一度は姉たちの様子を見ることができた。
たとえ、娘に関する記憶をほとんど忘れさせられていても、娘は平気だった。
「こんなに遠くまで来たのは、本当に初めてで」
娘はぼんやりと、緑のまばらな砂地と夜空を見やる。
叔父兼師匠のクラノの話では、あと三日ほどで完全な砂漠地帯に入るそうだ。そこには魔法文明が栄える国があるという。
クラノは、就寝前の運動と称してひとりででかけている。今頃、夜行性の魔物や魔獣相手に暴れていることだろう。
「何か歌ってやろうか?」
思わず顔を隣に向けると、コハクがこちらを見ていた。
「オレの真名はなーんだ」
「……」
「別にいいよ、今だけだから。この名の通りの歌声を披露してしんぜよう」
芝居がかった言い方に、娘は小さく噴き出した。
「ではカナリヤ様、このわたくしめに、あなた様の歌声をお聞かせくださいな」
「よろしい。ではまず、お嬢さんの故郷の歌を教えてもらおうか」
「かしこまりました」
一度深呼吸し、すっと息を吸うと、娘は囁くように歌った。
カナリヤがそれをなぞるように後を追う。
短い歌を二度ほど繰り返すと、カナリヤはひとりで歌い始めた。
妖精竜カナリヤ。名前通り、歌声で、小鳥のように透き通った可憐な調べを奏でている。
娘は目を閉じて耳を傾ける。毎日のように聞いて口ずさんだ歌だったが、ひどく懐かしい。
ふと思いついて、娘はカナリヤをそっと抱き寄せ、抱え込んだ。
カナリヤは何も言わず、娘の腕の中で歌い続ける。
きりのいいところまで歌い終えると、カナリヤは、
「他にはあるかい?」
「では……」
娘から別の歌を教わり、歌い、また教わり。
そうしてしばらく、たったひとりのために、妖精竜の歌声が宵に流れていた。
「なあ、お嬢さん」
ある歌を歌い終えたカナリヤが、少し疲れたように呟いた。
「オレの魔力、だいぶ吸い取ってる……」
「あら? まあ!」
娘は慌ててカナリヤを離す。
母の元で体質が変化し、魔力を貯めやすくなった娘がずっと触れていたため、カナリヤの魔力を思った以上に吸収してしまったらしい。
その体質こそが旅に出た理由だというのに、油断してしまった。
「明日はいつもより多めにまじない札を使おうな……」
「はい、私としたことが……」
この分だと、予定よりも早くまじない札がなくなりそうだ。ルリに補充を頼む必要があるかもしれない。
娘がそう考えていると、
「まあとりあえず、今日は寝ようか。明日も楽しい砂漠歩きだぞーっと」
カナリヤは若干よろめきながら、寝床のある方へと飛んで行く。
「カナリヤさん」
「んー?」
娘の呼びかけに、カナリヤが振り返る。
「歌、ありがとうございました」
「なに、お安い御用だよ。また歌ってやるから」
ちょうどその時、クラノが娘たちのいる建造物へ帰ってきたため、その夜はお開きになった。
それから時々、カナリヤは娘に歌を聞かせるようになった。
娘もなにかの箍が外れたのか、日中でもカナリヤを抱きかかえることが増えた。
その結果、割ととんでもないことが起こるのだが、今のひとりと一頭には知る由もない。




