5.慌ただしい日 ~瑠璃珠~
見たこともない幼子が、突然現れた。
腰に手を当てて仁王立ちしている幼子は、無表情ながら意志の強そうな目で竜たちを見ている。
風が、腰までの藍色の髪を揺らす。
「今そちらに行きますから」
最初に動いたのは娘だった。腰に巻いた道具入れを探りながら、幼子に近づいていく。
幼子は、娘を見て「うむ」と頷いた。
「こどもゆえ、まちきれなくなってしまったのだ。ゆるしてもらいたい」
「大丈夫。気にしていませんよ」
時折吹く強い風が、幼子の髪を吹き流しのようにたなびかせる。
その度ばさりばさりと顔に当たるそれを、幼子は「ふん!」と思い切り頭を振って払っていた。手を使うという選択肢はないらしい。
「じっとしていてくださいね」
「しょうちした」
娘は、幼子の前に両膝をついてしゃがみこむ。そして藍色の髪を後頭部でふたつの束に分ける。腰にくくりつけた道具袋から、幅細で濃い空色の紐を取り出し、幼子の頭の高い位置で左右に結んだ。
「娘。まずどういうことか説明しろ」
眉間を押さえたくなる衝動にかられながら、竜が口を開く。
「そうでしたね。すみません」
娘は立ち上がって膝についた土を払い、幼子の後ろに立ってその両肩に手を置いた。竜たちに正対するような形だ。
「まず、この子の名前を決めかねているんですが」
「落ち着け。色々すっ飛んでるぞ」
笑いをかみ殺したような顔と声で、娘の叔父で師匠だという男が言う。
娘は盲点を突かれたというような顔をして、
「そうでした。先に男の子か女の子か、というところからですよね」
「おい」
何の言葉も出ない竜の代わりに、兄竜が一言突っ込んでくれた。
竜と娘たちは、等間隔で輪になるように座る。
「わざとではないんですよ。ただ、今日は色々と慌ただしくて頭から飛んでしまったというか」
「それはわかっている」
娘の膝の上には、腕を組んだ幼子が座っている。つり気味に弧を描く短い眉が、たどたどしい口調ながら堅苦しい言葉づかいと合わさって、強気で頑固そうな印象を抱かせる。
そしてなにより目を引くのは、胸元に下がる、娘のものとは違う「逆鱗の首飾り」だ。
いつか娘が作った鍋敷きと同じように、糸で鱗を縁取る編み方で(鱗に穴が開けられていないことに、竜は少しばかり安堵した)、瑠璃の珠が飾りとして使われている。
「まずはその幼子のことだ。なるべく順を追って説明しろ」
ため息をつかないようにして、竜は娘に促す。
細かいことは後にして、まずはどういうことか整理したかった。
「はい。あれは濡れた衣装を着替えに、奥へ下がっていた時のことなのですが――」
◇ ◆ ◇
温泉に沈んだ竜の兄竜カナリヤを助けた後、娘はひとり、水を絞った衣装を持って生活拠点の洞穴へと歩いていた。
ほとんど何も着ていないような格好だが、竜がこの「紅き竜と巫女の領域」にかけた魔法の効果で、娘の身体は濃い湯気で隠されている。
本来は竜と娘しかいない領域だ。しかし、流行病の時や今日のように、稀な来訪者があった際は役に立つ。
着ていたものを川で軽く洗ってから、それを、滑らかで丈夫な縄と山で拾った大きな枝で作った物干しに掛けた。
今日は晴れているし、ここは体温の高い竜からそう離れていない場所だ。洗濯したものは、半日もしない内に乾くだろう。
魔法布は、洞穴で別のものと替えてから洗うことにした。
まだ、竜にこの左腕を見せる決心はついていない。
「さて、着替えましょうか」
娘は用途別に分けてある洞穴のうち、着替えや寝室として使っているものに入る。
入ってすぐの壁には、燭台と蝋燭が取り付けてある。蝋燭の芯に、首飾りの鱗をトントンと二回つつくように触れさせると小さな火が灯り、洞穴の中が見渡せるようになった。
広くも狭くもないが、娘ひとりが寝たり着替えたりするのには十分な空間だ。地面に魔獣の毛皮を敷いた寝床があり、壁際には娘の衣装がある。
といっても今朝何着か洗ってしまったので、今あるのは二着だけだ。
娘が二年前に生贄として来た時に着ていた、裾の焦げた青い衣。
もう一着は、砂漠地方と麓の村々を行き来している商人から魔法布を仕入れた際、やや強引に贈られた露出度の高い異国の衣装。
竜の兄竜は人間ではないとはいえ、後者は来客の前で失礼にあたるだろう。
そう思って青い衣を手に取った時、
「む。このようになったか」
娘のすぐそばで声がした。幼い声だ。
しかし、ここに娘以外の誰かがいるはずがない。
ないのだが。
娘は片手で腹をさする。
「そこにわたしはいない」
幼い声が言うように、半年間ここに「あった」感覚がない。
で、あれば。
「かあさま。とおよびするが、いいだろうか」
声のする方に視線を向ける。
瑠璃珠を思わせる虹彩と、藍の髪を持った意志の強そうな幼子が、娘を見上げていた。
「つまりあなたは、私の中で育った魔力の結晶なのですね?」
「うむ」
自分の着替えは後にして、娘は、文字通り「生まれたままの姿」だった幼子に青い衣を着せていく。
身体に巻きつけるようにすれば、それなりに違和感なく着付けることができた。
「ほんらいであれば、『けんげん』するのはもうすこしさきであるはずだったのだが。まりょくがみたされたゆえ、こうしてでてきたのだ」
「魔力……。ああ、お兄さんからいただいた分ですね」
「さよう。りゅうのまりょくは、きょうりょくであった。だが」
幼子は言葉を切る。
「せいちょうが、あまりにもきゅうげきすぎた。わたしは、そんざいがまだふあんていなのだ。このままではかたちをたもてず、ちかいうちにとけだしてしまう。なにか『よりしろ』となるものをよういしてもらいたい」
「『依代』ですか?」
「うむ。かあさまがみにつけている、それのようなものがいい」
そう言って、幼子は娘の首飾りを指差す。
「まりょくのつよいものがのぞましいが、それは、なかなかてにはいらぬものだろう? だから、わたしをしょうちょうするような『なにか』があればいい」
「象徴……」
娘の視線は、自然と幼子の目に向けられる。
紺碧に散らされた金の粒。瑠璃の珠のような不思議な虹彩だ。
たしか、竜が保管している宝物の中に宝玉も各種あったはずだから、頼めば分けてくれるだろう。
「わかりました。なんとかしましょう」
「ありがたい」
幼子は、表情を変えずに礼を言う。表情を動かすのに慣れていないのかもしれないな、と娘は思った。
「ところで、あなたに名前はありますか? あと……どちらでもないですよね、今のところ」
「名前はない。どちらというのは、これのことか」
幼子は着付けられたばかりの衣の裾をつかんで、ばさりとたくしあげる。
どちらか判別できる「なにか」は、そこにはなかった。
「そんざいがあんていすれば、どちらかになることもできる。わたしは、とくにひつようせいをかんじないが。どうしてもというのなら、かあさまをさんこうに『かわる』のが、いちばんはやくはある」
「まあ」
「ながながとはなしたが、『けんげん』したばかりのこのみでは、そろそろげんかいだ。もうしわけないが、はやく『よりしろ』をさがしてきてはもらえないだろうか」
見ると、幼子の髪や指先など、先端がうっすらと透け始めていた。
「わかりました。すぐに持ってきますね」
娘はもう一着の衣装を手に取る。
袖を通したことのない異国の衣装に予想以上に手間取ってしまい、着こなしがなかなか決まらない。
が、幼子の身体がどんどん透けていったため、やむを得ずそのまま洞穴から飛び出した。
◇ ◆ ◇
「と、いうわけでして」
「……」
「……」
「ははっ!」
娘の話に区切りがついた後、竜と兄竜は黙ってしまった。
ひとり笑ったのは男だ。
なにがおかしいのか。それとも物事に対して笑う以外の反応を知らないのか。
竜は一瞬だけ考えて、どうでもいいことだと思考を散らした。
「じゃあ、そのおチビは」
「うむ。かあさまのはらから『けんげん』したばかりの、まりょくのけっしょうだ」
兄竜の問いかけには、幼子の姿をした魔力の結晶が胸を張って答える。
「娘。瑠璃珠を使ったのはそのためか」
「はい。象徴するものとしてはそれが最適かと思いまして。ちょうどお母さんの逆鱗が落ちてきたのも幸いでした」
娘は、膝の上の幼子を軽く抱きしめた。
すでに愛着があるようだ。
「まあ、お嬢さんが忙しくしてた事情はわかったよ。で、だ」
兄竜が改めて幼子を見る。
「『紅き竜の巫女『の代理をするっていうのは、どういうことなんだい?」
「ことばどおりだ。かあさまがたびでふざいのあいだ、わたしがかあさまのかわりにふもとをまわる。そして、まりょくのけっしょうを『かく』としてもつわたしが、このちにただようまりょくをすいあげるのだ」
幼子は堂々と言い放つ。その姿は貫禄さえ感じさせる。
「わたしも、まほうせいぶつのはしくれ。いきるためにはまりょくがいる。そして、けっしょうのせいしつとして、まりょくのうどのていかにやくだつことができる」
幼子は娘の膝から下りて立ち上がり、二、三歩前へ歩み出た。
そして目を閉じ、自然体でその場に立つ。
竜と兄竜には、そこで何が起こり始めたのか見ることができた。
周囲をみたす魔力が幼子の身体に徐々に吸い込まれ、僅かに魔力濃度が下がっていくのがわかる。
「お、すげー。周りの空気が変わってきてんな」
男も何か感じるらしく、おもしろそうに辺りを見回していた。
「……ここまでにしておこう」
軽く息を吐いて、七歳程度に成長した幼子は目を開けた。
「ほー。身体は吸い上げた魔力で成長するのか」
「うむ。しかし、まだこのみがみじゅくゆえ、じかんがたてばもどってしまう」
「なるほどな。ま、たしかにちょうどいい性質だ」
兄竜は感心したように頷く。
「魔力の吸収、で思い出したことがあるのですけれど。私はお兄さんに触れて魔力をもらいましたが、お母さんに触れてもそれがないのはどうしてなんでしょう?」
ふと気づいたといったように、娘が兄竜に問いかける。
兄竜は、背中の小さな翼をぱたぱたと羽ばたかせて浮きながら、
「それは、我が妹とお嬢さんの魔力がほぼ同じだからだよ。魔力的に同じ生き物、とでも言うのかな。だから、魔力の行き来はないんだろう」
「まあ」
「お前はほんっと、とんでもないものになっちまったなあ!」
兄竜の言葉に、男がまた笑った。
「ところで。私の代理として麓を回るなら、この子に売り物の準備などを教えたいのです。ですから、旅に出るのは待ってもらえませんか?」
娘が、男と兄竜に顔を向ける。
「それに、この子は顕現したばかりです。ですから、あとふた月ほどは面倒を見たいのです」
お願いします、と娘は頭を下げる。幼子は、その隣で仁王立ちしていた。
兄竜と男は顔を見合わせ、そして竜の方も見てから、
「オレとクラノで話を進めすぎちゃったな。悪かった。それくらいの期間なら、おチビの『魔力を吸い上げる性質』でお嬢さんへの影響も抑えられるだろう」
「じゃー、その間俺らもこの辺に留まるか。いいだろ、相棒? 紅き竜さんもよ」
「まったく、勝手に話を進めおって。兄者もだぞ」
「悪い悪い」
そのやりとりを見て、娘はほっとしたように笑みを浮かべた。
そして、何か思い出したように手を打つ。
「そうだ、この子の名前を考えませんとね。瑠璃の珠にちなんで、ルリかラピスラズリがいいと思うのですが、迷っていまして」
「ならば、あわせてルリ・ラピスでいいとおもうのだが。ふだんはルリでとおしておけば、なまえでしばられることもない」
幼子――ルリの名前は、本人の言葉によりすぐに決まってしまった。
「なまえといえば、わたしもおききしたいことがある。かあさまはわたしのかあさまだが、『かあさまのかあさま』を、おなじようにおよびしていいものかわからぬ。紅玉さま、でいいだろうか」
ルリは竜を見上げ、「紅玉さま」の部分だけ、妙に滑らかに発音した。
「構わぬが」
祖母と呼ばれても構わなかったのだが。と思いながら、竜は了承した。
ルリは「うむ」と頷き、次に兄竜を見る。
「では、紅玉さまのあにうえさまは黄玉さまとおよびしよう」
「コハクでいいよ。名乗りはそれで通してるんだ。紅玉と黄玉じゃ、音が似てて紛らわしいしな」
「では、コハクさまか」
「虫とか葉とか入ってるあれな。色似てるだろ?」
「クラノ、前も言ったけどオレの鱗は収納用じゃないんだよ。全部に虫入ってたら気持ち悪いだろうよ。似てるからそう言ってるだけで、オレの鱗は黄玉だ、黄玉」
兄竜と竜が、呆れた視線を男に向ける。娘も苦笑していた。
「では、そういうことで」
「よろしくおねがいもうしあげる」
風に煽られて舞い上がった髪を、ルリが「ふん!」と頭を振って払った。




