1.悪竜と乙女の生贄問答
山の頂には竜が棲んでいた。
大きく鋭い爪で大地を引き裂き、禍々しい牙で大型魔獣の肉を食いちぎり、背中に生えた翼で空を飛びながら、鉄をも熔かすような炎を吐くという。
その竜は、麓の村々に悪名を轟かせていた。
人間は、竜を討ち滅ぼすために幾度となく討伐隊を出した。
しかし、硬い鱗に阻まれて、ついに一度も手傷すら負わせることができず、毎度多数の死傷者を出すばかりであった。
ある時、人間たちは竜に使いを出した。
『竜の棲家を荒らすことはしないから、人間を襲わないでくれ』
という、嘆願のようなものだった。
竜はそれを飲んだが、条件を付けた。
『人里を襲わぬ代わりに、毎年ひとり、うら若き乙女を生贄に出せ。さもなければ麓の村まで飛んで行って、すべて我が炎で灼き尽くしてくれる』
と。
使いの人間たちは震え上がり、村へ逃げ帰った。
それから毎年、村から美しい乙女が竜に捧げられている。
男たちが担ぐ輿の上で、薄絹の帳で隠された生贄が運ばれていた。
山も八合目まで来たところで、男たちは輿を降ろす。生贄が乗る輿を見やるが、みな何も言えず、力なく山道を下りていく。
しばらくして、生贄以外に人間の気配はなくなった。
生贄――十五歳の乙女はゆっくりと帳の合わせ目を開き、紗を幾重にも重ねた上質な衣の裾を少し持ち上げて輿を下りる。繊細な金細工の髪留めを飾る黒髪が、背中で揺れて艶やかに光った。
帳越しに見えていたのと変わらない、短い草が生えた、岩や小石の転がった硬そうな大地だ。
乙女があたりを観察し終える前に、地面に大きな影が現れた。
影は次第に大きく濃くなり、ついにその主が乙女の前に着地する。
地響きと轟音。同時に風が巻き起こり、砂埃が吹きつけてきて、乙女は思わず目を閉じた。
風がおさまり、乙女はそっと目を開ける。
視界に、鱗――赤というよりは紅のそれで覆われた、太く大きな前足が現れる。
鋭い鉤爪に一瞬目を奪われてから、乙女はゆっくりと視線を頭上に向けた。
大人の男を縦に三人並べた背丈の、巨大な竜がそこにいた。
全身は硬そうな、しかし宝石のように美しい紅い鱗に覆われていて、頑丈そうな顎から鋭い牙がはみ出している。背中には大きな蝙蝠のような翼がある。体温が高いのか、そばにいるだけで、熱い。
乙女は臆さず、竜に一歩近づいた。
「あなたが悪名高き竜ですか」
「人間たちはそう呼んでいるようだな」
竜の声は大気を震わす。
乙女は一瞬身をすくめたが、すぐまた眼前の竜を見上げる。
「ほう、大した度胸だ。私が恐ろしくはないのか、娘よ」
竜の口の端から小さな炎が上がった。軽く、息を吐いただけだというのに。
「あなたは強大な竜です。それは誰が疑うことでもありません」
ふっと、乙女は、ゆっくりと深呼吸する。
「ただ私は、大きくて牙と爪がすごいなーとは思いますが、特に怖いとは思いません」
「ほう」
「私はただ、あなたにもの申すために生贄に名乗り出たのです」
「ほう?」
竜はわずかに目を細める。
「おかしな娘だ。して、なにを言うために来た」
乙女はふたたび深呼吸。ゆっくりと息を吐いてから、
「私はこの生贄制度について聞いてみたいことがあったのです」
竜は腹這いに座り、無言で続きを促す。
乙女はこほんと咳払いをし、自身と同じ目線まで下げられた竜の目を、正面から見る。
乙女の背筋はぴんと伸ばされ、立ち姿は堂々としていて美しい。
「ずっと疑問でした。まず、なぜ生贄は見目麗しいうら若き乙女に限るのかと。私は生贄にふさわしい容姿を手に入れるのに、それはそれは涙ぐましい努力をしてきました」
それはそれは、大変なことでした。と、乙女は言った。
言葉のわりには、さほどではなさそうではあったが。
しかし。
艶やかな黒髪、なめらかで透き通るような白い肌。
顔立ちは端正で、その身体はほどよく引き締まりながらも女性らしい。
乙女は誰がどう見ても、竜の要求した見目麗しいうら若き乙女だった。
「酔狂な娘だな。私と戯言を交わしたとして、最後は喰われるというのにか」
「そう、そこです!」
乙女はまっすぐ腕を伸ばし、人指し指を立てた。
「年頃の娘というのは、そこまで肉付きがいいわけでもないでしょう。大きな身体のあなたからしたら、骨だらけの魚と同じだと思います。食べるためなら、肥えた人間や肉付きがいい大男の方がいいではないですか」
竜は長いため息をついた。呆れて言葉を失ったような仕草だろうか。
しかし、その主は巨大な竜。ため息は風圧が強く、乙女はバタバタと衣の裾をはためかせながら、少し踏ん張らなければならなかった。
「娘よ、知っているか」
竜が口を開く。
「男は筋張っているし、ただ肥えただけの人間は肉の質がよくない。脂肪だらけで不味そうではないか。かといって子供では、肉は柔らかいがあまりにも腹にたまらぬ。わかるか?」
「そういう風に言われますと……そうなのかも、しれませんね」
私は人間を食べたことがありませんから。
と、人を食ったような態度で乙女は返す。
「その点、年頃の娘は肉もほどほどに柔らかくて腹持ちもする。人間は見た目のいい食糧を好むだろう? 私も、どうせなら麗しい娘がよいのだ」
竜の声とともに小さく炎が噴き出し、乙女の衣の裾に小さな火が移った。
乙女はさして表情も変えず、冷静に裾をはたいて消しとめる。
「悪いな」
「いえ、お気になさらず」
乙女は澄ましたものだった。
「そういう理屈があったのですか。しかし、一年に一度では、結局お腹はもたないのでは?」
竜は、首をゆっくりと横に振る。その動作で起こった風に圧され、乙女は後ろに転びそうになった。
「麓には、お前の村を含め六つの集落があるだろう。時期をずらして娘を差し出させているし、竜というのはそこまで頻繁な食事を必要としないのだ」
「あんなに遠い集落からもというのですか! 生贄を差し出しているのは私の村だけだと思っていました。……なのに、なんて欲張りな」
「悪竜とはそういうものだ」
竜は目を眇め、鋭い視線で射抜くように乙女を見やる。
しかし、乙女も負けてはいない。竜から視線を外さず、逆に挑むような目で見返した。
「そもそも、そんな頻度で“見目麗しいうら若き乙女”を差し出していたら、村から美人がいなくなってしまいます。子を産み育てる女も」
どうだと言わんばかりに、乙女は両手を腰に当て胸を張る。
しかし竜は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「人間はすぐ増える。女が少ないなら少ないならで、お前たちは生む子供の数を増やすだろう」
「それではあぶれる男たちが哀れです」
「男は適度に減るだろう? 今でさえ、無謀にも私に挑む者がいるのだから」
ごうっ!
竜は頭を上げ、乙女が乗ってきた輿近くの茂みを炎で灼いた。
熱風から顔をかばった乙女がそちらを見やると、燃え尽きた草の穴から、数人、武装した男たちが逃げて行く様子が見えた。
「懲りぬやつらよ」
そしてまた、目線を乙女に合わせて下げる。
「……それでは、勇敢で屈強な男と麗しの乙女という、上等なものから死に行くではありませんか」
「知らぬ。数が減れば別の土地に移るまでだ」
口の端から小さな炎を出しながら、竜は傲然と言い放つ。
「ところで娘よ、思い出せ。お前が言うほど、村から麗しき女は減っているのか?」
乙女は虚を突かれたような顔をした。
頭で考えていただけで、今まであまり気にせずにいたことに思い至ったのだ。
「もういい。種明かしをしてやろう。よく聞け、娘よ」
「私は、生贄の娘など喰らったことはないのだ」
数拍、沈黙が訪れた。
「では、生贄は……?」
「それぞれの集落に帰した。別のところに行った娘もいるが」
「帰ってきた者がいた覚えはありませんが……」
「麓の村々には忘却の魔法をかけてある。村人はおろか、本人も覚えていないだろう」
乙女は顎に手をやり、今までの生贄たちの顔を思い出そうとする。
しかしその記憶はひどく曖昧で、はっきりとした像を結ばない。
「別のところに行った、というのは?」
「本人が望んだのだ。ちょうどお前と話していた時のようにな。その上で魔法をかけた」
「なぜいつもそんなことを?」
「面倒だが、ここに棲む限り仕方がない。棲家の近くを鬱陶しくうろつかれることと比べれば、この程度の煩わしさは、まあ、我慢してやる」
「もう生贄などいらない、と伝えればいいのでは?」
「そうしたこともあるが、山が騒がしくなっただけだ。ただ人間を喰わぬというだけで、甘く見られたものだ。思い出すだけでも腹立たしいことよ」
乙女は、自分がじわりと汗をかいていることに気がついた。竜が苛立ち、巨体の体温もろとも周囲の気温が上がっている。
「少し話しすぎたな」
竜は、乙女の目線に合わせていた頭を上げた。
ああ、本当に大きいな。乙女は一緒になって顔を上げ、紅の巨体を見上げる。
「さて娘よ、もういいだろう。村に帰るのだ。別の土地に行きたいならば、今のうちに言え」
「いえ。私、帰りません」
「な?」
紅き竜は、その威容に似合わぬ間の抜けた声を出した。
「お話ししていて思ったんですが、あなたといるのはおもしろそうです。人里に戻らずに、ここであなたと暮らすとしたら、けっこう楽しそうじゃないですか?」
「お前は一体、何を言っているのだ……?」
竜はわずかにうろたえた。小さな人間でしかない乙女を、まるで正体不明の生き物であるかのように見ている。
「裏も何もなく、言葉のまま受け取ってくだされば」
乙女はけろりと言う。微笑みながら。
「そうそう、日々の生活のことでしたらご心配なく。私は狩りも山歩きもそこそこできますし、このあたりは川も温泉もありますよね。時々毛皮などを売りに下りれば、お金も人間の品々も手に入るわけですし。ご迷惑をおかけすることは、ほとんどないと思います」
村々の名産品を売り歩くという手もありますね!
これは妙案と、乙女はきらきらとした笑顔で「ぱん」と小気味よく手を合わせる。
竜はしばし、細めた目で乙女を見つめたあと、
「私が魔法をかけて送り返せば、お前は今のことを忘れる」
いつもの手順で乙女を追い返そうと、魔法を展開し始めた。
しかし乙女は、
「なら、私は何度でも生贄としてここに来るでしょう」
ちょっと隣の家に行ってきます。くらいの気軽さで、恐ろしいことを口にした。
竜は戦慄した。
「もともとあなたに聞きたいことがあって美容や肉付きなどに気を配ってきましたから、生贄に選ばれるなどたやすいことです。しつこいのは私の性分ですから、忘れた程度ではきっとあきらめません。断言します」
竜はうんざりしたように頭を垂れ、深い、深いため息をつく。その風で衣がバタバタとはためき、乙女はよろけてたたらを踏んだ。
「本当に、三度もやってきたのはお前くらいなものだ」
あるところに山があり、麓には人間たちの村があった。
山の頂には紅き竜が棲んでいた。
大きく鋭い爪で大地を引き裂き、尖った牙で大型魔獣の肉を食いちぎり、背中に生えた翼で空を飛びながら、鉄をも熔かす炎を吐く。
全身を覆う鱗は紅玉と見紛う美しさで、生きた宝石のようだという。
強大な力を持つ竜は、麓の村々に存在を広く知らしめていた。
人間は、竜を討ち滅ぼすために幾度となく討伐隊を出した。
しかし硬い鱗に阻まれて、ついに一度も手傷すら負わせることもできず、毎度赤子をあやすかのようにあしらわれるだけであった。
竜はある時、懲りもせずやってきた人間たちに提案をした。
『もうお前たちの相手をするのは面倒だから、竜の棲家には立ち入るな。そうすれば人間など構いもしない』
という、譲歩のようなものだった。
竜は戸惑う人間たちにそれを飲ませ、さらに条件を付けた。
『人間が山に登るのを許す代わりに、時々山から巫女を遣わす。その巫女を適当にもてなすならば、我が棲家を除いて、自由に山に入ればいい』
と。
人間たちは怪訝に思い、首をかしげながらも村に帰った。
それからは時々、竜の遣いとして美しい巫女が人里に現れるようになった。
巫女は、珍しい毛皮や肉、麓の村々の名産品を携えてくるため、すぐ人間たちに受け入れられた。
村人の何人かは巫女に見覚えがあるような気がしたが、思い出そうとする記憶は靄がかかったようにおぼろげで、誰も巫女の正体を知ることはできなかったそうだ。
巫女がいなくなる頃には、竜と人間との関係は、つかず離れず、ずいぶんと穏やかなものになったという。