3.生贄志願の少女(前編)
空が白み始めた早朝のこと。山の中腹に、栗毛色の髪を背中まで伸ばした、愛らしい顔立ちの幼い少女リリアナが立っていた。
「待っててね、今行くから!」
紅き竜の巫女装束を模した服の裾を翻し、緊張の面持ちでリリアナは境界線を一歩、踏み越えた。
「山って! 結構! きついっ!」
リリアナは、曲げた膝に両手をついてうつむいて、上がった息を整える。
紅き竜のいる山は、高くもないが低くもない。しかし境界線より上は、生贄がいらなくなって以降、人間の手が入っていない。たまに獣道のような細い道があるだけだ。竜に挑む命知らずな一行ですら、頂上まで登るのに丸一日かかるという。
巫女は往復で一日らしいが。
もっとも、足場が悪いだけならばそこまで困難な山ではない。境界線より上で最も恐ろしいものといえば、主たる紅き竜だが、
「グルゥウゥウゥゥ……」
たとえば顔を上げた時に木の陰から出てきた、牛五頭分くらいはありそうな大きな熊のような魔獣なども、行く者を阻む脅威である。
リリアナは一瞬で体温が下がったように錯覚した。
なるべく歩きやすい道を選んでいたため、魔獣との間に姿を隠すようなものはない。あったとして、嗅覚・聴覚の発達した魔獣からこの距離で隠れ通すのは不可能だ。
熊型の魔獣の前足は大人の胴よりもはるかに太く、全身筋肉が隆々と盛り上がっていて、正直気持ち悪い。
死ぬ。ここで死ぬ。
直感した。
魔獣がリリアナに向かって走り出す。
目を閉じようとしたその時、両者の間に軽やかに躍り出る影があった。
肩までの艶やかな黒髪、白い肌に端正な顔立ち。服の上からでもわかる、適度に引き締まって均整の取れた身体つき。
なぜか村娘のような服装をしてはいるが、炎を思わせる形状の穂先を持つ、赤い槍のようなものを構えるは「紅き竜の巫女」、その人であった。
勝負はあっという間についた。
乱入者に標的を変え、巨体に似合わぬ素早さで突進してきた魔獣に対して、巫女はごく簡潔に動いた。
目にも止まらなぬ速さで、魔獣の両目を横にひと薙ぎ。
両目を潰された痛みと怒りで立ち上がった魔獣の懐に、怯むことすらなく飛び込み、腰に提げていた大鉈を胸に叩きつけ突き立てた。大鉈は深々と柄まで埋まる。
そして間髪入れずに長物の柄で喉元を思い切り突いた。
魔獣は二、三歩後退し、ゆっくりと背中から倒れていく。
「熊の肝、取れますかね。あ、大丈夫でしたか?」
魔獣の胸に片足をかけて押さえ、大鉈を引き抜き血を浴びながら、巫女は気軽な様子でリリアナに声をかけてくる。
リリアナはそれには答えず、背中からゆっくりと倒れて気絶した。
誰かの声がする。
徐々に覚醒していく意識が、声が話す内容を部分的に拾い始めた。
「連れ……てどうす……だ」
「こちら……が近か……の……よ」
ふたりいるようだ。眩しさに抗いながら、リリアナはゆっくりと目を開ける。会話はまだ続いている。
「次はしっかり殺しますって」
聞こえてきた物騒な言葉に思わず飛び起きた。
「気がつきましたか」
少し離れた場所で、いつもの巫女装束姿の巫女が顔だけリリアナの方を向けた。身体は、巨大な紅い宝石に対面していた。
しかしそれは、よく見ると山の頂に君臨する紅き竜の巨体であった。
「っ! っ!?」
声にならない悲鳴をあげながら、リリアナはじたばたと後ずさる。
「大丈夫ですよ、何もしませんから」
巫女は大したことではないという風に言う。
「で、でも今、殺すって……」
「ああ、聞こえていたんですね」
巫女はぽんと手を打って、
「あなたを助けた時の魔獣、仕損じてましてね。あなたが気絶したあともう一戦交えたんですよ。手負いの獣でしたから手こずりましたけど、今度はちゃんと仕留めました。残念ながら、熊の胆はボロボロになってしまって取れませんでしたけどね。肉はいくらか取れたので、もしお腹が空いているなら食べてみますか?」
「だ、大丈夫……いらないです……」
そうですか? と小首をかしげる巫女を呆然と見る。すると、前方から突然強風が吹いて、無防備な姿を晒していたリリアナはがつんと頭を地面にぶつけた。
一瞬、視界が暗転する。
「あらあら、大丈夫ですか? もう、慣れてない人は体勢を崩してしまいますのに」
「知らぬ」
涙目で後頭部をさすりながら身を起こすと、巫女は竜と話していた。さきほどの突風は竜によるものらしい。
目線を下げたことでリリアナは今、着ていた巫女装束を模した服ではなく、村娘の服を着ていることに気付いた。
「あれ、服……」
「そうそう。話の続きになりますが、あなたの服は洗って干してあります」
巫女が指差す方向に顔を向けると、リリアナが着てきた巫女装束もどきが干してあった。
意味が分からず、リリアナが頭の中を疑問符だらけにしていると、
「私は魔獣の返り血だらけになってしまいましてね。そのままあなたをここまで運んだので、あなたの服も魔獣の血で汚れてしまったのですよ」
私の服は、繕えないほどボロボロになってしまったので処分しました。と、巫女はさらにひと言付け加えた。
話の内容にぎょっとして、干してある服を二度見する。見る限りでは血の染みなどないが、もう一度袖を通そうとは思えなくなった。
「それで服の話になるのですけれど、あなたはどうして、あんな格好で境界線を越えてきたんですか?」
「それは……」
リリアナは思い起こす。たったひとりで、境界線を越えた理由を。
リリアナは短く息を吐いて立ち上がり、巫女と竜に向き合った。
「お願いです! お兄ちゃんを……治癒術師ヨハンを返してください!」
胸の前で祈るように手を組み、声の限りに懇願した。
「なるほど。術師さんの妹さんが来た理由はそういうことでしたか」
「知っていたのか?」
「はい。村人の顔は覚えています」
リリアナに視線を向けたまま、巫女と竜が言葉を交わす。
「おととい、紅き竜さんがお兄ちゃんをさらったのは、お兄ちゃんが何か失礼なことをしたからなんですよね!」
リリアナは続ける。
「生贄なら私がなります! 私、この通りとってもかわいいし! だからお兄ちゃんを返してください!」
「あー、それであの服装だったわけですか」
巫女は竜の顔を見上げて、小声で、
「村に直接下りたのがまずかったんですね。この様子を見るに、話を聞かない子かもしれません」
「面倒だな。手っ取り早く札か魔法で消してしまうか」
「消すって、私を食べちゃうってこと!?」
耳聡く部分的に聞き取ってしまった言葉に、ずがんと頭を強くぶつけたような衝撃に襲われる。ちなみに、さきほどぶつけた後頭部はまだずきずきと痛んでいる。
「生贄ってつまりはそういうことですけれど……。その前に、生贄はもういらないというのはご存知ですよね?」
「知ってます! でも、お兄ちゃんを返してもらうにはこうするしか思いつかなくて……」
「ふむ」
巫女は軽く腕を組んで思案しているようだ。
「心配なさらずとも、あなたのお兄さんはちゃんとお返ししますよ。私の恩人ですからね」
「恩人? どういうこと??」
「これこれこういうことがありまして」
巫女は、自身が過労で倒れたこと。竜が、巫女の看病のために治癒術師であるヨハンを連れて行ったこと。そのヨハンは今、流行病にかかってしまったこと。を、少女に説明した。
「様子が心配だったので、すぐには知らせに下りられなかったんです。ごめんなさいね」
「そういうことだったんですかー……」
へなへなと、リリアナは脱力して座り込んだ。
「じゃあ、お兄ちゃんは大丈夫なんですか?」
「ええ。まだ安静にする必要がありますけれど、あまりひどくはありませんよ」
「会え、ますか?」
「少しだけなら。あなたも治ったばかりなのでしょう?」
巫女は微笑む。つられて、リリアナもようやく笑うことができた。
そのとき。
「リリアナ! リリアナ無事か!?」
突如として、第三者の声がした。
ふたりと一頭の注目を一身に集めて姿を現したのは、短い赤髪で口の悪い、治癒術師の友人であるアカネだった。
「アカネちゃん!」
「リリアナ無事……と、巫女様と、紅き竜!?」
リリアナを探しに来た女アカネは、そこで初めて巫女と竜に気付いて目を見開いた。
「アカネちゃんどうしたの!?」
「そりゃこっちのセリフだ! ひとりで何勝手にこんなとこまで……! あ、すんません、無視してるわけじゃないんですけど、ちょっと失礼します」
アカネは、巫女と竜に向かって軽く頭を下げる。つられたのか巫女も頭を下げる。竜はふんと鼻を鳴らしただけだった。
「アカネちゃんどうやってここまで来たの!?」
「お前が歩いた跡と、途中で死んでた魔獣の血の跡を辿った! 熊の胆はダメになってたけど、ついでだから肉取ってたら、他の獣やらなんやらの気配が濃くなってきて生きた心地がしなかったぜちきしょう! 肉食うか?」
「途中の寄り道いらないよね! 肉はいらない!」
「そうか。意外と美容にいいらしいんだが」
「何それちょっと気になる!」
リリアナはバン! と両手で強く地面を叩いた。
竜はそっと目を閉じ、誰もいない方向へ、ため息でつむじ風を起こしていた。
「あの、すみません……ちょっと知った声が聞こえる気がするんですが」
また誰かの声がした。今度は、リリアナが聞き間違えようがない相手の声が。
リリアナとアカネが、勢いよく振り返る。
「お兄ちゃん!」
「ヨハン!」
「あ、そちらはまだ……」
何か言いかけた巫女に構う余裕もなく、ふたりは声が聞こえた洞穴に直行した。
「え? あ、ちょ、ちょっと待って待って!?」
慌てふためく声を無視して飛び込むと、
「リリアナとアカネ!? あの、その……」
布団で身体をかき抱くように隠した、メガネすら身につけていない治癒術師ヨハンがそこにいた。ちなみに、なぜか不自然なほど濃い湯気が出ていたため「事故」は免れている。
リリアナはへたりと座り込んで両手で目元を隠し、アカネも片手で額をおさえながら顔を背けた。
「お兄ちゃん、またなの……?」
「お前まさか、巫女様にまで」
「いや、違うよ!? いつものことみたいな反応はやめてほしいなあ! 今までだって僕は何の心当たりもないんだから!」
失望と諦観を滲ませるふたりに対し、ヨハンは片手で慌ただしくメガネをかけながら反論した。
「言ってろ。リリアナ、出るぞ」
「そんなカッコじゃ説得力ないもん」
「弁解するからちゃんと聞いてほしいな!」
必死に服か何かを探すヨハンを無視して、ふたりはのろのろと洞穴を出た。
出た先で、服を抱えた巫女が立っている。
「時すでに遅し、でしたか」
巫女は少し困ったような笑みを浮かべていた。
「いいんだ、巫女様。気を使わなくて」
「逆にごめんなさいって感じなのはこっちの方です……」
「まさか巫女様にまで累が及んでいるなんてな……」
「いえ、清拭していたのですよ? 服は干して乾いたものを運ぶところでしたし」
「それまで全裸だったってことじゃねーか」
アカネは頭を抱えた。リリアナは言わずもがな。
「あいつは無自覚にこういうことが多いんだけどさ、今んとこ決まった相手はいなかったんだ。頼りねーしな。だから、いつか誰かとくっつくんなら、それはアタシだろって思ってたんだ」
赤い髪の、化粧っ気はないが美人の括りに入るアカネは疲れたように、
「私も、お兄ちゃんがこのままずっと独り身なら面倒見なくちゃって、思ってたんだけど」
栗色髪の麗しの少女リリアナは目を伏せて、
『まさか巫女様が相手とは……』
同時に、盛大なため息をついた。
「すぐに誤解を解く必要がありますね。早速話し合いましょう」
巫女はふたりの手をしっかりとつかんだ。
「ほうほう、リリアナさんは裁縫がお得意だと。今日着ていた衣装も素敵でしたね」
「こういうのは得意なんです! 巫女様に似合う衣装も考えたりしてます!」
「ふむ。竜の巫女の普段着も、欲しいと思っているんですよね」
「リリアナの腕はたしかだぜ。それ頼んじまえば?」
「あ、やりたーい!」
竜と洞穴の中間地点に敷物を敷いて、巫女、リリアナ、アカネの三人は、衣装の話に花を咲かせていた。
巫女の迅速かつ的確な説明によって、ふたりの誤解は早々に解かれた。
そして、雑談が始まったのだ。
「じゃあ三着ぐらい一気に作っちゃう! 巫女様採寸させてください!」
「ええ、ぜひ。術士さんが気にするようでしたら、今回の件と相殺ということにしましょう」
「その方がいいな。あいつ、妙なところをきっちりしたがるから」
それで毎度こんなことになるんだけどな。と、アカネは呆れ気味に笑った。
「そう言えば、服を届けるのを忘れていましたね」
巫女は膝の上の服を持ち上げた。
「なら、アタシが持って行くよ。巫女様相手に事故起こされたんじゃマズいからな」
アカネはちらっと、岩で姿の見えない竜のいる方へ視線を向けた。
「幼馴染でしたら気心も知れていますものね。お願いします」
「私でもいいんじゃないの?」
「お前、さすがに実の妹相手に事故起こしたらタダじゃおかねーからだよ」
リリアナを制して、アカネは巫女から服を受け取った。
「ついでに説教してくるから、その間に採寸でもしててくれ」
「はーい」
「行ってらっしゃい」
アカネは立ち上がって、洞穴へと歩いていく。そして、巫女が気配を殺してそのあとをつける。
怪訝な顔をするリリアナに、巫女は振り返って口の前で人差し指を立て、いたずらっぽく笑う。
何をするつもりかわからないまま、リリアナは頷いた。
「ヨハン、服持ってきたぞ! あとお前、ちょっと説教……」
「えい」
巫女はアカネの背中をとんっと押した。
アカネはよろけて洞穴の中に消える。
そして巫女は、洞穴の岸壁と一体化していた平たい丸岩を転がし、入口をほとんど塞いでしまった。その際、細く煙を出している香炉のようなものを入口の隙間の前に置く。
「この岩は二時間程で転がって開きますから、それまでお説教などごゆっくり。リリアナさんはちゃんと村まで送り届けますので」
洞穴の隙間から何やら聞こえてくるが、言葉としては聞き取れない。巫女はそのままくるりと踵を返してリリアナの元へ戻ってきた。
「巫女様、何をしたんですか?」
「じれったかったのでね。でも大丈夫、心配することはありません。さあ、支度をしましょうか」
巫女はにこにこ笑いながらそう言ったのだった。




