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恩師からの手紙
前略 ○○様
お疲れ様です。ついつい長いこと返事をせずにほったらかしてしまいました。筆無精の私は文章を書くのがどうしても億劫で、後回し後回しにしているうちにいつの間にかほったらかしていることが少なくありません。決して意図的に無視を決め込んでいたわけではないのです。
さてそれはいいとして、先日あなたから頂戴したお手紙を読ませて頂きました。まずは生活の方が順調なようで、安心しました。あなたが小説を書くのをやめて、まっとうな社会人として生きていくと決心し、私にそれを宣言したとき、私は内心半信半疑だったのですから。あなたのように正直に言って自分の心の中の述懐ばかり得意なくせに、実際に他人と言葉を交わすのは笑ってしまうくらいへたくそで、他人が何を言えば喜ぶか、何を言えば怒るかといった人間感情の機微に疎い人が社会人としてやっていくのはさぞ大変なことだろうと思い、私も他人事ながら目の前で人が傷ついてぼろぼろになるのは忍びないことと感じ、このところ陰ながら心配をしていたのです。人間あまりに心配しすぎると何と返事をしていいかわからなくなるもので、手紙をほったらかしにしておいたのも一つにはあなたが心配でならなかったからなのです(妙な帳尻合わせですね)。
しかし人間やってみればどうにでもなるものですね。社会性がないためにコミュニケーションで躓くというのはおよそ予測通りだったとしても、それでも君が望んでいたまっとうな人間になるためにはそれで十分だったようです。むしろ君のような不器用な人間の方が却って人から信頼される傾向さえ世の中にはあるくらいで、君はあまり主張をしない分だけ人の話には熱心に耳を傾けるし、気の利いたことを言えない分礼儀作法はわきまえているし、どうしてどうして、立派な社会人といっても差し支えないんじゃないでしょうか。
私はてっきり君が文学にしか興味のない人間だと思っていました。いや、君自身確かそう言っていたはずです。しかし本当は違ったんですね。君にはもっといろいろな、想像もしきれないような多くの可能性が秘められていたのですね。それをわざわざ文学だけに限定して、自分の視野と可能性を自ら狭めるようなことは、今考えてみれば実に愚かなことでした。文学とは何なのか、君の中では恐らくまだ決着がついていないものと思います。でもそれはそれとして頭の隅にいつも置いておいて、何かの拍子にふと答えらしきものがでるのをじっくり待つ他ない様な気がします。文学に関しては、それで十分だと思います。その上で、君の生活の中で、様々な経験を通して、改めてもっと大事なものを見つけていけばいいのではないでしょうか。今それがわからなくたって一向に構わないと思います。そのうち何となく見えてくるでしょう。今私が君にそれを教えてやることはできませんが、ただ「いつか道は開けるのだ」という思いを持って、前向きにやっていってほしいと思います。
さて、おこがましいようですが、私から君に忠告というか、いや、むしろお願いですね、それを書かせて頂きたいと思います。お願いというのは他でもない、文学は捨てても文学性だけは捨てないで欲しいということです。いや、私にこんな事を言われなくても、君が文学性を捨てるような事はないということは分かっています。恐らく捨てようとしても捨てられないくらいなのではないでしょうか。しかし人間どこでどう変わるか分からないものです。ひょっとすると君から文学性を奪ってしまうような救いようのない状況が明日にも襲ってこないとも限りません。そんな時にでも君が今のままで変わらずにいてくれる事を願って、大丈夫と思っていても念を押すように私はこれをお願いするのです。