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もうやめだ。下らないのにも程がある。所詮文学なんていうのはただの自己満足をさも偉ぶってお高くとまったまま押し売りするペテンに過ぎないのだ。じゃあ文学は何故ここまで人を魅了するのかって?そりゃ自分も一緒になってお高くとまれるからだ。無論それには知性は必要である。文学が理解できないよりは理解できた方が精神的に豊かには違いない。だが理解できるから偉いわけでも、また幸せが保証されているわけでもない。むしろ文学は傲慢で、その上不健康である。人の生活を丸ごとそっくり飲み込んでしまう事だってある。いっそのこと分からない方がいいくらいだ。読むだけならまだいい。それを書くとなると、事態は更に深刻である。自分の書いた物を唯一無二の素晴らしいものと思い込み、人にそれを認めてもらいたくて身悶えしているのである。実際には文章はどこまでもただの文章なのである。眉間にしわを寄せて神妙な顔つきで書いてみた所で、それは第三者から見ればどこかの馬の骨が書いた駄文に過ぎないのである。深い意味が込められている様で、実は作者でさえも大して意味が分かっていないのである。行間を読め、などとほざいても、行間には何も書いていないのである(行間に何か見えるとしたら、それは極度の乱視に違いない)。それを何故だか知らないが宗教じみた敬虔さでもって崇め祀っている馬鹿馬鹿しさよ!私はこれらの欺瞞、及び自己欺瞞を、残りの紙面を余す所無く使って糾弾してやろうと思う。文学が何だ。単なるねずみ講じゃないか。偉い作家先生だって煙草をふかして脚など組んで見せてはいたって、本当は何一つ分かっちゃいないんだ。ただ自分は作家先生である、というところにのみ生き甲斐を感じている俗物に違いないのだ(たかが作家を先生などと呼ぶ事にすら俺には違和感が感じられるのだが)。でなければもっと明瞭簡潔に自分の思う所を吐露したらどうなのだ?回りくどい言い方ばかりして惑わせやがって、行きつく所は結局何にもない、稚拙極まる空っぽのポエジーじゃないか。馬鹿にしやがってこの野郎。金が欲しいならもっとやりようはある!名声が欲しい場合も然りだ!金もない、頭もない、体力も度胸もない、見てくれも悪い、その上自分は何か特別な存在だなどいい歳こいてまだ抜かすのか!往生際が悪過ぎるぞ!全部諦めて、全部捨て去って、どこまでも道理に背いて生きて見やがれ。それが出来ねえやつに芸術がどうのこうの抜かす権利はねえよ。小心翼々の俗物、小市民のくせに偉そうにしやがって!
大体な、世の中にこんなにも膨大な数の本が必要か?大事な大事な一言を聞く為に、ただ一つ二つの物語を理解する為にそんなにも長ったらしい文章が必要か?もったいぶって、持って回って、あんなにも分厚くしやがって。読む方の身にもなってみろこの野郎。むちゃくちゃ時間かかるし、眠くなってくるじゃねえか!こんなに長ったらしいものを苦労して読んでも何一つ学ぶ事がないとは驚きだな。俺には無理だね。いや、学ぶ事がないからこそ文学なのかも知れねえな。何かしら勉強になる専門的な事を書かなきゃならないんだったら、これだけ多くの有象無象が作家志望になんてならないだろうからな。何にも知らんやつの最後の砦だよ、作家なんてのはよ。才能だと?奴らにあるのは才能ではなく権力だろうが。文壇なんていう訳の分からん閉鎖的な猿山でちょっと高い位置にいるだけじゃねえか。サラリーマンと何も変わらねえよ。奴らにあるのは創造性でも文才でもなく処世術だね。
なにも文学をやる事自体を非難しているわけではないさ。好きな奴はやればいい。だがそれが何故こうも権威を持ち続け、飯の種にまでなるんだ?あろう事か文部科学省指定の国語の教科書にまで小説文が載っている始末だ。現代文の教育なんて評論文だけで充分だし、そもそも日本語なんて悠長に読む暇があったら貧相な英語力を何とかしろ。夏目漱石の作品を読むよりも漱石くらいの英語力を付ける事の方がよほど重要だ。ともかく現代文など勉強するものじゃないし、まして小説など読ませるのは愚の骨頂じゃないか。文学なんて娯楽、良く言っても文化であって、学問などでは断じてない。
確かに文学は他の芸術と比べれば芸術性の高い芸術かも知れない。音楽も美術も世界の中の一部に過ぎないが、文学は言葉という抽象概念を用いてこの世界とは全く異なる世界を作り上げるものだ。そういう意味では、文学は芸術の中の芸術だ。だがそれが一体どうした?私たちは紛れもなく「この世界」に生きているのだ。他のどの世界でもない「この世界」に!生きている限り誰一人「この世界」から逃れられない。芸術性が高い行為ほど、現実逃避的意味合いもまた色濃くなるのであり、しかもそれは最初から実現不可能だと分かっているのだ。現実逃避できないことが分かりきっているにもかかわらず現実逃避を行ったふりして、そのくせ内実は現実世界にどっかりと腰を据えたまま大飯を食らい楊枝片手にふんぞり返っているとは一体どういう了見だ?
大体な、上手い嘘をつくことがそんなに偉いか?ぺらぺら口からでまかせを言いやがって!大方賭博ですった金を取り戻したいだけとかなんかだろ?中身なんかどうだっていいんだろ?美文だと?文章が美しくなるものか!それは文章じゃなく言葉が美しいのだ!美しい言葉の組み合わせをコーディネートしているだけだ。ではそもそも美しい言葉はどうやって作られるか?何のことはない、「美しいぞ」と事前に言っておけばいいんだよ。美しい顔立ちの娘さんが美しい桜の木の下で美しい立ち居振る舞いをしていました。これで美文の出来上がりさ。阿呆らしい。
第一よ、どこの馬の骨が書き散らしたか分からん文章なんて一体誰が金出してまで買うんだ?知らん人がネット上に書いたブログを金出して読むのかね?そうじゃねえだろう?
「これは素晴らしい作家が書いた、文学史上屈指の名作ですよ!」という触れ込みがなきゃ何も価値なんかねえだろう。面白いとか勉強になるとか、あるいは独特の感性がどうのこうのとか、そんなものの一切はお追従に過ぎねえだろう?違うだと?じゃあ面白いかどうか何て文壇や出版社が勝手に決めるんじゃねえよ!そんなものは読んだ奴が決める事だよ馬鹿野郎!巻末に付いてる「解説」ってありゃなんだ?価値の分からん君たちに偉い先生が教えさとしてやるよってか?先生、世間の評判はさておき、玄人の目から見ればこの作品は大変素晴らしい作品でございます、ええ、こんなに芸術性及び創造性に富んだ近年まれに見る名作を書けるのは現代作家のなかでは先生くらいのものでございます、つきましては私の作品の帯を書いて頂く時にも何卒よろしくお願い致します、へへへ。お前らがやっているのは政治経済であって文学ではねえよ。
「そりゃ大人の世界だもん、人間関係難しいんだもん、女房子供もいるんだもん」
良かったですね先生。これで食いっぱぐれる事はおろか、世間様から後ろ指をさされる事もございますまい。お互い持ちつ持たれつ、株の持ち合いは日本人のお家芸ですからな!これも我が国の伝統芸能を守る文化人の端くれとして極めて前向きな姿勢と評さなければなりますまい。
おふざけはここまでだ。まだもう少しだけ黙っていてもらおうか。誰が何とこき下ろそうが、これは紛れもなく俺の作品だからな。書く権利は俺だけにある。だからとりあえずあんたにはもう少し黙っていてもらおう。
少し腰を据えて話をしようじゃねえか。文学の話をよ?そんなにかしこまるこたぁねえ。俺なんて所詮文学部すら出てないんだから、文学に関して学術的な知識なんか殆ど持っちゃいねえんだが、人間がこの長き歴史の中で連綿と言葉を紡ぎ、文学を造り出した意味を考えてみよう。
文学のルーツには諸説あるらしく、未だ正統の文学というのがどういうものなのかはっきりしない所が多いが、俺にはどうも「自分との対話」という意味合いだけは洋の東西を問わず、最初から今に至るまで一貫してあったのではないかと思われてならん。人に何かを伝えたいとか、あるいは後世に遺したいとかいうのであれば、何も大変な思いをして文章など綴っていくこともあるまい。せいぜい琵琶法師にでもなってかたり伝えれば良いわけじゃないか?それを文学というあらたまった、目に見える形にしたのはどうしてだったのか?一つには自分の世界を言語という第三者と共有可能な媒体の形式に則って整理し、他人に伝えるという意図もあっただろう。しかし文章にしたためる目的は本当に他人に伝える事だけが目的だったのだろうか?俺はそれが第一ではないと思っている。第一の目的は自分の世界を自分がもっと明瞭な形で表現され、自分の事をより客体化する事ではなかったかと思う。客体化された自分と主体的な自分の間にはなお差異があって、それは違う、それはこうだ、という自己の客体と主体との対話を起すことが出来る。そしてその対話は世界と精神の差異を解消するために行われるものだ。つまり主体にせよ客体にせよ、全て自己の為に行われているものだ。自分がここにいる事の違和感、不思議さを何とか埋めて世界と精神の決着をつけたいと願う一種の儀式である。この永久に答えの出なそうな、ある意味不毛な儀式。これが元々の文学のルーツであり、今なお時代遅れなどと言われながら文学がその価値を少しも失わない根本的な理由ではないか。これは私見だが、俺はこれが文学をすることの見逃せない意味だと思っている。
だから、俺は商業目的で文学なんてやる事が許せないし、例え俺が何かまかり間違って作家になる事が出来たとしても、絶対にそれは変わらないだろうと思うんだ。とは言え俺が作家になれる見込みは今の所ないし、なれたとしたって売れる事なんてさっぱりないだろうと思われる。だから何を言ったって僻みにしかならねえ。だけど(だから?)せめて自分に正直に書いていきたい。それだけを願っている。明日にはどこからか違う風が吹いてきて、そんな意固地な思いを吹き飛ばそうとするかも知れないが、今はそれしか考えられねえよ。