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彼はついに書くことに倦んだ。人生最大の敵は倦怠だとはいえ、倦んだくらいで書くことをやめる彼ではなかった。もうとっくの昔から倦んでいるといえば倦んでいるのである。それでもこれまでは何かを書かねばならないような使命感に駆られて、絶え間なく筆を走らせてきた。創造の意味は生存の意味と同様に根源的な価値であり、そこに「なぜか」の疑問符をつけてはならないというのが彼の中での暗黙のルールだったのである。
しかしこの時にはその使命感すら何かしらのまやかし、というより一種の自己欺瞞、お仕着せのお為ごかし、あるいは理由が行動の後にくる言い訳めいたものとしか思えなかった。そしてまた書かねばならぬなどと甚だ職業的な倫理観を自惚れと自己満足のために利用いているような気がした。
常識的に考えれば、この時の自業自得の状況においては、やり場のない思いが徒労感や無力感となって自分自身に向けられなければならないのかもしれない。が、彼の場合なぜだかそれが怒りとなって他の誰とも知れぬ「世間」なるものに向けられた。本当に自分勝手な人間である。自分で自分の首を絞めた挙句、ついには自分がなぜこんなことをしなければならないのだ、自分にこんなことをさせたのはいったい誰だ、と怒り出したのである。だが一方で彼はかなりの程度自分を客観的に見つめることのできるタイプでもあった。自分が何をしているのか、世間の物差しでほぼ正確に測ることができた。そうすると自分が自立心のない子供のような振る舞いをしていることくらいおおよそわかっていたに違いないのである。わかっていながらあえてやる。言わば彼の怒りとは演技と紙一重の違いのもので、心の奥には冷めた目でそれを見守る自分がいた。そしてこのもう一人の自分の存在こそ、彼が最も忌避するものであった。彼のしたいことは結局のところ、冷めた分析眼やら理性やらの枷を逃れたかったということに尽きるのかもしれない。だがどうやら作者は先を急ぎすぎたらしい(ドストエフスキー風)。とりあえずはそうした妙な性質をもった彼の怒りに耳を傾けてみよう。