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それにしても、何故私は先日こんな大げさな、思わせぶりなものを書いたのだろう?今読み返してみてもさっぱり記憶にない。きっと酒に酔っているときか、さもなくば睡眠薬を飲んだ時に書いたのだろう。あるいは両方やったかも知れない。私はたまにそんなことをしでかしてしまう。自分のフィルターを一切通さず、天から降ってきた言葉をそのまま書き留める。それはきっと所謂シュルレアリスムにおける自動筆記に近い手法だろうが、果たしてそうやって書いたものを読んでみても意味が通じていないばかりか、殆ど書いた記憶すらも無く、ただ首を傾げるばかりである。自分の書いた物に責任の持てない作家など作家と言えるのかどうか、考えてみるとかなり微妙な所である。
私はいつも夜、仕事から帰ってくると、洗濯をして風呂に入り、暫し読書をして、寝るまでの一時間程度運筆する。たまに早く寝てしまって朝書くこともあるが、大概は夜の方が調子が良い。そういうわけで、今日も夜遅くにこれを書いているわけだが、さっきからどうも様子がおかしい。そわそわと落ち着かない。腰を据えて書く気になれないのだ。そしてその理由は分かっている。明日から、仙台の実家に帰り、その足で家族と一緒に弟の勤務先である鳴子温泉に一泊二日でいって来る予定だったからである。丁度お盆の時期というのもあり、先祖の供養も兼ねて温泉宿にでも一泊というわけだ。そこに弟の転勤が急に決まり、鳴子温泉という国内でも有数の温泉街に住む事になったから、これもご縁ということで早速家族総出で弟の新居を見物しがてら温泉にでも浸かろうという次第である。今、その壮大なお盆の計画が始まる前夜なのである。私は次の日、午前中に実家に到着する為、早起きしなければならなかった。それを思えば夜中に執筆などやっている場合でない事は重々分かっていた。が、やはり作家というのは日常の些事よりも書く方を優先すべき種族であるから、明日がどうであろうと今書かなければならぬというということが直感的に分かっていた。いや、作家にとっては身の置く所、森羅万象、書く為にあるのだ。どこに行ったって書く材料など山ほどあるのだ。それを思えば何も今に拘って書かなくたって良さそうなものじゃないか?いや、それは違う。作家は正に「今」書かなければならないのだ。例え大地震が起ころうとも、予期せぬ天変地異が起ころうとも、増して明日早起きしなければならなくとも、今しか書けないものがある。それを書かなければ今を生きている理由がない。間違っているだろうか? いや、それは間違いないだろう。
そういうわけで、私はいつものように仕事から帰ってくると服を着替え、洗濯物を洗濯機に放り込んだ。洗濯乾燥機は便利だ。干さなくてもいいくらいに完璧に乾かしてくれる。取り出してたためばもう終わりだ。さすがは日本の科学技術だ。そして私はその恩恵を受け、余った時間を執筆に当てる。その姿は何だか優雅すぎて、切羽詰まって何か書く材料はないかと絞り出している作家のイメージとはほど遠い。そして私の執筆時間は短い。私は、執筆に一時間以上はかけたくない。苦しむのが嫌なのである。
ここまで書いてきて、思った事は、私には才能がないのだろうという事だ。どうしても、私は何を書くべきなのかが分からないのである。ウィトゲンシュタインによれば「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」そうだが、それは本当にそうだろうか?我々には、突如何かが憑依するということがないだろうか?そのとき、何の前触れも無く語り得ぬものは語り得るものに早変わりする。いや、正確に言えば、語る事によってそれは語り得るのだ。そういうものをこそ書かなければならないと、私は考えている。するとやはり沈黙していてはいけないわけだ。
ともかくも、私には才能がない。この致命的な事実を察知すると同時に、私は書くのを止めてベッドに寝転んだ。そしてぼんやりと白い天井を見つめながら一つ、深い溜め息をついた。どぶ川のように淀んだ時間が音も無く、ゆっくりと流れる。エアコンの送風の音と、外の虫の声が微かに聞こえるだけだ。今日は何も書けない。多分明日も書けないだろう。もう投げ出してしまおうか。何もかも全部。向かないものを無理して続ける事ほどの不幸はないだろう。しかしそれを言ったら私は生きる事を止めなければならない。向いていないのだから。ともかく今日は何も取り憑いてはこない。寝ようか。こうして一日一日が無意味に過ぎて行く。ただひたすら、過ぎて行くのだ。もうこれにはどうやっても抗うことができないだろう。無力なのは皆同じだ。皆別々の世界を生きているのだから。我々は皆手の届かない所に必死で手を伸ばし続けなければならない。それがどんなに虚しい努力なのか、最初から分かりきっている。それでも皆がそうした頽落を捨てきらないのは何故だろうか?これは考えてみると実にふざけたパラドックスだ。何をするに付けても、それはあなたでなくてもいいのだ。あなたである必要はないのだ。見たか、あいつらそれを自分が自分がと喚き立てている。そして私はそれにもう憎悪すらも持てない程に脱力している。ああ私ももはや頽落と共に生きるしかないのだ。ビールを少し飲んで寝よう。
また夢を見た。下らない連中の首を枝切り鋏で切っていく夢。実に痛快だ。私はやはりこうでなきゃいけない。小気味よい叫喚。不思議な事に人間というのは首を切られても声が出るんだな。これが私を奮い立たせる。でもどうせやるなら日本刀がいいなあ。何で枝切り鋏なんだろう?まあチェンソーよりはましか。ちゃんと感触はあるからな。生肉の感触。焼き肉屋でよく鋏で肉を切るやつがあるが、あれに似ているかも知れない。しかしそれが指だけじゃなく両腕に伝わってくる。人の脂でぬらぬらと刃渡りが光っている。そして私は調子に乗って次から次へと首を切っていく。ところがふと見ると、今首を切ろうとしている人間がどう見ても自分である。えっ、と言って辺りを見渡すと、自分の生首が何十何百とゴロゴロ転がっている。しかもそれらは横たわり口から血を流しながら、皆気味の悪い薄笑いを浮かべているのだ。
ああ何故私はこんな事をしているのだ?私はこの世の醜さを厭い、憎くてたまらないやつの首を切って清々していたのではなかったのか?くだらない連中、人間の屑と切り捨てて何の良心の呵責も感じなくて済むような連中、他人の不幸を食い物にしている連中、彼らは他ならぬ私だったのか?
私は何か叫んで、目を覚ました。じっとりと寝汗をかき、涙を流していた。私は浴衣を着ていた。ここは鳴子温泉の旅館だ。そうだ、私は家族と温泉宿に泊まりにきていたのだった。父親、母親、弟が私の叫び声で飛び起き、こちらを凝視している。私はそれを看過して布団を被り、また眠りに落ちた。若干の罪悪感を感じながら、私はそれでも易々と眠りに就いた。
翌朝、朝食時に母親が私を問いつめた。
「お前、何か精神病んでるんじゃないの?」
「何でもないよ」
私は内心忸怩たる思いがないでもなかったが、何も気にかけない様子で答えた。私が首を切った人間の中に、母親の姿もあったのだ。私はそれ以上何も答える事が出来なかった。どうすることもできない疾しさを、私は冷たい麦茶を一口に飲む事で押し流した。今頃それは私の臓腑の中で疼いているだろう。何も気にする事はないんだ、気にする事はないんだ、と。そればかり唱えていた。私は途方に暮れた。悲しかった。
もうこんな話をするのはよそう。最近私は煙草をやめたのだ。これは私の生活に大きな変化をもたらした。部屋の空気は始終綺麗だし、仕事中も一々煙草を吸いに席を立たなくてすむ。くわえて精神状態も心なしかかなり安定してきたように思える。そして何よりも大きいのは、私の中に徐々に健康志向が芽生え始めてきた事だ。健康的な生活がしたい。この願望は、やがては私の創作態度にも影響を及ぼし始めた。もう、退廃的な作品は書きたくない。もっとしっかりとストーリー性のある、教訓的な、学ぶ所の多い作品を書きたい、読者への奉仕に繋がる作品を書きたい、そう思った。決して文学は書き手の為にだけ存在するのではない。認められてこその芸術じゃないか。私は今まで反吐が出る程忌み嫌っていたそういった考えを、いとも簡単に受け入れ、あろう事かそれに拘泥さえしたのだ。しかしそれからというもの、私は作品が書けなくなってしまった。何とも皮肉な話である。他者への奉仕は、私にはどうも向かないらしい。向かない事をやっても無駄なのだ。私にはどうやら自分の事だけ考えて生きているのがお似合いらしい。そうすると私は、少なくとも書きたいと思わない時には、書く必要がないのではないか?いや、もっと言えば、書きたいなどと思わずに、ただ心の中で呟いておけば充分ではないか?私一人が泣こうが喚こうが、宇宙の歴史から見れば、いや、人類の歴史から見てさえも全く何という事はないのだ。書こうが書くまいが、何に対しての影響も及ぼさないだろう。今死ぬのも、百年後に死ぬのも大した違いがないであろうように。ところが、私は気付いてしまった。私にとっては私が全てだという事に。つまりどんなに詰まらないものでも、私にとってはそれが全てなのだから、大切に、よく考えて、一歩でも前に進まなければならないのである。どんなに意味のない、限りなくゼロに近い事でも、それは決してゼロではなく、某かの微細な、顕微鏡で見なければ分からないような意味が存在している。そしてそれが私の全てなのだ。その為に私は一生をかけて孤軍奮闘しなければならない。出来る限りの努力をしなければならない。それが人生なのだ。そして言うまでもなく、人生なんてもの凄く些細なきっかけで立ち消えになってしまうものだ。最近、私が朝目を覚ますと、大きなスズメバチが部屋の中を飛び回っていた事があるが、あれだって寝ている間にさされていたらもう二度と目覚める事はなかったかも知れないのである。人生ってそんなものだ。理不尽であっけなくて、自己中心的なもの。それでも私にとって、それが全てなのだ。
結論、私は、何の価値も無いものを、何の意味も無く、書きたいと思わなくても、書かなければならない。そう、例え書けなかったとしても。
私は元来、健康志向の似合わない男で、不健康になればなるほど不思議と不安が解消されていくのである。いや、解消されるわけではないが、少なくとも内なる自分とのズレの様なものを感じずに済むのである。逆に言えば、健康は私を不安にするという事だ。私は最近の健康的な生活において、大変な不安を感じている。不安というか違和感というか、自分の姿を消して生きているような、世をすねて生きているような、そんな気がするのである。これで良いのか?これで良いのか?心中を巡るこの問いを欠伸でかみ殺すくらいに平和な時間がまた許せないのである。平和が一体なんだろう?仕事をしなけりゃ休息に意味がないのと同じで、闘争がなければ平和にだって大して意味がないのだ。私はそんなわけで、たまに誰彼問わずに怒鳴りつけたくなる、殴り倒したくなる。しかしそれは法律に触れる。最近では法律すらもまやかしに思える。これを破った先に桃源郷が広がっているような、そんな気さえするのである。だが今の所、それは実行に移せていない。私は「怒っちゃいけない」「喧嘩しちゃいけない」そういう過保護な信念の元に産まれ育ったのだ。この国は敗戦国なのだから無理もないが、やはり喧嘩をしなければ平和はあり得ない事を知るべきだ。多くの日本人が太宰治の『人間失格』に共感を寄せることからも、如何に弱さに悩む日本人が多いかが汲み取れる。そんなものを簡単に脱する事が出来るわけがない。増してや私は他の人間が傷ついたり嫌な思いをしたりするのが我慢できない質なのだ。そういう心の中の障害を突き破って攻撃する事など、私は恐ろしくてたまらない。しかし今はダメでもいつの日か、やってやる。考えてみれば攻撃性を露にすることは人間として自然で、健康な状態であるはずだ。不健康は、実は健康なのだ。
秋はまだか。残暑がしつこく、九月になってもろくすっぽ涼しくなりゃしない。体温は高く、されど気温は低く。それには秋がちょうどいい。秋になれば何でも出来るような気がする。秋はまだか。
今更。そう今更だ。そして今更と思ったときが、なすべき好機だ。正直に言って、私は誰かに愛されたいのだ。孤独など恐れちゃいない。愛などくそくらえだ。だが馬鹿げた事に、私は誰かが見ていてくれなくてはならない。それが神だろうと乞食だろうとかまわない。そしてそんな私に必要なものは金だ。金なんて誰だって必要だと言いたいのか?しかし私こそ真に金を必要としている者だ。私は金を作らなければならない。だからと言って非現実的な方法で作ってはリスクが大き過ぎる。地道に金を作らなければならない。私には大した収入がない。毎月こつこつと決まった額積み立てていかなければならない。これは何故なのだ?現状の自分には嫌気がさすばかりだ。
愛されないから金が無いのか、金が無いから愛されないのか。それが問題だ。