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それから何日も経たない日、彼は珍しく自宅で手帳に小説を書きつけていた。しかし内容はといえば先日の内容とは何の関連も持たないものであった。というより、彼は一度書いたものを片っ端から忘れてしまう性質だった。今日には今日、明日には明日、その時々で書くべきものがあるというのが彼の言い分だったが、それは後付けの理屈で、実際には彼は自分が既に書いてしまったものにさしたる興味を抱くことができなかったのである。彼の注意は専ら今何を書いているのか、あるいはこれから何を書くべきかといったことに向いており、過去に何を書いたかというのは昨日何を食ったかということほどにどうでもいいことなのであった。それでも時折は自分の書いたものを覗いてみることもある。自分が書いた内容をすっかり忘れた後で、そういえば自分は何を書いていたっけ?と、ほとんど気まぐれにではあるが悪戯な気持ちで読んでみるのである。すると自分が書いたものを読んでも「ああ、そういえばこんなことも書いたっけ」と思い出す感覚はまるでなく、一文一文に身に覚えがなく、誰がそれを書いたのかさえ全く分からない有様だった。それどころか自分が書いたはずの文章を読み直して、あまりの馬鹿馬鹿しさに軽い憤りすら覚えることもある始末であった。この日はちょうどそういう日だった。それでも彼は書こうと思った。今のこの書かないほうがいいであろうのに書きたいという妙な気持ちを、書きつけておこうと思ったのである。しかしそれすらも彼は書いていく先から忘れていくのだった。彼は言わば記憶の波にさらわれそうな時間の先端を絶え間なく歩んでいるので、殆ど時間の概念を持たない無機物のようであった。
しかし彼の態度は、一言にいって自由に満ちていた。自由は常に彼の内側にあった。人間みな昨日までのことを忘れられたら、昨日と何の関連もない今日を生きられたらどんなにか自由だろう。昨日から今日、今日から明日へと連綿と何かを繋いでいくことで私たちの両足にはめられている永遠の足枷がどうしたら外されるだろう。これは何もよく言うライフスタイルの自由とか、働き方の多様化などといった話ではない。もっと根源的な、存在論的な、誰もが思わずにいられないような話である。
あなたがあなたであることは、昨日から引き継いできたもので、引き継ぐのをやめるわけにはいかないだろう。すると今日もあなたは相変わらずあなたであろう。今日そうであれば明日もきっとそうだろう。そしてあなたは一生それを続けることになるだろう。たぶん、死んでもそれは変わらないだろう。片時もあなたはあなた以外のものではありえず、あなたを離れてものを考えることは決してできず、そもそも外見上のあなたと意識上のあなたは完全に同一のものでなければならず、「客観」などということは起こりえないのである。実はあなたがそう思っているだけ。あなたが存在するということでさえも。そしてそれを意識することが「自由」というものだろう。言わばそれは全ての解釈が自分によるものだと認める事なのだ。自由などというものはありえないと、認めてしまうことこそ自由への端緒だというのは皮肉な話だ。




