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失神  作者: 北川瑞山
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 一番いいのは、心に映った事を、何の飾りもなく書く事だろう。私はもはや何者でもない。ただの一時の風景の中に配置された一部でしかない。作為だとか思考だとか、そんなものの所有権があろう筈も無く、ただ何かに導かれるままに書く事だけが許されている。それが嫌なら今すぐ擱筆し、どうにでも好きに生きればいい。けれどもそこには何の幸福もない事を、私は知っている。悲しいかな、私にはもう一つの方法しか残されていないのだ。それでも私は…いや、よそう。私はとにかく書く事を止めるつもりはない。ただ確実なのはそれだけだ。

 書く事は生きる事だ。それはずっと前から変わらない、何故書くのか?という疑問に対する私の回答だ。すると、とりあえず生きようと思ったら書かなければならぬ、書こうと思ったら生きなければならぬ。そういう事だ。何か間違っているだろうか?間違いだらけか?

 例えば酒を飲んだ時には、そんな事を考えられずにいる。だがそれ以外は常に、生きる理由などという、どうしようもないことについて考えずにはいられない。そして暫く考えていると、全てがどうでも良くなって、どうしようもなく死にたくなる。しかし元より死ぬ気はない。死ねないからまた生きる事にする。毎日がこれの繰り返しだ。そういうサイクルに歯止めをかけるには、どうしてもこれといった使命がなければならない。それが例えその場限りの、姑息極まるものであってもだ。それが書く事だと、私は思った。起こった事を書く。それは神が私に与えてくださった事を明確に記録しておく事に他ならない。私は、その事によって神に感謝できる。他の有象無象、何やらかんやら、くだらない事を一掃出来る。生きていて良かったと思う事が出来る。これは無神論者などには与えられない幸福であり、やはり私は慎ましやかでもそうした幸福が欲しかったのだ。書く事は神から与えられた命綱だ。

 そういう事で、酒を飲んで寝た。酒は基本的に飲まないことにしているが、知り合いの金沢土産で日本酒をもらったので、このときは折角だから飲んだ。別段どうということもない。普通に酔って普通に寝た。

 すると夢を見た。概ね二つのシーンを未だに覚えている。一つは電車に乗っている夢だった。私は座席に座っている。車内は座敷が全て埋まり、立って吊革につかまっている人もちらほらいるくらいの混み具合だった。ふと気がつくと、私は下半身に何も履いていなかった。何故かパンツやトランクスが足首のあたりまで引きずり下ろされている。しかもそのことに周りの誰一人として気づいていない。みんなそっぽを向いている。私は焦ってパンツを履こうとするが、どうにも思うように手足が動かない。ああいつ気づかれるのだろう。気づかれたらどうなるのだろう。私は正に地獄の淵にいる。背水の陣だ。私は不安の中、全てを諦めた。そして私が次にしたことは、さらに愚かなことだった。自分の他にもパンツを下ろしている奴がいないものか、周りを見渡し始めたのだ。その後の記憶はない。そこで途切れている。

 もう一つは、実家から逃げ出す夢だった。何か母親が金切り声を上げていた。理由はよく分からないが、それが不快だった。ここから立ち去らねばと思った。私は自分の傘を広げ、下ろくろを握ると、勢いよく傘を開閉させた。すると私の体は宙に浮いた。開閉を加速させると、更に上まで上がっていく。遥か下には追いかけてくる母親が小さく見える。自転車に乗っているようだ。最寄りの駅まで追いかけてくるつもりか。それならどこか適当な所で地上に降りて、タクシーを拾い、そのまま駅を経由せずに自宅に帰ろうかと思った。果たしてその通りになった。私は人気のない山道で拾ったタクシーに乗り込んだ。すると私の隣の座席に、何故か弟がいる。弟も一緒に逃げてきたらしい。

「一体どうしたんだ?事情を聞かせてくれ」と弟は言う。

「向こうに着いたら話すよ。今はとりあえず母さんに見つからない事だけ考えろ」と私は言ったが、何故母親から逃げなければならないのか私自身よく分からない。

「わかった」と弟は素直に答えた。

私達兄弟はタクシーの後部座席で、外から顔を見つけられない様、頭を窓の下に隠しつつ耐え忍んだ。夢はここで終わった。

 スリリングな夢だった。それでも何故この二つが夢に出てきたのか、その関連は全く分からなかった。ただこの二つのスリリングな夢は、どうにか意味を与えようとするならば、私の恐れるものがかなり端的に現れているように思えた。羞恥と束縛。

 …もうたくさんだ、世界はいつまで経っても何一つ変わらない。そう思っていても、私は結局、新しい世界が、新しい時代が始まることを期待している。絶望しているときでさえも、それはある。人間の内面において世界が構築されているのであれば、自己の内面を押し広げることによって世界はいかようにも広がるだろう。だがここで私が言っているのは決して経験などではない。経験によっては何一つ救われない。過ぎたことは、もうどこにも存在しないからだ。経験、経験、ああ、人々は何度この言葉に悩まされたことか!私は仕事をする。仕事をして休みを得る。休みを得てまた仕事をする。これらの結果得られるものは何一つない。経験、経験、また経験!ああ、だから何だというのだろう?ちっとも前に進んでいやしない!何故何も存在しないのではなく、何かが存在するのだろうか?それも経験的に存在するのだろうか?しかし経験によって存在することを証明するのなら、存在するという事実はかなり不確実ではないか?「存在した経験」を持つ者などいやしないのだから。何よりこんな割の合わない話に、まともにかかわり合いたいなどと誰が思うだろうか?

 私の世界のうちに一つの可能性があるとすれば、それは芸術の中だけに存在するのだろう。可能性を秘めていると言っても、それは妄執に過ぎないということは殆ど分かりきっているのだが、分かりきった事実を否定すること程価値のある行為が他にあるだろうか?私は存在しないし、過去も存在しなかった。ブルーベリーのピューレは最初からピューレであり、決してブルーベリーの果実などではなかったのだ。芸術の可能性とは、つまりそういう事である。酒が飲みたくても飲めない、そう言うときはいっそ早く寝ようと思って睡眠薬を口にする。ところがその薬が効いてきたとき、朦朧とした頭の中で何故かピューレのことを思い出す。それはピューレそのものでなければならず、決して果実から造り出したものではいけないのだ。

 決して作家になってはいけない。文学を書いてはいけない。とにかく「本物」を書きたい。それが第三者的にどういったジャンルにカテゴライズされるのかはわからないが、とにかく「本物」だけを書きたいと思う。では「本物」とは何だろうか?明確にはわからない。強いて言えばわからないという、この胃のあたりにわだかまった靄のような気持ちは「本物」かも知れない。いずれにせよ、現実と折り合いをつけて生きていくには、この「本物」を片っ端から忘れるよう努めなければならない。だから忘れる代わりに片っ端から書いていこうと思うのだ。そうだ、それだから、私に必要なのは刺激ではなくむしろ誠実さなのだ。誠実であることは恐らく、刺激的であるよりも難しいだろう。誠実であることは時に刺激的であろうとするよりも却って刺激的であるだろう。勿論それはほんの時たまのことではあるだろうが…。

 まずは芸術に関する認識を改めなければならない。いや、芸術をしよう、などと思ってはいけないのだ。芸術とは、存在の枠から絶えず流れ出ようとするあるものだ。つまりそれは否定されるべきあるものだ。しかし否定されているということは存在を認識され、肯定されているということでもある。芸術とはあってないようなもの、なくてあるようなもの。例えば「無」という言葉もそうした概念の一種だ。「無」というものが具体的にあるわけではない。あれも違う、これも違うとこの世の一切を否定したところのものが「無」だ。それは対立概念の否定にのみ認められる。「平和」というのもそうだろう。戦争がない状態。これが平和だ。戦争がなければ平和もあり得ない。そして同じように、芸術はあらゆる実用性を否定した所に存在するだろう。実用性というのは、一般に使われる意味よりも広汎なものだ。「意味」という言葉に置き換えてもいいかも知れない。意味をもたないもの。芸術。それは神に近づく唯一の手段だ。神の存在に意味を求めてはならない。意味を否定できる唯一の行為。

 そういうわけで、否定されればされる程、芸術は存在の輪郭を明瞭に帯びてくるのだ。無関心よりはむしろ無神論の方がましだ。無関心とは無神論ですら否定する事の出来ない程の何も存在しない状態だ。否定すらされないなんて恐ろしい!

 ある休日の夜中に、近所のコンビニに行った。有線で最近流行のある歌手の歌がかかっていた。それを聴いた瞬間、私は彼が哀れで、思わず泣きそうになった。涙は何とかこらえたが、それでも頬が痙攣した。彼はもう歌手としてしか周囲に認知されないのだ。そして彼は彼の仕事、つまり音楽なしには人格を持ち得ない。彼自身という一個の人間として扱われる事は皆無だろう。そう死ぬまで。この事は、いくら有名税などといったところで哀れに違いない。音楽は彼の決して全てではなかろう。むしろほんの一隅を占めているに過ぎない程のものだろう。彼だって人知れず色々と人間的なものを持っているに違いないのだ。それなのに彼は全てを音楽に食い尽くされているのだ。私は彼が可哀想で可哀想で、コンビニを出てからも暗澹たる気持ちでいた。湿った空気の中、道端に転がる蝉の死骸がカサカサと音を立てて煽られていく。それは枯れた木の葉となんの違いもないように見えた。仕事は人格を奪う。それは芸術とは異なるものだ。

何かを否定することが何かの存在を肯定し、浮き彫りにすることもある。「自己」というのもそうだ。だから私は常に自分以外のものを否定するように努めている。否定こそが自身の存在証明だ。私にとって私以外は私ではない。私にとっては私が自分である。否定は私自身を示す手段だ。自己表現とは例外なく否定なのだ。

 では否定とは何だろう?そう、お察しの通りだ。否定なんてものは言葉の上でしか成り立たない概念だ。否定がなきゃ肯定が出来ないように、肯定がなきゃ否定だって出来やしないのだ。否定とは否定の肯定の事だ。じゃあどっちが最初に産まれたのか?卵とひよこの話?要するに、何にもなかったんじゃないのか?

 荒廃した土地。そこから全てが生まれ出づる。乾いた風に干涸らびた土壌。ひび割れ養分の失われた土壌。そこに一滴の涙。そこから銀色の萌芽が萌え出づるだろう。それは地平線の果てまで広がり、やがて海となるだろう。憎悪で踏み固められた土地にも、それは起こると信じている。

 白き良き思い出。思い出は消えかかっているほどよい。鮮明に思い出してしまえば、それは単なる記憶だからだ。思い出の冥利は二つある。一つは過去を曖昧にしてしまうこと。もう一つはそれらを遠くに放り投げてしまうこと。でも忘れてしまうのとは全然違う。十把一絡げで曖昧にしてしまって、遠くに放り出さなきゃいけないのだ。まあそれが難しいんだけどさ。ゆっくりやってこうぜ、な!などと言っているうちに思い出に変わる、というわけだ。

 今現時点で満ち足りている人間が一体どれほどいるだろうか?皆、満ち足りているような顔をしながら、本当は全く満たされていないのだろう。このまま終わってたまるか!という野心と、このまま終わってしまうのだろうか?という不安が混在している。皆本当はそうなのだろう。そしてそのうち何かが変わるかも知れない、あるいはそのまま変わらないかも知れない。それは長く生き抜いて初めてはっきりすることだ。そしてその答えが出た瞬間には、もう満たされる事などどうでも良くなっているのだ。結論、全てどうでもいい。しかしどうでもいい事に、生きてみないと気が付かない。だから生きるべき。以上。今気付いているじゃないかって?いや、恐らく君も私もまだ本当の意味では気付いていないのだろう。体得していないのだ。

 そして生きる以上は正直に生きていたい。分からないものは分からない、分かるものだけを発言していきたい。そして自分に理解可能なものだけを書いていきたい。自分でも何を言っているのか分からないという文学は金輪際捨て去りたい。少なくとも自分の書いた物の意味は自分では理解しておきたいのだ。だから私はいつでも正気でいたい。

 そして私はいつでも風に揺れるすすきの穂のように、茫然としていたいのだ。風向きが変わったってただ身を任せるだけの話、それにいくら反抗心を起したって仕方がない。その反抗心すらも否定したい。何もかもが嘘なのだと。勿論理性なんてのも嘘っぱちだし、感性なんてのはもっと嘘っぱちである。感性なんて言わば陥穽の間違いで、罠にかかった奴らの泣き言に過ぎない。泣き言に耳を貸すな!と言いたい。現実は小説よりも奇なり。小説は奇ならず。故に現実も奇ならず。

 しかしながら創造の喜びは無上の喜びだ。時間の、人生の、あらゆるエネルギーの消費者に堕してしまった人間を救いうるのは創造だけだ。創造とは生産ではない。生産は、言わば他人の消費の手助けをするだけの行為だ。創造は、それだけで自己完結し得る。だから創造の喜びはまた創造者自身が享受すべきものである。創造者にとっては人生のありとあらゆるものが創造の為の糧になるのだ。だからこそ生きる意味を求めなくて済むということだろう。全てを創造の為に捧ぐ。神の前にひれ伏す。神は我らを創造し、我々はそれを崇拝する。我々は生まれながらにして神そのものの一部を与えられているのである。

 しかし創造する事は恐ろしい事でもある。自分の醜さや浅ましさと面と向き合うのが、やはり辛いのである。キーボードを叩く指を止め、その手で頭を抱える事がある。デスクに突っ伏していたり、拳骨が頬骨にめり込むくらいの深い頬杖をついて、何も考えられなくなる事がある。そういうとき、全てが無意味に思えたりする。そして部屋の中をうろうろしながら、自分の惨めさについて考えてみたりする。過去の苦い思い出は、曖昧にして放り投げた筈の思い出はまたいつの間にか脳裡に蘇ってきてしまう。ああ、自分は不要で、自分は非力で、学問も無くて、そして人を想う事も慕うこともできなくて、とにかく何も出来なくて、死ぬ事だけが明確で、そのくせその一つの明確さすらも忘れて、生きながらえる事に戦々恐々としている。そろそろ寝る時間だが、どうしよう、まだあまり眠たくもない。眠れぬ夜は辛い。それも一人だと余計に辛い。やはり自分は誰かを必要としているのではないか?誰かに側にいて欲しいのではないか?そんな風にも思ったりする。でもそれはやっぱりご都合主義の無い物ねだりで、実はこの粉雪のような白い美しさを持った孤独が結局求めなければならないものなのだ。そうだ、私の孤独は美しいのだ。それだけには自信を持っていいのだ。白く柔らかい砂のビーチに、これまた美しい青い海、空、みんな迎えにきてくれる。君は白く、ただ白いままでいいんだ。君はそのままで海や空から迎えにきてもらえるよ。だから心配しなくていいんだよ。君の孤独は誰かが、それも美しい誰かが迎えにきてくれるものなのだから。そして実際にそうなってから、君の孤独の美しさはそこで初めて孤独の残酷さを知るのだ。美しく白い自分の孤独を、私は一番愛していたのだ。そしてそこには海も太陽も青空も、必要なかったという事に気付くのだ。気付いたからと言って、何が変わるわけでもない、変わる事無く私は孤独だ。だがその孤独はそれ自体の性質は変わった。孤独は愛すべきものだと。孤独は私自身だと。孤独には無限の可能性があると、その時に本当の意味で気が付くのだ。これは大きな学習だ。さようなら今までの自分。さようなら支離滅裂の日々。もう会う事もないだろう。そしてお互いの素晴らしい思い出と、自分にとっては自分が全てだと言う当たり前の事実を噛み締めながら生きていくことになるだろう。

 私は書いた。とりあえず書いた。これまでの所、取り立てて大きな発見はない。しかしそれでいいと思っている。小説、文学においては、自分だけが唯一の大発見なのだ。だから私が生きている限り、獲物は絶えずそこに居続ける。獲物は自分自身だ。


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