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失神  作者: 北川瑞山
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 筆無精の彼の師は、やはりその手紙をほったらかしにしておいたらしい。それから一ヶ月経っても彼の元には何の便りもなかった。彼自身は恩師がきっと自分への返事に何を記すべきか思い悩んでの不通であると想像していたのだが、そうした想像が虚しい願望だという事もよくよく分かっていた。大方彼の書いた手紙の意味がよく分からなかったのだろう。というか、そうこうするうちに恩師への手紙に何を書いたのか、自分自身すら殆ど忘れてしまっていた。今頃返事など来ても、何に対する返事なのか忘れてしまった以上、それを待つ方の気持ちも自然投げやりな気持ちにならざるを得なかった。

 彼は勤めていた税理士事務所を辞めずに済んだ。というよりそこに居続ける事は彼にとって、これっぽっちも本意ではなかったのだが、大人しくへいこらと周りの連中に追従していたら、自然と失職だけは免れたのである。彼も少しだけではあるが、その事に引け目を感じて、時には業務に邁進しているような素振りを見せる事もあった。ただそれはほんの一瞬のことであって、放っておくとすぐにぼんやりと頬杖ついて考え事などしてしまうものだから、時たま上司などに叱咤された。ただしそれも彼は意に介さなかった。というより、ただ単純に不快以上の意味を感じる事が出来ず、そこから何かを考えようとか、改善しようとか、そんな向上心は全く生まれなかった。やがて上司も諦めて、彼に何も言わなくなった。

 彼は煙草をやめた。酒はまだ飲んでいる。年一度行う健康診断で必ず悪玉コレステロール過多で引っかかる。だから何だというのだ?自分が死んだ時、それが自分の寿命じゃないか。それでいいじゃないか。そういうわけで、彼は義務づけられた再検査をすっぽかした。

 彼は勿論死んだりはしていない、死ぬ勇気も、不運もない。ただ漫然と、連綿と続くこの倦怠、幸福とは明らかに違うこの倦怠があるだけだ。これは多分、死ぬよりも辛い。一刻も早くここから抜け出したい。でもどうやって?彼はこの難題を解決する事に生活の全てを捧げた。『砂の女』の主人公になった気分だった。

 彼は休日になると、ネットビジネスをやるようになった。アフィリエイトも一応やっているが、それだけではなかなか生活が成り立つくらいのまとまった収入が入ってこない。そこで彼は、転売ビジネスを平行して始める事を思い付いた。ネットオークションで安く競り落とした商品をネットショッピングにて販売するのだ。それというのも、ネットオークションにはものを売って利益を得ようとするのではなく、ただ単にものを処分したいという目的で出品している人もいて、そうした場合、市場の相場よりも格段に安くものを競り落とせる事になるからだ。安く競り落としたものを、中古品ではあるが使用するのには何も問題ない、という触れ込みで新品より安く販売すれば、十分に売れる見込みはある。所謂「せどり」という手法である。勿論、ネットを介するからには、送料も仕入れ値に含まなければならないし、販売するのにも販売手数料がかかるのだが、それでも利益が捻出できるように価格設定をすれば、儲けることは可能だ。それに、ある程度まとまった数量の商品を一度に仕入れて、それをバラにして売れば、仕入れにかかる送料は分散され、原価が安くなる。

 彼はそれを目論んで、とりあえず三島由紀夫の全集を仕入れた。まるで辞典のような分厚さの本が36冊もある。これで仕入れ値が20,000円である。送料を含めても20,680円。これを単純に36等分すると一冊あたり574円。元々この全集の一冊あたりの定価は6,090円だから、中古品であっても2,000円で売れば十分に売れるだろう。相場からしてもそんなものだ。すると一冊あたり、1,426円の利益、そこからネットショップに支払う販売手数料として販売価格の15%を支払わなければならないが、それを差し引いても1,126円の利益である。36冊売れれば40,536円の利益が上がる。今はこの程度の利益でも、軌道に乗ってきたらどんどん規模を拡大していけば、食べていけるくらいの収入になるかも知れない。それに扱える商品は何も古本だけじゃない。もっとも高価な商品にシフトしていけば、利益だって大きくなっていくだろう。安く仕入れて高く売るという単純極まるビジネスだが、なかなか捨てたもんじゃない。やってみよう。というわけである。

 ところが、いざ実行に移してみると、思った通りには行かなかった。売れないのである。思っていたほど、というよりは一冊も売れないのである。これは決して三島由紀夫のせいではなく、売り方に問題があったのだ。そもそも一冊単位で全集を買う人なんかいやしない。好きな人はセットで、それも新品で買うし、新品で買えない人でもオークションでもっと安く手に入るのであるから、そっちで買う。そもそも全集自体がそうそう売れるものではない、余程好きな人でなければ文庫版で買えば十分だろう。本が売れない時代の昨今、古典文学など文庫版だってそんなに売れるわけじゃない。ましてやほこりくさい全集を中古で買って紐解くなんて余程の物好きである。そういうわけで、彼の売り出した全集は一冊も売れる事無く、彼の部屋に重い腰を据えて居座り続けた。彼は仕方なくそれを自分用にして、読破する事に決めた。

 三島由紀夫全集第1巻をベッドの上でめくりながら、彼は考えていた。文学って本当に金にならない。じゃあ何がいいのだろう?あまり少額のものをちまちまやっていてもしょうがない。かといって宝石や時計を売るのには審査が必要だしな…。楽器?確かに審査も要らない割には利益率も高そうである。だが今時楽器買ってバンドなんかやる奴がいるのか?バンドブームなんてとっくの昔に終わっているし…。大体素人の自分が得体の知れない業者から仕入れて、贋作を掴まされる事だってなくはない。そこまでのリスクを冒して仕入れても、前回のように売れない事だってあるとすれば…。

 彼がどうやってビジネスを成功させるか。その答えが出るまでにはまだ時間がかかりそうだ。だが少なくとも、文学は彼の心から消え失せた。だが彼は文学が再び自分の心に舞い戻ってくるであろうことを、理由も無く予感していた。


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