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そして私がいいたいのは、決して文学なんてこんなに馬鹿馬鹿しいんだぞ、ということではありません。むしろそういう現実を知って、それをいつも頭の隅に置いて密かに葛藤している者にこそ文学の本当の意味を考える機会が与えられるのではないかということです。そして文学の意味を考えるのに必ずしも執筆をする必要はない、本を読む必要もない、必要なのは根気強さと、ちょっとの絶望だと思うんです(絶望はあまり強すぎてもいけません)。いくら本を書いている人だって、それでいくら儲けていたって少しも文学を追求していることにはなりません。先の例のように、ビジネスが軌道に乗ってくれば生活も豊かになるでしょう。ありとあらゆる人から尊敬もされるでしょう。しかし文学を追求するには、それに満足をおぼえてはいけない。むしろ数字の結果で評価される理不尽さ、阿呆らしさに憎しみを覚え、なおかつそれを欲している自分もまた憎んでいなければならない。この説明しようもない現実を受け入れ、また拒んでいなければならない。
文学性とはこの自然科学に、法的規制に、社会システムに、経済に支配された、世界ではどうあがいても日陰の隅っこに追いやられるしかない、そしてそこから抜け出す事の出来ない、このどうしようもなく哀切な、破れかぶれの感情の事をいうのかもしれません。そうです、本当に哀切としか言いようがないのですよ。哀しくて、そして切実なのです。何せ最初から負ける事が分かっている戦ですからね。敗北主義者と言われようが、構いやしない。何せ私達は敗北の意味すら知る事を許されていないのですから。勝敗がなんでしょう。善悪がなんでしょう。そんなものは法治国家的バイアスに彩られた一つの認識法に過ぎません。法律など或る者にだけ都合のいいルールです。徴税など公的な強盗です。懲役など監禁罪の適用されない監禁です。私達はこんなにも理不尽で、最初から敗北を喫するべくこの世に生を受けているのです。敗北の中で生きている者にどうして敗北の意味を知る事が出来ましょうや。敗北とは、自分が自分である事と同じくらいに逃れられない宿命であり、前提なのです。
この理不尽な法律や制度、あるいは科学的認識にがんじがらめにされた私達の「心」が、あえて無音の叫び声をあげ続ける行為が文学であれば、それを外に出さずに心のうちに秘めていたって何ら文学性は失われないと思うのです。いや、外に出さない分、それは強度を増して、濃度を高めていくでしょう。文学を捨てても文学性を捨てるな、とはそういう意味です。何だか上手く書けませんでした。伝わったでしょうか?人間あまりに気持ちが大きく膨らみすぎると却って何も言えなくなる様で困りますな。まだ何も大切な事を言っていない気がしますが、筆無精の私がやっとこさここまで書いて思ったのは、やっぱり私には文才がないという事です。今日はこの辺でひとつ。
草々