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失神  作者: 北川瑞山
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 君、知っていますか?世の中を支配するものは何なのかを。それは法律ではありません。お金でもありません。もちろん文学なんてものでは決してありません。世の中を支配するのは、偏に暴力なのです。にわかには信じられないかも知れませんが、これは本当なのですよ。人間、いや、人間以外の動物だって何だって、生の本質とはすなわち暴力なのです。暴力によって人は生まれ、周囲に世界を形成し、そこで暮らしていくのです。

 ニーチェが同じことを「力への意志」といって表現しました(私はあの単純極まる思考の持ち主がちっとも好きではないのですが)。生きることとはすなわち力への意志であると。この場合の力を権力などと解してはなりません。というよりその場合の権力という言葉を世間で言われるような狭い意味に限定してはならないのです。ニーチェは「神は死んだ」なんて言いましたけども、では神のいる世界では力への意志はなかったのでしょうか?いいえ、神の存在する世界でも、所謂権力は存在しました。しかしそこでの権力は偏に人々を暴力から救い、暴力から守ってきました。言わば生の本質である暴力に晒して、台無しにしてしまわない為のセーフティーネットでした。道徳と言い換えても良いでしょう。

 しかし神なき世にあってはどうでしょうか。またこの場合の力とはもっと広い意味の、生命の存続、自己の重要感、果ては「何故それが存在するのか」という疑問をも満たしてしまうような、一言で言えば神の存在を一掃し、それに取って代わるような力です。力とはそれほど絶対的な、全ての価値の中心にある存在です。神を信じるかどうかは別にして、生きとし生けるものがそれを指向せずにはいられないような力の存在、それこそが「真理」というものを形作っているのです。

 この「真理」なるものは、恐ろしく残酷なものです。力への意志を前提にして象られた表象ですから、真理を認識した存在は否応なく絶対のベクトルを強いられ、一つの方向に向かうことを余儀なくされます。真理を認識した人間にはもはや自由はあり得ないのです。というかもはや自由すらも力への意志に他ならないのです。そんな中で、文学性などあり得ません。

 抽象的な話ばかりしていてもわかりづらいでしょうから、一つ例を挙げましょうか。

 私の知り合いにある出版社の編集者さんがいましてね、その方に伺った話なんですが、彼が先日得々として(多少自嘲気味に)こう語ったのですよ。

「私もこの商売を長年やっていて、ほとほと業界の不文律がわかるようになってきました。私だって昔は文学青年だった訳で、自分でも小説を書いていましたし、芸術とはなにやらと小難しい議論を仲間にふっかけて飲み歩いていたもんですがね、今じゃ芸術だかなんだか知らんけど子供の落書きみたいな訳のわからないものを人様から金を取って売るわけにはいかんことくらいは承知しています。しかしまあそんな当たり前のことが何で昔はわからなかったんでしょうな。全く、若さというのは恐ろしいもんです。良いものが書けたから売れるわけじゃないんですよ。売れたから良いものだと評価されるわけです。売れなければ評価そのものすらされんですからね。まあそんな事は世間一般からしても常識ですが、しかしじゃあ売れるか売れないかの違いは何なのかと言えば、これがまた恣意的なもんで、要は売るか売らないかの違いに過ぎんわけですよ。経済の仕組みとは沢山売った物は沢山売れるし、少ししか売らんもんは少ししか売れないと決まっている。当たり前ですよ。質云々は問題じゃないわけです。それなのにまあ評論家と言われている人たちはよくもまあ良いの悪いのと無駄な御託を並べて飽きないもんですな。そんなの大した違いじゃないっちゅうに。で、それでは沢山売るか、少ししか売らないかの違いはどこから来るのかと言えば、それは過去の実績ですよ。過去に沢山売れたもんはまた売れると見込んでまた沢山売るわけです。沢山市場にだせば実際沢山売れる。沢山売れればまた沢山売ってもらえる。こうして往年の人気作家なるものが出来上がっていくわけですな。沢山売るから沢山売れる。沢山売れたからまた沢山売る。そういうわけです。確かにそりゃあ沢山流通させたからって必ずしも売れるわけじゃないでしょうよ。それなら出版社は苦労しませんからね。沢山刷って、莫大な宣伝広告費をかけても、思った程には売れなくて結局赤字なんて事はむしろしょっちゅうですよ。しかしそれはあくまでも出版社サイドから見た話です。作家個人からしてみたら採算が取れるか否かよりも何冊売れたかという絶対数の方が大事なわけで、それに「何万部突破!」なんていう広告用の謳い文句だって結局絶対数な訳ですからね。今赤字だってそういう箔をつけることで徐々に売れるようになって、長期的に見て黒字になれば全然問題ないわけです。要するに過去の実績などというものは所詮採算が取れたかどうかではなく売れた絶対数な訳ですよ。利益ではなく売り上げが大事だという事になりますな。そうするとやっぱり沢山流通させてもらった者勝ちというふうにみて何ら間違いはないでしょう。

 そこで一つ疑問がわいてくるわけです。ではその発端となる最初の「沢山売る」はどこから来るのかと。それに関してはね、色々ありますよ。ケースバイケースなので、とても一概にこれと決める訳にはいきませんが、まあありがちなのは業界のコネとか、人目を惹くような経歴とか、まあそんなのでしょう。でもやっぱり色々あるんですよ。要は出版社に売ってもらえるようにしむければいいだけの話ですからね。これはそう難しい事ではありませんよ。出版社だって金のなる木をみすみす見逃すような事はしませんからね。メディアなんてものは、何をどのようにどれくらい流通させるか、全て版元の胸先三寸で決まるような極めて曖昧な価値基準で動いている代物なんです。出版社って言っても所詮はマスコミですからね。商業主義をいつまでも週刊誌のゴシップ記事にばかり任せてはいられませんよ。文学部門だって少しでも採算を取る努力をしなけりゃなりません。そういう商業主義を利用して巧みに、出版社に多く刷らせれば大概はそれでうまく行くものですよ。なあにあなた、それで大量の不良在庫を抱えたって大した事はありません。責任は全部出版社持ちですし、出版社だって年に数多くの本を売り出しているわけで、そんな事一々気にしていたら切りがありません。そんなのすぐに忘れ去られてしまいますよ。最近じゃ書店による買取なんていう制度もあるみたいですから、尚更ね。そして作家個人はと言えばそうやって売れなかったときは他の人に尻拭いしてもらって、売れたときだけ富と名誉を得られるという仕組みですわ。

 ちょうど先日、S氏の本がベストセラーになりましたな。時代の閉塞感を巧みに捉えた作品群で世論を虜にして、一躍話題の人となりました。それからはいろんなテレビやら文芸誌やら何やらの企画に引っ張りだこで、今じゃ年収がサラリーマン時代の十倍を超えているっていう話です。最初にS氏を売り出したのは他でもない、うちの会社なんですよ。S氏は元々頭の切れる人物でね、よくうちに原稿を持ち込んで、企画書を元にそれを売り込んでいたんですが、その弁舌巧みな事と言ったらもう本当にあなたにもお聞かせしたいくらいですよ。何しろ東大法学部卒のエリートですからな。私やそこらの編集者なぞいっぺんに言いくるめられてしまう有様です。今の政治的経済的状況から見てこの本を買う可能性のある潜在的読者はおおよそこのくらいで、この中の僅か0.1パーセントに買ってもらうだけで販売数はこれくらいになって、この時点で御社は絶対に損をしない、そしてこれだけの実績をだせば本作だけでなく、次もこのくらいの売り上げが見込めて、御社にこれくらいの利益をもたらす事になる、実際に過去の統計から言ってもこの数字には信憑性があり、他の出版社にこの機会を奪われてしまっては、あなたがたも某かの責任を追及されずには済まされないだろうとか、そんな事まで平然と言うわけですよ。見ようによってはかなりいけ好かない奴ですがね。それでもそうまで言われたら上に稟議を通さない訳にはいかないじゃありませんか。根負けしてね。いや、根負けというよりも、むしろ意気揚々と稟議をあげにいきますよ。いかに売れる作家を発掘するかがその編集者の社内評価にも繋がるわけですから。そうするとやっぱり稟議が通ってしまうんですねこれが。そして何万部と刷って市場に出すと、売れてしまうんでねこれが。いや、実際に売れているんだから大したものですよ。結果をだしたもの勝ちの世界ですからな。そしてやっぱり一回結果をだした者は過去の実績があるとして認められるわけで、次も何万部と刷られて、それがまたある程度は売れてしまう、そのうちに過去の実績が先なのかうちが刷ったのが先なのか全く前後がはっきりしなくなって、気付けばベストセラー作家、有名人の大金持ち、出版社にとっての神様一丁上がりというわけですな。そんなもんなのですよ。しかもそれなんてまだ氷山の一角で、実際には出版社の上層部との縁故で文壇入りするのもいますし、性的魅力で武器にしてそこまでのし上がる輩もまあいるにはいます。今時そんな話がと思うでしょうがね。人間いつの時代も根本は変わりゃしません。縁故も性的魅力も持ち合わせていない者の中には、時に自分の死を売り物にするような輩もいます。ある癌患者が自らの闘病記を売り込みにきたときはぞっとしましたな。人間何も金だけの為にものを書くとは限りません。そうした自己実現欲求みたいなものだって充分に動機になり得るでしょう。まあその人は本が出た翌月に息を引き取りましたが、本人にしてみれば最後の最後にこの世に自分の爪痕を遺せたという事で、大方満足でしたでしょう。人間死ぬ間際には特にそうした欲求が高まるのかもしれませんな。まあそうした動機を利用して飯を食っている我々が一番鬼畜なのでしょうが。

 ところで、それと大方のしがない純文学作家の連中を比べてみてください。彼らは大方もの言わぬ新人賞応募者として作品を送ってくるか、持ち込んできた所で大してプレゼンが上手いわけでもなく、口下手で押しが弱いわけですよ。出版にまで漕ぎ着けるのだって一握りです。よしんば出版に漕ぎ着けたとしたって僅かな冊数を申し訳程度に刷ってもらった所で、ベストセラーはおろか本屋で平積みにすらならないわけですよ。どこかの本屋の書棚の片隅に二三冊埃を被って並べられているだけです。そんなものが何になりますか?傍から見りゃ糞を拭く紙にもなりゃしません。それでいて本人は良い作品さえ書けばいつか必ず認められると思っているんです。無垢な子羊ですよ全く、そんなわけがないでしょう。大体刷った数が少ないのだから売れる数だって限られてきますし、売れなければまた少ししか刷ってもらえない、いや、そんな人が書いた本なんて次は出版だってしてもらえないでしょうよ。こうして多くの作家が露と消えていくわけです。文学なんていうどうしようもない出来レースに人生を賭けた愚か者達がね。まあでも悪いのは彼ら自身なんですよ。欲に目がくらんで、しなくてもいいことを自ら好んでやり始めて、それで勝手に嘆いてりゃ世話無いですよ。だから私は彼らにいつも言ってやるんです。本当に文学が好きなら、それを仕事にしようとするのをやめなさいとね」

 力への意志なんてものは多くの人間の生きる意志を奪っていきます。ちょっと人より多く儲けたから何でしょう、ちょっと長く生き延びたから何でしょう、子孫繁栄が何でしょう。そんなものに目を奪われて、大切な今を見失っているじゃないですか!正に本末転倒です。今、自分が、ここに生きていること自体が重要なのであって、決してその先の繁栄が目的で生きているわけではないはずです。だってそれじゃあ何の為の繁栄か分からないじゃありませんか。

 私は先の編集者が言った事が特に間違っているとは思いません。というかそんな事は前々から薄々は分かっていたくらいで、特に目新しい事を言っているとも思いません。しかし過去のあなたを絶望させるにはおおよそ充分な言葉ではないでしょうか。今なら難なく受け入れられるかも知れませんが、かつての文学に真剣に取り組んでいたあなたに聞かせていたら、どこかのローマ教皇のように憤死していたかもしれません。そう、だから今更になってこんな事を書くのです。


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