チェリーブロッサム
一部で卑猥な表現があります。
2012.3.22追加修正
居酒屋チェーンで気になるのは、注文のたびにアルコールの濃度が変わることだ。酒に弱い人間にしてみれば、薄いほうがいい。
今日は当たりを引いた。
小西友之は、彼にしては珍しく二杯目にチャレンジした。
「小西くん、飲んでる?」
「は、はい」
先輩の田村絵美に背中を叩かれ、少し咳き込んだ。
「そう? もっと飲みなよー」
しなだれかかってくる彼女の扱いに、友之は困り果てた。
女の子が近くにいると緊張する。春になり、薄くなり始めた服はたやすく体温を伝える。彼女のぬくもりを、肩に、背中に、感じた。加えて、女性特有の柔らかみも。
酒の酔い以上に、友之は顔を赤くした。
(さわっちまえ)
対面に座る友人が、小声でからかった。
友之は息を呑み、素知らぬ顔で胡瓜の浅漬けを口に放り込んだ。
(できるわけがないだろ!)
どさくさに紛れてそんなことできない。好きな人ならなおさらだ。
「なに、こそこそ話してんのよ。さあ、飲もう」
注文していたウーロンハイが到着し、二人はグラスをあわせた。
また、当たりだ。友之はほっとして、薄いアルコールを飲み込んだ。絵美はレモンサワーを飲み干し、次の注文をしていた。彼女が隣りに移ってきたのは、一番の大当たりだ。
「小西さあ」
友人がデザートのサクランボを指さしてため息をついた。
「なに?」
「チェリーボーイ」
「へ、変なこと言うな!」
友人の頭をはたいて黙らせた。
「どうしたの? ケンカはだめよ」
絵美は笑って友之の手を押さえた。
「ケンカなんてしてませんよ、なあ」
友人はにやにやしていた。手を握られた友之は頷いて、下を向いた。こんな反応をするから、友人から童貞と言われる。間違っていないから、よけいに腹が立つ。
「チェリーがどうとか言ってなかった?」
絵美の耳には届いていなかったようで安心する。騒がしい店でよかったと、友之はほっとした。
「じゃあ、ちゃんと送って行けよ」
酔っ払った絵美を預けられた友之は、二次会に行く友人たちを見送った。
「お、おう」
「いってらっしゃーい」
今日の絵美は酔いが早かった。いつもなら背筋を伸ばして先頭を歩いているのに、今はとろんとした目で手を振っている。友之は、そんな彼女もいいなと思う。
「先輩、大丈夫ですか? お茶でも、飲みます?」
二人は公園のベンチで一休みすることにした。
「ありがとー」
にこりと笑う絵美に、友之はペットボトルのキャップを開けて差し出した。
「小西くんも、どうぞ」
返されたペットボトルにどぎまぎしつつ、友之は震える手でお茶をあおった。
「あはは、飲んだね。間接キスよ」
友之はお茶を吹き出した。
「な、なにを言っているんですか」
「嫌なの?」
ふくれ面で抱きしめられた。友之は硬直する。絵美の顔がジャケットに埋もれていた。あたたかい息がシャツを通して感じられた。頭の芯がじんじんする。
「い、嫌じゃないですよ」
心にもないことを言わない。友之は正直な気持ちを口にした。
友之は意を決して、絵美の背中に手を回した。彼女の頭が目の前にある。髪の毛から薔薇のいい香りと、少しだけ酒の匂いがした。
「先輩、聞いてください」
「なあに」
口が動くとくすぐったかった。
「僕、先輩が……いえ、絵美さんが好きです!」
返事は小さな寝息だった。
「先輩……」
友之はガックリと肩を落とした。
桜の花びらが友之の頭に舞い降りた。
桜の花びらが夜空に舞う季節。
通りから少し入ると小さな公園に行き当たる。目立たない場所にあるため、ひとけは少ない。昼に訪れれば子連れの女性を見かけられるが、夜になると途端に寂しい風景に変わる。たった今も、二人の男女がベンチに腰掛けているくらいで、あたりは静けさに満ちていた。
「見つけた」
ネブラは、街灯の光が届かない位置で、コートの襟元をあわせた。春の陽気も夜には霧散する。寒さは着実に忍び寄り、足下に渦巻いていた。
街灯が明滅した。
「こんばんは」
ネブラはすっとベンチに近づいた。
「は、はい」
ベンチのカップルのうち、顔をあげたのは男のほうだった。彼は、ネブラの姿を見て表情を強張らせた。突然、青い目の外人から声を掛けられれば、日本人はたいてい戸惑う。
「こちらに座ってもよろしいかしら」
明瞭な日本語で話しかけた。きっと違和感を感じている。答えを待たずに、腰を下ろして微笑む。そうすると、男たちはすぐに警戒を解く。彼も同じだった。
「ど、どうぞ」
まだ幼い顔立ちをしていた。二十歳より前だと値踏みする。
「その娘は大丈夫?」
女の子のほうは、目を閉じて彼に寄り添っていた。頬が少し赤いのは、酒を飲んでいるからだろう。純度の低いアルコールの臭いがした。
「ちょっと、酔ってしまいまして」
どぎまぎして目を伏せる彼は子犬のようだった。従順で、吠えることを知らない愛玩動物に似ている。
抱きしめて、頬を寄せて、吸い付きたくなる。
ネブラは我慢できず、指先で彼の頬に触れた。
彼はびくりとして身を引いた。眠っている彼女が彼の服をつかんだ。
「あなたたち、未成年じゃないの?」
女の子のほうを見て言う。指が緊張に震えていた。本当は、起きているのかもしれない。
「え、いや、違います。はは」
彼は落ち着かない様子であたりを見回した。
不自然な挙動で、嘘がばれる。そんなことも知らないようだ。
「ねえ、ちょっといい?」
ネブラは少しからかってみたくなった。ゆっくりとした動作で、彼の頭の上に手を伸ばした。中腰になり、胸元を彼の額にあたるように動いた。
「はい、取れたわよ。花びら」
桜の花びらをつまんで見せた。近くの桜の木から落ちてきたのだろう。
「あら、どうしたの?」
彼の頬は、淡い桜色よりも赤くなっていた。彼女の指の関節は白くなっていた。
笑いを押し殺して、ネブラは花びらを逃がした。
美味しそうな匂いをしている。
ネブラが嗅いでいるのは、酒ではなく、皮膚の下に流れる血液の香りだった。
紅い唇が顔を出す。白く鋭く尖った牙に、唾液が絡みついていた。
彼は俯いていた。彼女は目を閉じていた。
地面に落ちた花びらは変色し、命を失って萎れていた。
ネブラはほくそ笑んで牙を剥いた。
「先輩」
友之は寝返りをして落ちそうになった絵美を支えた。手のひらに感じる柔らかさに、心が躍る。今し方触れてしまった大人の胸とは、違う感触だった。
「……あれ?」
顔を上げると、さっきまでいた青い目の女性がいなくなっていた。周囲を見回しても、人の姿はどこにもない。
「そんな馬鹿な」
はじめに気づいたときも、いつの間にかそばにいた。今は一瞬のうちにいなくなっていた。最初から存在しなかったかのように消える現象に、彼は夢でも見ていたのかと思った。
「うーん」
もぞもぞと動き出した絵美が腕から離れた。名残惜しげに手を伸ばすと、彼女の脇腹に触れてしまった。
「ごめんなさい!」
「あれ、もしかして、寝ちゃってた?」
友之の謝罪を気にしたようでもなく、絵美は白々しく寝ぼけ眼をこする。
「ごめんね、小西くん。じゃあ、帰ろうか」
「あ、はい」
ぎこちなく立った友之の手に、絵美の指が絡みついた。
「そうだ、コンビニに寄らない? 少しだけ飲み直そうよ」
友之はいろいろと想像を巡らして頭の中が一杯になる。ただ、返事はひとつしかなかった。
立ち上がった二人の足の下で、花びらが塵になった。
唇を舐めると艶が出る。彼は我を忘れて貪った。
濡れた舌を押しつける。彼は声を押し殺して目を閉じた。
尖った歯を突き立てる。彼は堪えきれずに身体を震わせた。
「あなた、同胞だったのね」
ネブラと名乗った青い目の女は、ソファの上で足を組み直した。牙が紅い唇を割っていた。
「クォーターですけれど」
絵美はベッドの上で頭を垂れて、毛布を引き寄せた。寒いのとは違う感情が肌を粟立たせていた。
「いつから、いたの」
友之の首筋から顔を上げたとき、はじめて彼女がいることに気づいた。自分と同じ、いや、近いが異なる存在だと、彼女の牙を見て覚った。
「知りたい?」
ぬらぬらと光る牙を見て背筋が凍った。
この人には逆らうな。刃向かうな。
身体の中に刻み込まれた何かが、自分に命令してきた。動かしがたい恐怖と、純粋な敬意がそうさせる。それに反して、かすかな優越感があった。
自分には友之がいる。
絵美の隣りで眠る彼の首筋には、牙の痕がついていた。絵美の口づけの徴だ。
「私にも味見させてくれない?」
「いや……です」
重い口をなんとか開いた。舌がうまく動かない。
「冗談よ。もう、あなたの手がついてしまったし、清くない血なんて珍しくもない」
視線が逸れた。途端に息を吐いた。呼吸が止まっていたと気づいた。
「お楽しみを邪魔して悪かったわね。せいぜい楽しみなさい。……今を」
ネブラが窓から出て行くと、絵美はぐったりと疲労を感じた。汗が滲んでいた。
「よかった」
絵美は友之を抱きしめ、胸を押し当てた。
彼は自分だけのものだ。誰にも渡しはしない。たとえ恐ろしい相手の要求でも、命をかけて拒むつもりだった。
「友之」
絵美は囁いた。今まではくん付けだったが、これからは違う。下の名前で呼び合う仲になったのだ。
本当は、まだ男女の関係になっていない。ほんの少し、血を吸っただけで友之は果ててしまった。そんな彼に、物足りなさよりも、いとおしさを感じる。
そう思う絵美も、まだ女になっていなかった。
絵美は友之の髪を撫で、胸に顔を埋めた。
今が幸せだった。
ネブラはコートの襟を立てて笑った。
クォーターの彼女が恋人を守ろうとする姿がおかしかった。独占欲が強いところは、大部分を占める人間の血のなせる業だろう。
ネブラの要求が拒絶されたのは、四分の一しか流れていない同族の血に、うまく支配力が及ばなかったためである。
純血種であるネブラから見ると、彼女は雑種だ。力尽くで言うことを聞かせるのは簡単だが、そこまでするのは大人げがなかった。
「もったいなかったかしら」
穢れを知らない蕾は、はち切れんばかりに膨らんでいた。濃密で、清らかな味を楽しめる絶妙な頃合いである。ネブラには、彼がまだ男になっていないと、肌から漂う匂いでわかっていた。クォーターの彼女も同様だ。
濃厚な高級食材と、特別な珍味を見逃したのにはわけがあった。
ネブラは夜桜の枝を折る。たちどころに花びらが落ち、枝は干からびて崩れた。
命を吸い取った。
加減を間違えると、彼らもそうなる。
あまり器用とは言いがたい彼女は、せっかくのご馳走を台無しにしてしまう恐れを抱いていた。そうなるくらいなら、手をかけないほうがいい。もっとうまく料理できる同胞に回してやったほうが喜ばれる。
ネブラは彼らを忘れることにした。二人の後日談にも興味を失う。
彼女は、新たな血を求めて闇へと消えた。
どこかで、誰も知らない花が散った。