第三話 不慣れな言葉
午後の執務室は静かだった。
窓から差し込む光が机の書類を照らしている。
レオンはペンを走らせながら、数字の整合を確認していた。
本来なら、集中していれば他のことは頭に入らない。
だが今日は違った。
朝の出来事が、妙に思い出される。
割れた皿。
怯えた表情。
そして――笑った顔。
なぜ思い出すのか、分からない。
そのとき、扉が小さく叩かれた。
「旦那様、よろしいでしょうか」
ハロルドの声ではない。
少し躊躇うような音だった。
「入れ」
ゆっくり扉が開く。
立っていたのはミアだった。
包帯を巻いた指を胸の前で重ね、緊張した様子で立っている。
後ろにはエリナが控えていた。
「……どうした」
ミアは一歩前へ出る。
だが言葉が出ないらしく、口を開いては閉じる。
エリナが小さく咳払いをした。
「用件を」
促され、ミアは勢いよく頭を下げた。
「本日は、その……朝の件で……!」
声が裏返る。
「旦那様が、かばってくださって……ありがとうございました」
執務室が静まる。
レオンは手を止めた。
礼を言われる理由が、理解できない。
「……かばったつもりはない」
「でも、叱られませんでした」
「叱るべきだったのか」
思わず口に出る。
ミアは慌てて首を振る。
「い、いえ!そういう意味ではなくて……!」
言葉に詰まり、視線が揺れる。
エリナが静かに言う。
「ミアは、失敗に慣れておりません」
レオンは顔を上げる。
エリナは落ち着いた表情のまま続けた。
「この屋敷では規律が整っております。だからこそ、自分の過ちが迷惑になると強く思ったのでしょう」
ミアは小さく頷く。
「怒られると思っていました」
その言葉に、レオンは答えられなかった。
怒ることが当然だと、彼女は思っていた。
そして自分も、そうするはずだった。
「……旦那様は」
ミアがためらいながら言う。
「優しいのですね」
否定が口をつきかけ、止まる。
優しい。
その言葉は、レオンの中に存在しない評価だった。
「違う」
静かに言う。
「当主として必要な判断をしただけだ」
自分でも、説明になっていないと分かる。
エリナがわずかに微笑んだ。
「そういうことにしておきましょう」
レオンは視線を落とす。
話は終わりのはずだった。
だがミアは立ち去らない。
何かを迷っている様子で、包帯の指を握りしめている。
「……まだ何かあるのか」
「え、あ、はい」
一度深呼吸し、言った。
「その……ありがとうございました、を、きちんとお伝えしたくて」
言い終えると、再び頭を下げる。
しばらく沈黙が続いた。
レオンは考える。
どう返すべきか分からない。
礼を言われたとき、何と答えるのが正しいのか。
教わった記憶がない。
執務より難しい問題だった。
やがて、ぎこちなく口を開く。
「……気にするな」
それが精一杯だった。
ミアは顔を上げ、少しだけ笑った。
「はい!」
その表情を見たとき、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
書類を終えたときの達成感とは違う。
会議が成功したときとも違う。
言葉にできない感覚。
エリナは一礼し、ミアを促す。
「では旦那様、失礼いたします」
扉が閉まる。
再び静寂が戻る。
レオンはペンを持つ。
だが、すぐに止まる。
机の上の数字が、なぜか頭に入らない。
ただ、先ほどの言葉が残る。
――ありがとうございました。
その言葉が、何度も胸の奥で繰り返されていた。




