第二話 日常とスパイス
朝の食堂は、いつも同じ静けさに包まれている。
決まった時間。
決まった配置。
決まった手順。
それが、この屋敷の規律だった。
レオンが席に着くと、使用人たちは無駄のない動きで料理を並べる。
スープの湯気、焼きたてのパンの香り。
すべてが正確で、乱れがない。
――そのはずだった。
がしゃん、と皿の割れる音が響いた瞬間、食堂の空気が止まった。
ミアは青ざめ、膝をつく。
「も、申し訳ありません……!」
破片に手を伸ばしかけた、そのときだった。
「触らないで」
落ち着いた女の声がした。
レオンの視線の先で、一人の侍女がすでに動いていた。
年は二十代半ばほど。黒髪を後ろでまとめ、慌てた様子はまったくない。
彼女――エリナ・フォードは、近くのワゴンから布巾を取り、素早く折り畳んでミアの前に差し出す。
「まず手を見せなさい。割れた陶器は思ったより深く切れるの」
「す、すみません……私が――」
「いいから」
穏やかな声だったが、逆らえない静かな強さがあった。
エリナはミアの手を軽く取り、指先の小さな傷を確認する。
「……少し切れてるわね。無理に拾うと広がるわ。立って」
それから振り返り、近くの給仕係へ静かに指示する。
「箒とちり取りを。それから厚手の布も持ってきて」
使用人がすぐに走る。
エリナはミアを皿の破片から遠ざけるように立たせ、さりげなく位置を入れ替えた。
レオンは、その手際を見ていた。
慌てる者はいない。
叱責も、責める声もない。
ただ“当然のこと”として、後始末が進んでいく。
ハロルドが前へ出ようとしたとき、レオンは言った。
「待て」
静かな声だった。
食堂の動きが一瞬止まる。
レオンはミアへ視線を向ける。
「怪我はないのか」
ミアは戸惑いながら自分の指を見る。
先ほどエリナに拭かれた場所に、細い赤い線が残っていた。
「あ……」
「医務室へ行きなさい」
「で、ですが――」
「片付けは他の者が行う」
エリナは一礼した。
「お任せください、旦那様」
彼女は箒を受け取り、破片を丁寧に集め始める。
床に残った細かな欠片まで確認し、最後に濡れ布で拭き取った。
その間、食堂には再び静けさが戻っていった。
だが、先ほどまでとは違う静けさだった。
レオンはスープに視線を落とす。
湯気がゆらいでいる。
食事を再開する。
味はいつもと同じはずだった。
それなのに、なぜか落ち着かない。
スプーンを置く。
「……ハロルド」
「はい」
「皿は、貴重なものか」
「いえ。日常用のものです。問題はございません」
「そうか」
それ以上、言葉が続かない。
しばらくしてハロルドが言った。
「旦那様」
「何だ」
「本来であれば、先ほどは注意を与える場面でした」
レオンは答えない。
分かっている。
この屋敷では失敗は指摘され、次は起きないように改善される。
それが秩序だ。
「……叱責をお止めになった理由を、お伺いしてもよろしいですか」
レオンは初めて、言葉に詰まった。
理由。
考える。
規律を乱したから?
違う。
使用人を甘やかすため?
それも違う。
頭の中で整理しようとするが、うまく形にならない。
「……分からない」
自分でも意外な答えだった。
ハロルドは何も言わない。
ただ静かに一礼した。
朝食後、執務室へ向かう廊下を歩く。
中庭から笑い声が聞こえる。
昨日と同じ子どもたちだ。
だが今日は、その中にミアの姿があった。
手に包帯を巻き、他の使用人に何かを教わっている。
こちらに気づき、慌てて頭を下げる。
それから、少しだけ笑った。
レオンは立ち止まる。
胸の奥が、わずかに揺れる。
叱責しなかったことが正しかったのか、間違いだったのか。
判断できない。
ただ一つ分かるのは――
あのとき、彼女が怯えた顔をしたのを見た瞬間、
叱るという選択肢が浮かばなかったことだった。
なぜなのか。
答えは出ないまま、レオンは再び歩き出す。
規律は守らなければならない。
当主として当然のことだ。
それでも。
今朝の出来事が、頭から離れなかった。




