塾経営者の劣等感
1.
昭和時代、塾は会社組織ではなく、個人経営が普通であった。
会社組織の塾が増えたのは、平成に入ってからである。
田島泰彦が経営する田島塾も個人経営であった。
彼が東都外国語大学英米科を卒業したのは、終戦直後である。
24歳のとき、下宿先の娘と結婚した。
米軍キャンプでバイトしたことはあったが、就職しても当時の安月給では奥さんを食べさせられない。
塾を始めたのは、生活のためだった。
昭和40年代、文部省は学校に「文法を教えるな」と指導していた。
このようなことを始めたのは、文法が似ているヨーロッパの言語の学習で文法を教え過ぎ、効果が低かったことを不見識に猿真似したからである。
田島は生徒に徹底して文法を叩き込み、実際に東都大の合格者が多くなった。
彼は人間不信で、数学の授業は教え子の東都大か東都工業大の学生にしか任せなかった。
法人にした方が税の面で有利だと助言する者もいたが、田島は聞く耳を持たない。
英語以外のことには疎く、騙されるのを過度に警戒したのである。
田島は一種の異常性格で、美人の教え子が来ると平気で授業をボイコットした。
そのためか女子中学生でさえ、顔で差別し美人に甘く、不美人には厳しかった。
それだけなら、東都大の女子学生の顔には何の関係もないはずである。
だが、女子に対する依怙贔屓によって、待機している入塾希望者に入れ替わるので、結果的に美人の秀才が増えることになった。
塾の事務をお気に入りの東都大の女子学生・浅野久美子に任せた。
同じ大学を出た者たちが大企業で出世していくのを見るたびに、彼はひどい劣等感に苛まれた。
当時は塾経営者の社会的地位は極めて低かった。
「学歴社会」とか「偏差値は怪物だ」と評論家が言っていた時代である。
同窓生は、大企業で出世していた。
そんな田島に、二流の出版社から参考書の執筆依頼が入った。
印税方式ではなく、原稿買い取り方式で、一括80万円である。
出版社の社員は小さいとはいえ、社会的な地位の高いマスコミの一員で、田島を見下した。
「あなたは学歴は立派だが、職歴が書けないので、肩書なしにします。ご了承下さい」
田島はその言葉に怒りを爆発させた。
自分も偉いんだと言わんばかりに、学生アルバイトを連れて行った。
原稿はもう渡した後で、用件は金を受け取るだけである。
田島でも背広くらいは持っていた。
背広の内ポケットに仕舞えば、まず絶対に盗まれることはない。
「山田、お前も来い」
東都大の山田耕作という、数学を教えているバイトの学生に、彼はなんでも命令した。
東都大の教え子がいることを見せつけて、出版社の連中を見返そうと思ったのである。
山田は学生服でいき、1万円札80枚をA4の袋に入れた。
当時の1万円札は聖徳太子で、今より少し大きい。
田島は山田に車を運転させた。
田島塾は住宅街の目立たない場所にあり、建物の入口は道路から奥まった場所にあった。
山田は鍵を持っていなかった。
いつもは、事務の浅野久美子がいるが、そのときはいなかった。
田島は「しょうがねえなあ」といい、自分が持ってる鍵で、ドアを開けた。
二人が車に戻ってみると、そこに置いたはずの金が封筒ごとがなくなっていた。
車の窓から手を入れて、誰かが持ち去ったのである。
彼は「寝ないで書いたのに」と嘆くようになり、その頃から睡眠薬を飲むになった。
2.
塾の教師にとって、教え子が遊びに来てくることほど嬉しいことはない。
彼のもとにも東都大学を卒業して、大企業で活躍している教え子の女性がよく遊びに来た。
そういうときは、彼は平気で授業をボイコットした。
彼は自分以外の人間には英語を教えさせなかった。
生徒はガヤガヤ騒いで、時間が過ぎたら帰るだけである。
だがそれで父兄から苦情が来ることはない。
順番待ちの入塾希望者が大勢いるから、困ることはないのだ。
彼は車が趣味でA級ライセンスを持っており、外車を乗り回していた。
教え子の女性が来ると、彼は高級レストランに連れていき、話し込んだ。
彼は教え子の話を聞くと、淋しくもなった。
彼の出身大学である東都外国語大学の卒業生も大企業で大いに出世しているからである。
自分は所詮は塾講師に過ぎない。
ついに彼は教え子の一人に手を出してしまい、「今の妻と離婚して再婚する」と約束してしまった。
だが現実にはそう簡単には行かなかった。
今の妻が離婚するなら、1億円の慰謝料を払えと言い出したからである。
彼はついに睡眠薬を大量に飲み、自らの命を経った。
「浅野久美子さん。ありがとう。さようなら」
浅野久美子は事務をしていた東都大生である。
これが彼の遺書であった。




