第一章 安永七年秋 (四)
康二郎が野田家にやって来てから、一月近く経った。
初日の夜に誓ったように、二日目以降に泣くことはなかった。毎日が忙しくあっという間で、泣く暇もなかったのだが、康二郎が自分で忙しくしたところもある。
朝は五つ半(午前5時頃、夜明け前)に起きて身支度を整え、康二郎なりに食事の準備や配膳の手伝いをした。
康二郎は長屋で若党の信田庄次郎、徒士の萱島甚五郎と食事をするのだが、庄次郎が色々面倒を見てくれるのをよしとせず、失敗しながらもなるべく自分のことは自分でやるようにしていた。
朝食のあとは殿様の御登城を御家族と奉公人一同でお見送りする。ただし奥様に嫌われている康二郎はここでは長屋に潜み、格子窓からこっそりお見送りする。
三百石の供連れは、戦時となると、殿様は馬に乗っての六人だが、普段は少なくて良いので、野田家では徒士、中間、小者を一人ずつの三人にしていた。それでも三人を引き連れ継裃姿で殿様が出かけていく様は子供心になんとも物々しい。
本来なら、殿様のお供の三人は、有事に即対応できるよう、そのままお城の御門のすぐ外で殿様の帰りまで侍る、待たないといけないのだが、泰平と諸色(物価)高が続く世に武家はどこも奉公人の数を減らしているため、殿様が御門を入るのを見届けると、すぐに屋敷に戻ってくるようになっていた。念のため昼時に一人が様子を見に行き、何事もなければ、あとは下城の頃にお迎えに行く。
殿様のあとに今度は若様が若党の庄次郎を連れて塾へお出かけになる。康二郎は奥様の視界に入らないよう門の外で見送る。若様に仕えていくのだという気持ちからだった。
若様も門の外に立つ康二郎を見ると、「今日は川へ行こう」、「今日は遅くなると思う」というように予定を教えてくれた。
野田家では殿様の奥御右筆というお役目柄、客人が多く、中間の茂吉と伊三治が交代で門番をしていた。年の若い伊三治の方は朝晩殿のお供をするので、朝の門番担当は茂吉だ。康二郎が初めて野田屋敷に入ったときに潜戸を開けてくれた人物である。
茂吉は奥様の姿が見えなくなったのを確かめて、康二郎を中へ入れてくれる。
そのあとには又兵衛とおきぬによる手習いが始まる。
二人とも忙しいから、四半刻(約30分)ほど教えたあとはだいたい自習になる。これが眠い。
康二郎は、ひらがなは読めるようになっていたので、手習いは漢字の読み書きと算術が中心だった。最初のうちは覚えることばかりで、ひたすら文字とにらめっこになる。
この時代、紙は貴重だから書いて覚えるわけにいかない。書道では筆の使い方を覚えるのが大事なので古紙を使い実際に書く練習もするが、覚えるためだけには古紙すらもったいない。
眠いし退屈だしで、すぐに庭に出て地面に小枝で書いて覚えるようになった。ついでに落書きのようなこともやる。時にはどちらが目的だったかわからなくもなる。
門番をしている茂吉はそんな康二郎を眺めて楽しんでいるようだった。
どうにも飽きてくると、おたまやおきぬの手伝いをした。
茂吉は門番のつとめを伊三治と交代すると、庭の一角にある畑の手入れを小者の俊三と行うのだが、康二郎はそれも手伝えることは手伝った。具体的には害虫駆除、早い話が虫取りである。
子どもはたいてい自分より小さい動くものに非常な興味を示して追いかけたりするものだが、康二郎もご多分に漏れず虫を捕るのが大好きだった。
しかし問題は取った後だ。大人はさっさと殺してしまうが、康二郎は捕まえた毛虫を殺すことができなかった。かわいそうという気持ちもあるにはあったが、どんな虫に変わるのか知りたい気持ちが強かった。とはいえ、飼うには籠がいる。
茂吉は親切にも虫籠を作ってくれた。康二郎はそこに気になる毛虫を入れて屋根裏に持ち込み、サナギになるのを見守っていた。なにせ知識があるわけではないから、死んでしまう毛虫が多かったが、籠のなかで順調に大きくなっている毛虫が何匹かいる。
もちろんこのことは奥様やおみつには内緒にしていた。もしも二人に知れたら、悲鳴が屋敷をつんざき、殿様と若様のいない間に康二郎は門から放り出され、二度と敷地に入れてもらえなくなることだろう。康二郎を長屋住まいにさせたのは正解だったと言える。
そうこうしているうちに昼過ぎになり、白米に味噌汁か漬物程度を板の間でおたまやおきぬと一緒に食べる。この頃には一日に三度の食事を摂るようになってきていたが、昼間の食事は八つ時(午後二時~三時)に食べる、少し多目の間食、中食という位置付けだった。それもあって、食べるのが米の飯ではなくお餅や饅頭のこともある。
康二郎は食べながらおたまの昔話を聞くのが楽しみだった。縁日に外出のお許しをもらい、おっかさんと町へ出かけた時のことや若様が生まれた時のことをおたまは思い出すまま、康二郎に聞かれるままに語って聞かせた。おきぬはここへ勤め始めて三年ほどなので、康二郎と一緒におたまの話に耳を傾けていた。
お松が野田家の女中になった経緯もおたまは教えてくれた。身内はいないとだけ康二郎に言っていたお松だが、野田屋敷へは知行地の名主の姪として現れた。武家の出ではないということで、当初は下女として雇うつもりが、ちょうど女中が辞めたことと、器量と気立ての良さで急遽女中に格上げされたらしい。
「教えなくても礼儀作法はきっちりできていたから、名主一族の大百姓の家に生まれたのは間違いないと思いますよ。自分の生まれや育ちのことはほとんど話さなかったけれど、話の端々から感じたのは、何か不幸があって孤児になったらしいこと」
そんな中食での会話で、殿様は野田家より高禄の御家から婿養子に入ったにも関わらず、奥様に遠慮しているところがあるということを康二郎は知った。というのも、奥様は今をときめくご老中、田沼様にちょっとしたご縁があり、殿様がいきなり奥右筆に取り立てられたのも、そのご縁があったから、らしい。この頃ではもっぱら表右筆から奥右筆になっているのに、殿様は勘定所の勘定というお役目から抜擢されていた。
また又兵衛が通いにしているのは母親の看病のためだというのを聞いた。その話を聞いたときには康二郎はおっかさんを看病しながら棒手振りをしたときの自分を思い出し、又兵衛に心から同情した。
朝のうちに言われた量をこなせていなければ、中食のあとにまた自習をしなければいけない。
若様がお戻りなると、たいてい若様と一緒に過ごした。二人はお互いに今日あったことを話し、天気の良い日には外に出かけ、天気が悪い日には若様の部屋で絵草紙を読んだり双六をして遊んだ。康二郎が一日のうちで一番楽しみにしているひとときだ。若様は手習いも助けてくれた。
若様のもくろみははずれ、食事を康二郎と二人で食べることはできていないが、若様が屋敷に戻ってから夜食までの時間は二人で好きなように過ごせる一時だ。
殿様がお戻りになる頃には風呂の用意ができていることもあるが、朝の時も多い。防災の面から夜更けに火を使うことを避けるためだ。
この時代の武家屋敷の風呂は、かけ湯で済ますことが多く、湯船を使っても、浸かるというより蒸し風呂に近かった。殿様がお入りになった後にご家族、建前としては家士、続いて女の使用人が入り、下男達は最後になる。だが実際にはその順番を待っていては最後には夜も更けてしまったり、朝だと殿様の出仕に間に合わなくなるため、女の奉公人は時々、男の奉公人は大抵近くの湯屋(銭湯)へ行っていた。
そうして立場の微妙な康二郎はというと、まだ幼いこともあり、茂吉が湯屋へ連れていく。たまに屋敷内の湯殿を使うときにも、放っておくと適当に洗って済ませる康二郎の面倒をいつも茂吉が見ていた。康二郎は茂吉と一緒に楽しく風呂に入っている感覚だったが、茂吉は事故の無いよう守っているのだ。
夜食は朝と同様、長屋で庄次郎や甚五郎と食べる。
康二郎は若様の供役になると思っているから、庄次郎は見習わないといけない先輩だった。名前も似ているし、年齢も若様の次に康二郎に近い。
甚五郎と庄次郎は子供が二階に寝起きするようになって、やりにくくなった所もあったと思われるが、康二郎の前でそんなそぶりを見せることはなかった。二人ともいつもにこやかに康二郎に接していた。
この屋敷へ来た日の真夜中に見た女が現か夢かはどんどんわからなくなってきていた。
あれ以来全く見ていなかったが、そもそもあの日以降、康二郎は夜中に起きていたことがない。毎晩寝床に入ればすぐに眠りに落ち、目が覚めたら朝である。あの程度の音に目が覚めるとは思えない。
一度真夜中まで起きていようと思ったのだが、気がついたら朝だった。お屋敷の誰も何も言わないのを見ると何も変わったことは起こっていないのだろうし、誰かに話しても夢でも見たんだろうで片付けられそうで躊躇われていた。




