第一章 安永七年秋 (三)
「夜食は父上、母上と一緒にいただくのだけど、最近は特に雰囲気が悪くて。一人で食べる方がどんなに気が楽か。でもこれからは変わるね。お前が来てくれたから。ところで侍は旗本の当主のことを『旦那様』ではなく『とのさま』と呼ぶのだよ。なぜかはしらないけど」
「あ、そうだった……又兵衛様も旦那様のことは殿様と呼びなさいって言ってた……忘れてた……」
ちゃんと教えてもらっていたのにコロリと忘れてしまい、間違いを若様に指摘されて恥ずかしくなった康二郎である。
「あ。これからは変わるっても、俺はここで食べられないですよ。長屋で食べないとおくさまに怒られる……俺なんかと一緒に食べたらもっとひどい雰囲気に……」
「だ、か、ら、それを逆手に取って、お前と二人で食べるってのは、どうだろう?俺がよく食べるようになったら、きっと周りが二人だけで食事させるように勧めると思うんだ」
とにかく楽しそうな若様である。
「そこで大事な頼みがある。母上の前では無理だけど、二人でいるときに『若様』はやめてくれ。呼び掛ける時は『兄上』だよ。いいね?」
それを聞いたときの康二郎は端からは呆けて見えたことだろう。驚きすぎて、一瞬、何も考えられなかったのだ。やっと頭が回転し始めて思ったことは、
――いや、良くない。きっと良くない。そんなにうまいこと呼び分けられない!
若様は見事に言葉を使い分けていた。二人きりになった途端に、一人称が「私」から「俺」に変わり、言葉遣いがくだけたが、康二郎はそんなにうまく切り替えられるとは思えなかった。
何より自分が若様の弟だと言うのがどうにも信じられない。信じられないのに「兄上」なんて親しげに呼べない。
――だって、又兵衛様は「若様に仕えることになる」と言ってたじゃないか!
この広いお屋敷で、あんなよくわからない父上とキイキイわめきがちの母上と過ごしてきたのが辛くて、ちょっとおかしくなったんだろうかと康二郎は訝った。色々気遣ってくれている若様にあまりに失礼な想像である。
「明日から康二郎は又兵衛に読み書きを教わるんだってさ。そのうち俺と一緒に塾へ行くことになると思うから、それまでの辛抱だね。塾から戻ったら一緒に出掛けよう。この辺りを案内するよ。町屋で甘いものを食べようぜ」
町屋で甘いものを食べようという誘いには天にも昇るような嬉しさが湧き起こる。甘いものを食べられなくたって、この若様と町へ出るのはきっと楽しいだろう。
――けど、その前に何をしなければいけないって?
康二郎の頭は思いがけないことがありすぎていっぱいいっぱいだった。
先ほどの女中がまた現れた。
「お夜食の用意ができましたよ」
若様が殿様、奥様と夜食を食べている間に、康二郎は台所である板の間でおたまに紹介された。
女中頭だというおたまは康二郎を見るなり涙を流して抱きしめた。四十半ばということだったが、丸顔で顔色は明るく、又兵衛より若く見えるくらいだった。
「お松によく似てますね。お松は顔も気立ても可愛らしかった……」
康二郎はおたまのふくよかな胸に顔を押しつけられて思わずもがいたが、母親を知っているのが嬉しかった。
おたまは気持ちが落ち着いたところで、康二郎をしみじみと見つめた。
「若様にお会いしたのですよね。なんておっしゃった?」
「明日、塾から帰ってきたら町へ出ようって……」
「それだけ?他にもっと大事なことをおっしゃらなかった?」
たった一人の弟だと言ったことかと、おたまの聞きたい答えはわかったが、康二郎は口にするのをためらった。
その様子におたまは康二郎が兄弟と言われても素直に喜べず、複雑な感情を抱えていることがわかったらしい。この屋敷の造りや家士、奉公人の紹介に話を変えた。
「女中は私とおきぬ、おみつの三人いるの。そのうちのおみつには気を付けなさい。こんなことを言わなければいけないのは女中頭としては情けないけれど、何かあってからでは遅いから。お松の身に起きたことを考えると、用心するに越したことはないのです」
「おっかさんに何があったんですか?」
「身籠っていることがわかった後、何度か危ない目にあったのですよ。確かな証しがあるわけではないけれど、一番怪しかったのがおみつ。おみつが仕掛けたんじゃないかと……。お松は臨月迄にはここからお暇をいただくつもりでいたけれど、身に危険を感じて、考えていたよりずっと早くいただかざるをえなかったの」
康二郎は若様の部屋に現れたおきぬと共に康二郎を着替えさせたもう一人の女中、おみつの顔を思い浮かべた。言われてみれば、おきぬと違って笑顔がわざとらしかった気がする。
「おみつは八年前の春に数えの十五でここへ来た直後から奥様に取り入るようなことを色々やってね。今ではすっかり奥様のお気に入り。奥様を喜ばせるためなら、奥様が気に入らない人にひどいことをやりかねないのです」
おたまによると、家士や男の奉公人には気を付けないといけないような人物はいないらしい。康二郎はほっとした。
ひととおり話した後で、この屋敷で初めて摂る食事が一人では淋しかろうと、おたまは康二郎と一緒に板の間の片隅で食べた。いつもは殿様達の食事が終わってから女中三人で食べるのだが、この日は特別だ、と。もちろん早く康二郎を寝かせるためである。
康二郎はお腹がくちくなるにつれて眠くなり、食べ終わる頃にはあくびを連発していた。おたまに安心感を覚え、張りつめていたものが一気に緩んだのだ。
おたまは眠ってしまいそうになるのを必死にこらえている康二郎に最低限の寝支度をさせ、長屋へ連れていった。又兵衛から指示を受けると、下男に急いで長屋の屋根裏を掃除させ、虫除けまで焚いていた。
長屋では濡縁ですれ違った若い侍、侍姿の奉公人である若党の庄次郎が待っていた。長屋の一方には侍姿の家士、門を挟んだ反対側に町人髷の中間と小者、下男が暮らしている。
用人の又兵衛は、今は通いなのだという。
眠すぎて意識朦朧としている康二郎の世話をおたまから頼まれた庄次郎は「承知した」としっかり頷き、康二郎を抱えあげた。
康二郎は抱えあげられたところで、とうとう眠り込んでしまった。
目が覚めたとき、康二郎は棟割長屋にいるのだと思った。だがそれにしては薄暗さが違う。良くみると天井がずいぶん低い。布団も違った。そうして隣からではなく、下の方から人の声が微かに聞こえてくる。
――あれ?ここはどこだ?
起き上がると、部屋の隅には階段らしきものが見え、下から弱い光が射していた。そこからぼそぼそと二人の男の声が聞こえてくる。思わず康二郎は耳を澄ました。
「いきなりあの若様が明日お出かけになるとは、驚くよな。我々からしたら康二郎様々だ。このまま兄弟仲よく大きくなってもらいたいものだ。俺たちも少しはやりやすくなる。康二郎殿を次男として扱ってくだされば、もっとやりやすくなるがな」
「奥様のあのご気性では、無理でしょうな……もし若が康二郎殿を嫌うようになったら、その時点で康二郎殿は追い出されてしまうでしょうしね。困ったものだ……」
追い出されるという言葉に、康二郎は寝ぼけていたのが覚醒した。
――そうだ。わかさまがいるから、俺はここに引き取られたんだ。あのわかさまだから、俺はこのお屋敷に居られるんだ。わかさまに嫌われたら……
ゾッとした。と同時に、暗い部屋に一人で寝ていることにとてつもない淋しさを感じた。ついこの間まで目が覚めたら、おっかさんがすぐ横にいたのだ。更には奥様の冷たい目が頭に甦った。今度はおっかさんの笑顔が浮かんだ。次にはおっかさんの死に顔が浮かんだ。
胸が詰まるような苦しさが喉まで広がり、涙がこぼれた。おっかさんがいなくなってから毎日ずいぶん泣いてきたのに、まだまだ涙が出てくる。
――明日からは泣かない。明日からは泣くもんか。
そう心に誓いながら、康二郎は布団を頭から被り、丸くなって泣き続けた。
どれくらい経った頃だろう。門が閉まるような音がした。微かな足音がする。なるべく音をたてないように歩いているのだろうが、夜の静寂の中では耳につく音だった。
康二郎は起き上がると、屋敷に向いた小窓から外を覗いてみた。下弦の月明かりが微かに陰影を浮かび上がらせる中に、女と思われる後ろ姿がちらと見えた。
しばらく小窓から様子を見ていたが、そのあとに動くものは見えず、何の物音もしなかった。
康二郎は首を傾げながら、寝床に戻った。翌朝には夢を見ただけのような気がした。




