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第一章 安永七年秋 (ニ)


 ――おっかさんは盗っ人じゃない!

 母親を侮辱された怒りに立ち上がろうとした康二郎だったが、後ろから両肩をがっしり押さえられた。振り仰ぐと、又兵衛が悲しげな目で康二郎を見つめ、小声で「我慢しなさい。お松のためにもこらえなさい」と言うのが聞こえた。

 あんなひどいことを言われて我慢するのが、なぜおっかさんのためなのかと、康二郎は納得できなかった。けれど、又兵衛が両肩に置いた手からは叱るのではなく、思いやりのような温かさを感じ、康二郎は涙が溢れそうになるのを必死にこらえ、怒りも必死に抑えた。


「長屋ですよ。すぐに長屋へ連れて行きなさい。一晩くらいどうとでもなるでしょう」

 それを捨て台詞に奥様は立ち上がると、足早に座敷を出ていった。

 奥様の怒りの余韻が残る部屋にまたしばらく沈黙が流れた。

「父上、まさか康二郎を長屋で休ませることはしないでしょう?あそこだと康二郎には知らない大人の男ばかりですよ。おたまだって、康二郎の世話を焼くのを楽しみにしていたのに……」

 沈黙を破ったのは、若様だった。


 若様の声が近づいてくる。

「女中部屋がいけないなら、私の部屋で寝ればいいんだ。母上にばれたりしないよ。そうしよう、康二郎。父上、又兵衛、良いでしょう?」

 拳を握りしめてうつむいている康二郎の視界に袴が見えた。次には若様の心配そうな顔が見えた。片膝ついて、康二郎の顔を覗き込んだのだ。

 康二郎の中では負けん気がむくりと起き上がってきていた。

「どのみち長屋で寝起きすることになるなら、今晩から長屋で寝ます。布団が無くたって平気です」

 両の拳を握りしめたまま、顔をあげると、康二郎は殿様に向かって言った。精一杯の意地だった。

 殿様は表情を変えなかった。奧二重の目が康二郎を見つめていたが、何を考えているのか、どう思っているのか、全然わからない。

 一方、若様は驚いていた。


 康二郎は若様にぺこりと礼をした。若様の気持ちはとてつもなく嬉しかったが、色々な感情が渦巻いていて、言葉にならなかった。

「又兵衛様、長屋へ連れていってください」

 知らない人ばかりだって「長屋」なのだ。これまで暮らしてきた長屋と同じような所なら、こんな広いお屋敷より慣れていて、却ってよく眠れるに違いない。


 しかし、康二郎の意気込みは若様に挫かれた。

「わかった。長屋で寝るんだね。でも今から長屋へ行くことはないよ。これから私の部屋へ行こう。又兵衛、その間にちゃんと準備させておくれ。康二郎が困らないように」

 若様は康二郎の握りしめたままの右の拳を両手で包むように握ると、

「さ、おいで」

 立ち上がるよう促した。

 康二郎が又兵衛を振り向くと、行きなさいというように頷いた。

 


 自然と手を繋ぎ、康二郎は若様の後について座敷を出た。座敷を出てからしばらく濡れ縁を歩いた。

 日はもう西に沈んだらしく、濡れ縁から見える東の空は下から薄い灰青色に変わりつつあった。

「濡れ縁は静かに歩かないと怒られるんだ。部屋に着いたら、色々話したいことがある。すぐ着くよ」と若様。康二郎より三つ年上というから数えの十二才である。


「ほら、ここが私の部屋だ。康二郎はいつだって好きなときに来ていいんだよ」

 若様がとある腰高障子を開けると、広さは康二郎が暮らしてきた長屋の部屋とほぼ同じくらいの、畳が薄暗い中でも綺麗だとわかる、文机や箪笥のある部屋が現れた。文机の上には筆が何本も転がり、小皿は三枚あった。そうして畳の上には絵が三枚散らばっていた。


「この絵はわかさまが描いたんですか?」

 絵は通ってきた濡れ縁から見えた庭に咲く草花に見えた。康二郎は上手いと思った。

「まぁね。散らかしてたんじゃなくて、乾かしてたんだ……」

 絵を拾い上げながら若様は答えた。


 拾い終えた絵を文机に置くと、若様は脇差を外して、隅に置いてある刀掛けに置いた。刀掛には刀も置かれていた。

 康二郎は物珍しくて、その様子をじっと見守っていた。

「自分の部屋では外して良いことになってる。やれやれだよ!脇座を差してると寛げない」

「ほ、本物ですか?」

 思わず噛みながら康二郎は聞いた。

「もちろん本物だよ。大して切れないと思うけどね。持ってみるかい?」

 若様は刀掛を指差しながら言った。

 康二郎は激しく首を左右に振った。

「明日から、さっそく康二郎も脇差を差せと言われるのではないかな。いきなり二刀を差して歩くのはキツいからね。まずは脇差からだろう」

「明日から?」

 康二郎は刃物を身につけることに怖さも感じたが、ワクワクもした。


「暗くなってきたね。灯をつけなければ……」

 若様が誰かを呼ぶまでもなく、女中が火のついた手燭を持って現れた。さっき康二郎を座敷に連れていった女中だ。若様の部屋にいるのを見咎められるかと康二郎は一瞬固くなったが、それを見てとってか、女中は微笑んで言った。

「康二郎殿が来るのを若様はそれはそれは楽しみにしていらっしゃったのですよ。お夜食の用意ができたら呼びに参りますから、それまでお二人で存分にお喋りなさいまし」


 康二郎には、色々知りたいことがあったが、

「わかさまはどうして俺に優しいんですか?だんなさまもおくさまもあんな風なのに」

 最初に口から出たのはそんな問いだった。

 若様は嬉しそうな表情のまま、じっと康二郎を見つめた。

「だって、お前は()のたった一人の弟だもの」


 康二郎は聞き間違ったと思った。

「え?」

「俺たちは兄弟だよ」

「え?わかさまも俺みたいにこのお屋敷に引き取られたんですか?」

 若様は吹き出した。

「違う、違う。俺は生れた時からこの屋敷にいたさ。さっき挨拶したこの家の当主がお前と俺の父上なんだよ」


 康二郎は唖然とした。口がぽかんと開いた。

「俺も知ったのはほんの五日前だけど、父上から弟がいると聞いたときは嬉しかったなぁ!つい他にもいないのですかとたずねてしまって、怒られた」

 若様はぺろりと舌を出した。

「康二郎は母君から何も聞いてなかったのかい?」

「お、おとっつぁんは死んだって……」

「そうなんだ……お松はこの家のことを何も話さなかったんだ……」

「そ、そ、それにだんなさまは何も言わなかったじゃないですか!」

「あの人はああいう人なんだ。何を考えているのか、毎日顔を見てる俺にもわからない。でもお前を引き取ることを押し通したよ。その点は父上を見直したなぁ。あ、ここだけの話だぜ。又兵衛に知れたら、親に向かってなんと不敬な……と叱られる」

「ふけい」に康次郎は話についていけなくなった。


「母上はあの通り、気に入らないことがあるとキィキィわめく人で、この数日間、相当わめいていたんだ。なんとかしてお前を引き取らずに済ませようとしてね。それこそ無茶な話さ。お家存続が何より大事なんだから。嫡男に何かあったら次男に家を継がせないといけない。二人しか子供がいないのに、そのうちの一人を町屋で暮らさせていたのがそもそもおかしい。いくら婿養子と言ったって、今は父上がこの家の(あるじ)なんだから」

 康二郎は若様の言う嫡男に何かあったら家を継ぐ「次男」が自分のことだとは全く考えられなかった。他人事のように聞き流した。



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