第一章 安永七年秋 (一)
* 第一章は、プロローグ的な短めの章です。
康二郎は初めて見る広い座敷で手をつき、頭を畳につくくらい下げ、ひたすら懸命に畏まっていた。
前方にはこの屋敷の殿様と奥様、嫡男が先ほどしずしずと現れ、殿様を真ん中に、上座に並んで着座した。
何もかも初めてのことばかりである。
いったいこれから自分の身に何が起こるのか、全く予想ができなかった。おっかさんが突然死んでしまい、長屋にいられなくなった今、ただひたすら横に座る、この家の用人だという浅倉又兵衛の言う通りにするしかなかった。
「お松の息子、康二郎でございます」
沈黙が流れた。
康二郎は自分に注がれる視線に更に身体を固くした。
――さっき又兵衛様と練習したとおりに答えなければ。
「こ、こ、康二郎に、ございます。ふ、ふつつかものにはございますが、どうぞよろしく、お……おひきまわしのほど、おねがいいたします」
「おひきまわし」がなんのことか、もちろんわかってはいない。長屋では初めまして、よろしく……ぐらいで済む挨拶がこんなややこしい舌を噛みそうなことになるなんて。
「数えの九つか。おもてをあげなさい」
殿様の声だと顔をあげなくてもわかった。淡々とした声なのに雷のように響き、康二郎は震えた。
生まれた年を一歳とする数えでは九歳だが、秋の終わりに生まれた康二郎は、この時、まだ満七歳だった。
「顔をあげなさい」
横に座っている又兵衛の優しい声が聞こえた。
「父上、ますます堅くなるじゃありませんか。私に話をさせてください」
男の子の声がした。
――「わかさま」だ。「かずのすけ」というお名前だという……
「康二郎、顔を見せておくれ」
温かみのある声音だった。思わず康二郎は声のする方へ顔を上げた。
目に入ったのは、まっすぐ康二郎を見つめる、好奇心と優しさが溢れた切れ長の少年の目だった。その目を見たとき、康二郎は心底ほっとした。緊張しきっていたのが少し緩んだ。
だが少年が更に口を開こうとしたとき、隣から咳払いが聞こえ、冷たい視線が康二郎を射してきた。
その冷たく怖い雰囲気に震えながら、康二郎はまた頭を下げた。少しだけ顔をあげて様子を探るようにそちらを見ると、薄紫の地に白や柿色の花模様が散っている着物が見えた。「おくさま」だ。そろりと着物から顔の方を窺ってみた。尖った顎、薄い唇が見えた。そうして、更にその上には、冷たい、刺すような目が康二郎を睨みつけていた。
康二郎は震え上がった。わかさまと同じ切れ長の目なのに、なんと違うことか。
――どうしてこんなに冷たい目で睨まれるんだろう?初めて会ったのに。
こんな冷たい目で「おくさま」に睨み付けられるお屋敷で生きていけるんだろうかと、康二郎は不安だらけになった。
――長屋に帰りたい……
今さら戻っても、おっかさんとこれまで暮らしてきた店で住めないのはわかっていたが、狭いし古いし、窓もない九尺二間の棟割長屋がとてつもなく懐しかった。
母のお松と二人で暮らしていた長屋の家守、藤右衛門が嬉しそうにこの屋敷に引き取られることを康二郎に告げたのは、二日前のことである。お松の初七日の夜だった。
「康二郎、喜べ。野田様がお前を引き取ってくださるぞ。おっかさんが前に女中奉公していたお屋敷だ。三百石のお旗本で、殿様は奥御右筆をお勤めの立派なお家だ。お前さんが男の子なのが良かったのだよ。年の近い御嫡男がいるということで、遊び相手として、またこれから長く仕える徒士として都合が良いということらしい。お前さんは二刀を差した侍になるんだよ。良いだろう?」
町で見かける二本差にあまり良い印象がなく、憧れなど全くなかった康二郎には何が良いのかさっぱりわからなかったが、嫌だと言えないことくらいはわかっていた。
おっかさんは身内がいないと言っていた。おとっつぁんも死んだのだと言っていた。誰も引き取り手がいなければ、藤右衛門か長屋の誰かが面倒をみてくれるかもしれないが、藤右衛門にしろ余裕があるわけではなく、裏ぶれた長屋に住む人々はなおさら余裕はない。引き取り手が現れたら、そっちへ行ってくれに決まっている。ましてや三百石のお旗本となれば「何をためらうことがある」である。
康二郎はその夜おっかさんの位牌の前でひとしきり泣いた。
だがいつまでも泣いていたら、おっかさんが悲しむと気づいた。
おっかさんが死んだと知った時、一緒に泣いてくれた長屋の人達も康二郎に言った。
「おっかさんのためにも康ちゃんはしっかり生きていかなきゃならないよ。今は思いっきり泣いたらいい。でも、いつまでも泣いていてはいけないよ」
野田様のお屋敷がどんなところかわからないけれど、ひょっとしたら何か良いことがあるのかもしれない。行ったばかりのうちは悪いことばかりでも、そのうち良いことが起こるかもしれない。
「世の中良いことも続かないけど、悪いことも続かないんだよ」
それは母、お松がよく康二郎に言っていた言葉だった。
康二郎を引き取りに長屋にやって来た三百石の旗本、野田家の用人だという浅倉又兵衛は、道中言葉少なかった。だが康二郎の手を引いてゆっくり歩いてくれた。さりげない気遣いがあった。
康二郎にはかなり年を取って見えたが、又兵衛は四十手前のひょろりと背の高い痩せた侍だった。
又兵衛は途中で駕籠に乗せてくれたものの、駕籠を降りてからもまたしばらく歩き、結局一刻(約二時間)程かけて康二郎を連れて行ったのは、坂を上がりきったところに立つ武家屋敷だった。
その一角の武家屋敷はどこも似たり寄ったりの大きさで、同じような長屋門を構えていた。もしも一人で外へ出たなら、帰りには間違えて隣のお屋敷に入りそうだった。
又兵衛が門脇の潜戸を叩くと戸が内側から開けられた。
門を開けたのは髷に白髪の混じった初老の男で、又兵衛に「お帰りなさいませ」と声をかけ、康二郎には不思議そうな目を向けた。
康二郎も不思議そうな目をしていたかもしれない。武家屋敷の前は何度も通ったことがあったけれど、中に入るのはこれが初めてだったから、門の向こうが見えた瞬間から、緊張しながらも見るものすべてに好奇心を掻き立てられていたのだ。
門から式台までは敷石があり、お寺みたいだと康二郎は思った。
又兵衛は式台には向かわず、康二郎を式台の右手にある勝手口へと先導した。
勝手口だけでも康二郎が住んでいた長屋の店くらいの幅がある。中は土間が奥までずっと続いていて反対側からも大きく光が入っていた。反対側の奥にも戸口があるのだ。左側には板の間が土間と平行にやはり奥まで広がっている。
康二郎にはあまりに広くてお城の勝手口のように思えた。
又兵衛が上り框から板の間の奥の方へ声をかけると、待ち構えていたようにすぐに二人の女中が引戸を開けて現れ、有無を言わさず康二郎の足を洗い、土間横の小部屋で用意してあった袷の着物と袴に着替えさせた。
康二郎は着ていた着物がどうなるのか気になった。おっかさんが夜なべして縫ってくれた着物なのだ。そうして初めて身につけた袴は、なんとなく落ち着かない。
――厠へ行くときは一々脱がないといけないのかな?間に合わなかったらどうしよう。
かなり不安になった。
着替え終わると、女中の一人が康二郎を屋敷の奥へと導いた。
女中に入るよう促された座敷には又兵衛が先回りしていて、主一家の現れるのを待つ間にあの長たらしい挨拶を練習させたのだった。
座敷に連れてきた女中も途中ですれ違った若い侍も康二郎に穏やかな目を向けてくれ、若様も優しい目だ。そう悪いことはないかも……と思えてきていたのに、そんな気持ちを吹き飛ばしてしまったのが奥様の冷たい視線だった。
殿様の声も抑揚がなく、康二郎を屋敷に引き取ることをどう思っているのかわからなかった。
ただひとり、若様だけはどう見ても、絶対に自分のことを好いてくれている。康二郎は若様にすがるような気持ちになっていた。
「この子をどこに寝かせるのです?まさか女中部屋ではないでしょうね?」
奥様の冷たい声が康二郎に突き刺さってきた。
「いずれは長屋に寝起きさせますが、ここに慣れるまでの間、しばらくはおたまが面倒を見ると申しておりまして……」
「なんですと?とんでもない!おたまは私の気持ちがわからぬのか!殿」
奥様の膝の向きが変わった。
「昨日も申し上げましたね。長屋に寝起きさせるなら引き取ってもよいと。このような者をこの屋に置くことは私が耐えられませぬ。私を取るか、この子を取るかでございまする!」
奥様の言う「長屋」とは門の両側にある長屋のことである。長屋門と呼ばれる由縁だ。家臣と奉公人の住まいである。独り身の男の奉公人が雑魚寝していることが多いが、場合によっては妻帯者が家族で暮らしていることもある。それくらいは康二郎も知っていた。
康二郎は奥様の剣幕に震えが止まらなかった。若様も緊張しているのがわかった。
「わかっておる。だが、今日はもう遅い。又兵衛、長屋に寝屋の準備はできておらぬのだろう?」
「はい。いずれは長屋の屋根裏にと伝えておりますが、今夜は女中部屋に寝かせるというおたまに任せるつもりでしたから、まだ屋根裏を片付けてはおりますまい」
「奥、今夜だけは目をつぶってくれ。一晩の話ではないか」
文字面だけなら、怒髪天状態の奥様をなだめているありがたいお言葉だが、殿様の声には抑揚がなかった。棒読みのセリフに康二郎には聞こえた。
「あんな盗人猛々しい女の子供なぞ、私は見たくもないのに。我慢してここにこうして座っているのに、更に我慢しろとおっしゃるのですか?」
キィキィわめく奥様の声に康二郎は頭が痛くなってきていたが、「盗人猛々しい女」には思わず奥様を見返した。
――おっかさんのこと?
康二郎も奥様に負けないくらい頭に血がのぼった。




