2話<前編> 菜月の手がかり
「…ようし、もう一回やってみな」
「ええ、休憩時間は頂けないんですか」
「駄目だ」
「師匠のケチ。鬼。悪魔。タコ。デビルフィッシュ」
「何とでも言え」
「むむー」
脱力した状態で、取り敢えず軽く左腕に意識を集める。
すぅ、と煙が立ち上る。先程とは異なり、腕は熱くない。
「おー、いいぞいいぞ。その調子だ」
言われるがまま、だらけきった魔術を行使する。
ところで、別段今すぐに関係することではないが、この術が仮に煙幕として利用されるものだとすれば。有事の際にこの圧倒的脱力感を出せるかと問われれば、勿論のこと不可能である。
さてさて、では意識を極限の脱力体験へと誘ってみよう。五千兆あるIQを、サボテン並にしてみる。ぼけー。
あー、それにしても、今日の夕飯はどうしようか。昨日は面倒臭くてシチューにしてしまった。今日は昨日の残りとあと何か一品作ろう。そうだ、カレーにでもしてしまおうか。現世にいたときは最も手軽だったが、ルーが手に入らないことから今や最も難易度の高い料理と化したカレー。調味料入れにガラムマサラを見つけたから、それをシチューに入れて、ご飯にかければ何となくカレーのような風味のする何かは出来るだろう。よし、そうと決まれば…。
「海咲、おい」
「あっ、ごめん。もしかして呼んでた…って何これ。煙たい」
知らぬ間に、部屋が煙で一杯になっていた。
「成功?」
「失敗だろ。コントロールが効いてないじゃねえか」
最早、アースラが何処にいるかすら定かではない。私は取り敢えず窓を開けようと、立ち上がった。
左足が、何か柔らかいものにつまづく。
「痛。こら、無闇に動くなよ」
「ごめん」
アースラは指をぱちりと鳴らす。忽ち煙は晴れ、私は部屋の中心に、不自然な中腰で立ち竦むことになった。
「もう、最初からやってよね」
「悪い悪い」
アースラがけたけたと愉快そうに笑う。こういう時、彼女はいつも私を揶揄するようなことをする。
そこが可愛いので全て許す。
「それにしても、何考えてたんだ?偉く惚けた顔してたけど」
「お夕飯の献立」
「お前なあ、煙幕張らなきゃやられるってときに、夕飯の献立なんて考えられんのかよ」
「知ってますう。理解した上でやってますう」
「ぷっ」
「ふふふ」
何が面白かったのか分からないまま、互いに笑い続ける。
こういうノリは、久し振りだ。女子高生だったときは、毎日がこんな感じだった。
「ねえ、アースラはさ、学校に行ったことある?」
「…あると言えばあるが、ない、と言えばない」
アースラが仏頂面で言った。
「楽しいよ」
「そうか」
彼女が漏らしたのは、その一言だけ。
菜月然り、どうして私の友人は闇の深い人が多いのだろう。自分の闇深さが類は友を呼んでいるのか。もしかすれば、それも大いに理由としてあるかもしれない。
「アースラの昔の話聞きたい」
「む」
暫くの沈黙。地雷を踏み抜いたと思い、私は慌てて謝罪した。
「あー、いや、いいんだ。アタシは別段そこまで暗い生活を送ってきたわけじゃない。単にコミュ障拗らせてるだけだ」
自覚があったのか。それにしては、仲良くなろうとする努力が些か感じられなかったが。
「友人だってお前以外にもいるぞ。まあ、アタシのじゃなくて、元々は母親の友達だったんだが」
「えっ」
意外な真実。失礼ながら彼女は、ずっと天涯孤独かと思っていた。
「ええと、五人くらい。
…と言っても、擽り合いが出来るのはお前だけだけどな。他は大抵殺し合いになる」
「おおー、アースラにしては頑張った方じゃない?」
「だろ」
「いや、褒められたことじゃないけど」
分かってるよ、とアースラは頬を染めた。私は、彼女のこういう茶目っ気のあるところが、好きだ。分別のある大人の女性なので、手は出さないが。
「ねえ、この世界には、他に人は住んでないの」
ふと、思ったことを彼女に尋ねてみる。
あざらしは、この世界のことを幻夢境と言った。私は、それ以上のことは何も知らない。
「住んでるぞ。大きな町がいくつもある」
「へえ」
「丁度いい。昼飯にしようぜ。そのときに幻夢境について教えてやるよ」
「え、縮小魔術の練習は?」
「いつも暴発してアタシが小さくなる羽目になるから嫌だ」
気がつけば、私の腰元の懐中時計は、正午を示していた。
「あー、もうこんな時間か。何がいい」
「ハンバーガー」
「元勤務先也〜。パテを作るの時間かかるんだけど。ベーコンレタスでいいかしら」
「妥協してやる」
私達は食堂へ移動し、その道すがら厨房横の食料庫から適当にパン、トマト、ピクルス、レタス、そしてベーコンを引き出し、切るなり焼くなりして適当に加工する。
それらをそれらしく積み重ねれば、即席のベーコンレタスハンバーガーだ。
塩胡椒で味をつけた厚切りのベーコンを、厚さ一センチ程度に輪切りにしたトマトと、ちぎった瑞々しいレタスに挟み込む。ピクルスはお好みで、お皿に二かけほど添えておく。
私達はこの健康的なジャンクフードを頬張りながら、講義を再開した。
「で、だ。この世界はな、月の裏側が見える場所、正に対する負、物質界の虚像こと幻夢境だ。英語だとドリームランドだな。
まあ、簡単に言えば、人々の見る夢の世界、というところかな」
「ネズミの国みたいな?日本だと舞浜」
「ドット三つで表現できる、世界一有名なネズミの国のことを言っているなら、少しばかり語弊があるな。夢見る乙女の夢じゃなくて、寝てる時に見ている方だ」
「うーんと」
夢というのは、近年の研究によれば、脳がその日の出来事をちぐはぐに組み合わせてできる、科学的に論証可能なものではなかっただろうか。
「あー、なるほどな。そういうことだったわ」
アースラが思い出したように言った。
「確かに、凡そ人がその生涯で見る九割九分の夢は、単なる記憶の再生に過ぎない。しかし、残りの一分は違う。しかしそのことは、巧妙に秘匿されている。お前のいた世界にはな、メン・イン・ブラックがいるんだよ。隠してるんだ、この世界のこと」
「コーヒー飲んでる宇宙人とか?」
「あのな。アタシが言ってるのは映画の話じゃなくて、神秘や魔術を隠そうと画策している連中のことだ。お前達はな、騙されてるんだよ。
話が逸れた。この世界は、お前達の世界の裏側、夢の世界なんだ」
「待って、それはおかしくない?だってさ、私は今明晰夢を見てるってことになっちゃうじゃない」
それにしては、真に迫り過ぎている。夢か現かを判別する為に、頬をつねる行為すら、意味を成さないほどに。
「明晰夢か、いい表現だな。でも、よく考えてみろ、お前がここに来る前の、最後の風景は、何だった?」
最後の風景。マリーナタワーの屋上。飛び降り自殺をした菜月。帽子の男の指。真っ逆さまに落ちていく私。
「嘘、私」
死んでいるのか。既に。
何にせよ、意識を失っていればいい。あざらしは確かにそう言った。成程、彼らは正しく死神という訳か。肉体から、抵抗できない意識を引き抜く。それが、あざらしの仕事だったのか。
「十中八九死んでるだろうから、詮索はしないぞ。ちょっとショッキングだけどな。まあ、肉体なんてものは、実際問題不必要なんだ。そもそもの話、肉体の役割とはなんだ。
物事を感じ取るための装置か。なら、それを失ったお前が感じる、痛みはなんだ。
脆弱な精神を守るための器か。なら、どうして人は自らの首に縄を巻くんだ」
アースラは一呼吸置き、私の目を見据える。
「肉体なんて仮初の器でしかない。これは宗教ごとに違うが、人は死んだ後、何処に行くと思う」
「さあ」
そんなことは、分からない。
「馬鹿、お前は今、何処にいるんだよ」
アースラが口元を歪める。
ああ、そうか。ここは、死後の世界なのか。私たちは、知らずに、死後の世界を垣間見ていたのか。
「ここは黄泉の国と地続きだ。ここが、死後の世界なんだよ」
「え…?いや、待って待って。矛盾してるよ。だって、私にかかってるのは、不老不死の術でしょ。それに、空腹を感じるなら、餓死するってことじゃないの」
死んだ後に、もう一度死ぬなんて、ありえないと思う。仮に人は死んだら此処に来るとして、此処で死んだ人は何処へいくのだろう、という問題が生じてしまうからだ。もしかしたら、私達は無限大に発散するバームクーヘンを生きているのかもしれない。
「お前割と鋭い時あるよな。一つのルートとしては、えーっと日本語で…輪廻転生ってあるだろ」
「確かに。でも地獄の釜茹でって一回で済むの」
「ありゃある種のサディズムだからな。奪衣婆っているだろ、あいつが掛けてんだよ、不老不死の魔術」
「そんな後付みたいなの信じない」
「そう言われると弱るが、仕方ないんだよなあ。ただでさえ人口が増えてんのに、易易と生き返らせるわけにはいかないんだよ、あちらさんも」
「どういうこと」
「あらゆる生物が、巡り巡って人間に転生できるとしたら?」
つまり、今人口が過剰に増えているのは、他の生物が減ったからとでも言いたいような口振りに、私は閉口した。
「千年サイクルで十分なのさ。人間が死んだら、転生できるようになるのは、自分を知っている人間が末代まで死に絶えたあとで。その点種のため徳を積んだ虫とか動物は責め苦を受ける時間が異様に短いから、なるほど人間が増えるわけさ」
「渋谷のスクランブル交差点を、ドードーの大群が闊歩してるかもしれないってこと」
「あるいは、ニホンオオカミかもな」




