9話<後半> 時空の狭間に住まう猟犬
「嘘、痛っ」
堪らず、左手で舌を引き抜き、左足を庇いながらどうにか部屋を出る。
階段を降り、食堂の前まで来る。
「うっ、ぐ」
呻き声を上げながら、私は必死に走った。怪異続きだったことが幸いし、私は比較的冷静だった。
出血は自然に止まりそうもない。まずは、安全な所に行って、止血をしなければ。私は、厨房のある西棟へ向かうことにした。あそこならば、水も、包帯替わりになる布も沢山ある。おまけに、武装の真似事が出来るものまで。
背後を振り返ると、木の板を割るような異音が、粘液を撒き散らしながら、壁と床の間に沿って此方にゆっくりと向かって来ていることが分かった。相手はドアの隙間でさえ抜けてくる生き物だ。今更驚くこともない。
それよりも、今は。この血をどうにかしなければ。
意識が朦朧とする中、私はやっとの思いで厨房に辿り着いた。
床に座り、腐肉塗れの傷口を水で洗い清め、布巾で止血する。布巾を三枚使ったが、三枚とも直ぐに紅く染まってしまったので、四枚目は諦めた。
立ち上がろうとしたものの、目眩に襲われ、私はその場にへたり込んだ。
「あはは、だめだ、これ。力入んないや」
感覚を失い始めた左足を見やり、私は嗤った。
ここまでか。
そんな不吉な思いすら、抱き始めた。
「あーあ。情けないなあ」
今に至るまで、全て自業自得だ。喜劇のようにさえ思える。
「菜月、ごめんね。折角、第二の人生だったのに、もうエンドゲームみたい。あーもう、本当に間抜けだ。最低だ、私」
そう言えば、不老不死の話は何処に行ったのだろう。傷が癒えないことを鑑みるに、不老不死というのは言葉の綾であったか、単に細切れにされても死ねないということであったか、そのどちらかだったらしい。
「はは、嫌だなあ。死にたくないなあ」
開け放したままのドアの向こうから、腐った死神の足音が聞こえてくる。
ふと、顔を上げる。丸テーブルの裏に、粘着テープで接着されているのは、拳銃。
「…捨てる神あれば、拾う神ありってね。何の神様かは知らないけど―本当に、この前は殺してやるなんて言って、悪かったよ。ネーフェサネーフェサ」
どうやら銃の神様―あるいは悪魔は、私に優しいらしい。『優しい神様リスト』に追記しておきたい。
装弾数六発の、リボルバー。私はそれを引き剥がし、右手に持つ。
「やるかあ」
撃鉄を起こし、構える。オタクなので、やり方は動画で見たことがあった。無論のこと、経験はない。
破壊音は、益々大きくなる。
標的は、目と鼻の先だ。
五、四、三。心の中で、カウントする。
二。引き金に、手をかける。
一。ごぼごぼという音。ドアの方からではない。
突如、棚の下から、獣が躍り出てくる。
私は不意をつかれ、焦って引き金を三度引いてしまった。当然、弾は全て、壁に穴を空けただけであったが。
獣が舌を伸ばす。私は咄嗟に、血濡れた布巾を投げつけた。どうやら、目眩しにはなったらしい。獣の舌は、私の鼻先から二十センチ左に突き刺さる。
「っ…」
至近距離から、一発。銃弾は獣の脳天を貫く。
獣は一瞬怯んだように、後ずさる。それから頭を大きく横に振る。
銃弾が、怪物の顎の下に落ちる。
「くたばれ、化け物」
立て続けに、二発。一発は外したが、もう一つは真紅の目玉の片方を破壊した。
頭蓋骨は、どのような動物のものであろうと、眼球が収まる部分には、大きな穴が空いているものだ。何故ならば、視神経と脳は直接繋がっているからである。つまるところ、如何なる生き物であろうが、眼球に直接銃弾を叩き込まれれば、死ぬ。
では何故、目の前の化け物は倒れない。
「がっ」
怪物の舌が、私の左胸を貫く。
赤い血が、どろりと垂れる。
息が、苦しい。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
思考が沸騰する。
何かが、流れ込んでくる。熱いものが、何処かから、私の脳髄に。
叫び。
心の深層から溢れだしたのは、叫びだった。
私の声ではない。
これは、怒りか。否、そうではない。
ならば、悔恨か。否、そうではない。
種の保存欲求。本能。違う、違う、違う。
もっと、原始的で、野蛮な。私たちの、遺伝子に刻み込まれた。
ああ、分かった。
これは、殺意だ。
私は、弾を撃ち尽くした拳銃を、眼前の獣に突きつける。
―殺せ。
どうやって。弾はもう無い筈だ。
―殺せ。
いや、方法なんて、どうでもいい。
―殺せ。
今の私に出来ることは、一つだけ。
―殺せ。
心の撃鉄を、堕ろすことだけだ。
私は、引き金に掛ける指に、力を込めて――。




