1話<後半> 百年間の住み込みバイト
最初の仕事は、彼女の脅しの割にはすぐに片付いた。それも当然、彼女に言われるがまま、落ちている破片を掻き集めて別の所に移動させ、砕け散った天井の板は適当に拾って庭先の焼却炉へ。この作業を、延々と繰り返すだけだったからである。この手の単純作業は慣れている。祖母がまだ生きていたとき、彼女の店を掃除するお手伝いが、丁度こんな感じであったことを、鮮明に覚えている。
よく考えてみれば、彼女は魔法を使うなりして、天井を復元することは出来なかったのだろうか。海の魔女なのだろう、この位は『おちゃのこのこのこのこさいさい』なはずだ。燃やしてしまったら、かえって修復が手間なのではなかったのだろうか。そう魔女に向けて放った私の問は、極めて華麗に黙殺された。つまるところ、言の葉ごと焼却されてしまった。
次に仰せつかったのは、彼女のために、お茶の用意をすることだった。これも簡単である。また菜月にネルソン提督がどうのこうの、校長先生がどうのこうのと言われるが、長々と話しながら思い出していきたい。
今の職場<ハンバーガーショップ>に来る前は、最寄り駅の近くの喫茶店でバイトをしていた。その喫茶店は老夫婦が経営している、雰囲気のいい店であったが、如何せん立地が悪かった。夏場の行楽シーズン以外は、近くに住む他の老人が、一日に数人来るかどうかといった様子で全く儲けが出ず、業務が楽な反面、労働基準法すれすれの安い賃金だった。そういう背景があり、私は隣の駅のファストフード店に職場を変えた。しかし、数ヶ月に渡り舌の肥えた老人たちと戦ってきた私の技術は、決して伊達ではない。
魔女に指定された茶葉は、アンティークの棚に仕舞われていた割には安物であった。しかし、そのような瑣末事は大した障壁にはならない。事実として、喫茶店で使っていた茶葉もそこまで高価なものではなかった。ならば、老夫婦は如何にしてあのなんとも高級感の溢れるロイヤルな味を出していたのだろうか。それは、小手先のテクニックの積み上げ―例えば徹底した時間管理や、お湯の沸騰加減にあった。何ならガラスポットは温めておくし、保温のためにカバーを掛けているレベルだ。
これ以上は流石に長くなるので割愛するが、私は喫茶店勤務時代の知識をフル活用し、彼女に今提供できる最高の紅茶を捧げたのであった。
「…どうでしょうか…?」
「…む…?ふむ、そこそこ」
そこそこ。そこそこである。あの白い毛むくじゃらの海獣をして『傍若無人』と言わしめたあの海の魔女が、そこそこと評価したのだ。これは、あの自称紅茶の仙人である常連客の老人たちも、私の評価を改めねばなるまい。そこそこ。そこそこである。
次に承った仕事は、夕食の用意であった。厨房に行って最初に気がついたことは、このキッチンの主たる人間は、ここの設備を四割も使っていないという点だ。何故ならば、水回りとコンロは汚れており、部屋の中央の丸テーブルには調味料の類が整然と並べられているのに対し、奥のオーブンらしき巨大装置と、謎の巨大寸胴鍋は埃をかぶっていたからだ。
「コックはいないんですか」
私の問を、魔女は無言のまま取り合わなかった。魔女っ子小学生は、どうやらお喋りが苦手らしい。私がガトリングトークを始めたら、彼女は死んでしまうだろう。南無三である。
「コックはいないんですね」
どうやら、料理人はいないらしい。それどころか、今まで使用人の類を一人も見ていない。彼女は、この広い屋敷に一人暮らしなのだろうか。もしそうならば、この厨房を使っているのは、他ならない彼女ということになる。
海の魔女はどのような料理を作るのだろうか。
やっぱりむしゃむしゃ食べるのかな、エビとか。エビ好きに悪いやつはいない。
「…食材はそこの倉庫と冷蔵庫。好きに使え」
魔女の食生活に思いを馳せる私にそう言い残し、彼女は元来た道を戻っていく。
「ええと、お夕飯は何に致しましょうか」
当然のように、彼女は私の言葉を無視する。沈黙は金、そして時は金なりである。女は時間と金がかかるので、値を代入すると女は沈黙の二乗である。だから、彼女が無口なのは仕方ないのだ。根気よく話しかけていこう。
「ええと、なんかないですか?これが嫌いとか」
「…好きにしろ」
成程、お任せという訳か。心得た。さっさと取り掛かってしまおう。
冷蔵庫。彼女ははっきりとそう言った。ここは大昔から夢想されてきた、剣と魔法と指輪物語の世界かと思っていた。まさか、草薙剣ではない三種の神器の一角が、存在しているなんて。
私は惚けたことを考えながら、包丁を手に取り、キャベツを切り始める。
ここへ来て、ふと我に返った。
私は、この現状を、少なからず楽しんでいる。はっきり言って、今私が置かれている状況は、異常そのものだ。しかし、それはとても新鮮で、何より面白くて、正直な話、愉快だ。毎日よく分からない勉強をして、楽しくもないのに笑顔でお客様に頭を下げて、意味のない宿題を終えて寝るより、余程有意義だ。
鍋に油を注いで、豚肉を揚げる。
百年間の奉仕。字面だけ見れば、凶悪極まりない。それでも、歳はとらない…らしいし、何よりもある程度の自由がある、ような気がしてならない。現に私は今、現世では禄に食べられなかった、肉料理を作ろうとしている。冷蔵庫を開けてキャベツと豚肉を見た瞬間に、とんかつを作ろうと思い立った。
「とんかつなんて、いつぶりだろう。おばあちゃんがまだ生きていたとき、一緒に作ったっけ。そうだ、あのときは確か菜月がうちに泊まりに来てて、三人でとんかつを食べたっけか」
菜月。私の親友。彼女は今、どこで何をしているのだろうか。こっちについたら、名前を呼んで欲しい。彼女はそう言っていた。
「菜月」
声に出してみる。
何も変化はない。
「菜月、菜月」
私の小さな呟きは、豚肉が揚がる小気味よい音に掻き消される。
「貴女は今、何処にいるの。愛、覚えていますか」
その問に答える者はなく、私の言葉は溶けるように霧散した。




