6話 「…ほら、優しくキスできる?おにーさん」
「う…」
薄暗闇の中。夢沢渡里を取り囲んでいたのは、冷たく無機質な白い籠。
いつの間に着替えさせられたのか、少女が身にまとっているのは、悪趣味なドレス。創作で描かれるチャイナドレスのように少ない布面積は、恐らく『そういう』意図があってのものだろう。肌にまとわりつくような薄い布は、殆ど何も隠していない。彼女は不自然に腰が突き出るような姿勢を強いられ、顔の前で組まされた両手には鉄製の枷を付けられていた。
「ここ、どこ…?私どうなって…」
外傷はなく、健康状態も良好。しかし、鳥籠の様な形の檻と、部屋に充満する嫌な匂いは、幼い少女の精神を圧迫するには十分であった。
「手錠…?やだ、思い出した、私…」
奴隷の身分に、落とされた。『奴隷』なんて、漫画や世界史でしか見たことがない。まさか、自分が当事者になってしまうなんて。
渡里の脳裏を、嫌な想像が駆け巡る。思考を押し止めようとしても、目を開けば手錠が映る。底のない暗闇―自身の行く末を思い描いてしまい、彼女は気が触れたように泣き叫んでしまった。
「助けて!お母さん!やだ、誰かあ!」
喚き散らした少女に、何者かがくつくつと笑った。それはもぞりと動くと、咳払いをした。
「…けほ。お祈りは済んだ?…けほ」
水音を含んだか細い声で、誰かがよく分からないことを言っている。組んだ両手を枷に繋がれた渡里の姿勢を揶揄したのだろう。視線を少し下げると、隣りの籠には海咲が納まっている。
「やほ…二時間と五分ぶり。調子はどう?私は良くない」
衰弱しきった様子の彼女には、以前の覇気は無い。力なく横たわりながら、海咲は浅い呼吸を繰り返していた。渡里と同じ薄いドレスには、所々血が滲んでいる。
「海咲…」
怒りと、恐怖と―憐憫と。様々な感情が、心の底で渦巻いた。彼女は結局、私をどうするつもりだったのだろう。笑顔を浮かべたまま、私を騙して、引き倒して。もしかすれば―この人がもう少ししっかりしていれば、私は今頃、家に帰れていたのではないか。
「…ごめんね」
静かな声色で、海咲はそう呟いた。いつにも増して青白い顔をした少女は、咳き込みながら言葉を続ける。
「恨むなら恨んで。この状況は、出会い頭に保護区なり地獄なりに貴女を送らなかった、私の驕りが招いたものだから」
弱々しく震えながら、海咲は体を起こそうとした。しかし彼女は、床に倒れ伏してしまう。その様子を、渡里は哀れに思った。
「どこか悪いの…?大丈夫…?」
「ん。怪我はそのままで、薬も打たれてて。あと、魔術霊術も封じられてる。もうマヂ無理」
アンチマジックだけに、と海咲は付け加えた。こういう時でも余計な一言を漏らしてしまうのが、サブカルキモオタクの悪い部分である。
渡里は、目を凝らして海咲の様子を観察した。彼女の細い首を締め付けている金属製の輪は、妖しい光を放っていた。恐らくはあれが、海咲の超常的な力を封じているのだろう。彼女は手錠こそされていなかったが、代わりに相当な暴行を受けたようだ。まだ時間は経っていないようで、赤く腫れた肌には薄らと青痣が出始めていた。
「どうにかして自殺したいな。私は死なないから。フェニックス花崎なので」
空元気だろう。そう軽口を叩きつつ、彼女は寝返りをうった。はだけた白装束から覗いた背中には、痛々しい火傷の痕が残っていた。
「ひっ…」
点々と水膨れを伴った、生々しく焼け爛れた素肌。哀れを通り越して、恐ろしかった。相当な、激痛のはずだ。フェニックス花崎などと宣っていられるような状態ではない。
「手当なんて優しさ、変態趣味のサディストにはないんだ。酷いよ、ね」
苦しそうにうつ伏せになり、少女は渡里に微笑みかけた。
「噂の『ヘイロー』に焼かれて、よく形が残ってたよ―いや、敢えて残したのかな。それだけは、ラッ…キーか―」
その時、静かな駆動音と共に、独房の扉が開く。花崎海咲の脂汗の浮いた顔が、青白い光に照らされた。
浅黒い肌の男たちが、下卑た笑いを伴って部屋に入ってくる。何事か宣っているが、当然の事ながら言葉は通じない。彼らは人間離れした長い鉤爪状の鼻を持ち、目は細く、耳は尖っていた。そして頭には角が生えており、獣の尾が生えていた。形はヒトに近いが、ホモ・サピエンスではないのだろう。その姿は、ファンタジーにおける『ゴブリン』や、『悪魔』を想起させる。
「ナメクジ共の小間使いが、なんの用かしら」
「なんか、怖い…」
『ナメクジ』というのは、先程見かけたヒキガエルのような化け物のことだろう。確か、男たちはあれに傅いていた。仕えているのか飼われているのか―何にせよ、男たちとヒキガエルは主従の関係にあるようだ。そんな欲求不満の彼らは、私たちを舐め回すような視線で物色しつつ、やがて海咲の前で足を止めた。
「…あ、私の方が可愛いから?」
傷だらけの身体を晒す少女に、注がれる嫌らしい視線。呆れたように、海咲は鼻を鳴らした。でも渡里の方が胸があるよ、などと雑なフォローを口にする。そんな海咲を、男たちは籠から引きずり出した。
「…え?」
渡里はその行為を、呆けたように見ていた。両親の言う『夜道には気をつけろ』。その本当の意味を、彼女は知らなかったからだ。
衣服を剥ぎ取られ、羽交い締めにされ。海咲は無理やり、手篭めにされようとしていた。それはまるで、蟻に群がられる、死にかけの蝶のようで―渡里は、おぞましい嫌悪感を抱いた。肉欲を貪るだけの荒々しい性行為は、劇物にも等しい。とりわけ、まだ夢見がちな幼い少女にとっては。
「痛い…ちょっ…と、雑に触るな下手くそ…っ」
月の裏側流なのだろうか。異星人の性行為に文句をつけるのは、ポリティカル・コレクトネスに反しているのかどうかはさて置いて。乱暴に身体を弄られ、海咲は舌打ちした。
とても、蘇生前の焼き鳥(生焼け)にするプレイじゃないと思うな。こういうのはもう少し、鮮度の良いぴちぴちな女の子にするべきだ。渡里とか。私なら、こんな怪我人に手を出そうとは思わない。
「…ほら、優しくキスできる?おにーさん」
仕方ない。不本意だけれども、こちらがリードしてあげないと。このままでは、トイレに行くのも難儀しそうだ。
「そうすれば、私もその気になれるかも」
扇情的な微笑みを浮かべた少女は、物欲しそうに舌にあいたピアスを見せつけた。
こんなにカワイイ私なのだ。如何に傷だらけの天使とはいえ、こうやって淫らに誘ってあげれば、彼らは応えざる得ないだろう。私のように魅力的な女性にキスを誘われて、断るなどという失礼で審美眼のない低俗な輩でないことを期待する。ただし月の民族に、接吻の文化があるのかどうかは知らないが。
男の背中に優しく手を添えて、彼女は淫靡な口付けをする。どうやら、月にもキスの作法があるようだ。海咲はレン人の男に舌を絡めて―そして蠱惑的に目を細めた。
男って、本当に―馬鹿。
「〜っ!?」
目の前の美少女と情熱的な接吻を交わしていた男は、激痛のあまり腰を抜かしてしまった。ぼたりぼたりと、彼の口から大量の血が溢れた。
男は狼狽していた。刺すような痛みと鉄の味は、彼の意識を現実へと引き戻した。
クソが、この女―口の中に何か隠してやがったな。反射的に、彼は女の頬を殴りつけた。少女はぶたれた頬に手を添えると、淫蕩な微笑みを浮かべていた。
「ごちそうさま。お代はいただいておくね」
彼の知らない言語で何事かを呟きつつ、地球人の女は硬貨程の何かを投げつけた。それは、噛みちぎられた男の舌の切れ端であった。
『「くたばりやがれ、クソビッチが!」』
そう叫んだ彼の目の前で、女が笑う。伸ばされた男の手は、空を切った。探し物は、すぐそこにあった。少女が手にしていたのは、ビーム・ブラスター。彼が降ろしたズボンに納められていた品物である。狂気的な笑顔と共に、海咲は迷いなく引き金を引く。その照準は、彼女自身の首元。
「ひっ」
渡里の小さな悲鳴は、射撃音にかき消された。ブラスターの破壊的な威力は、首輪と共に海咲の頭を落とすには、十分すぎるほどであった。滴る血すら蒸発させながら、少女の頭部が床を転がる。
「…飼い主に言われなかったかな?」
落ちた頭が、揶揄うような声音で呟いた。二つに分かれた海咲の死体が、勢いよく燃え上がる。
「間違っても火遊びはするな、って」
揺らめく炎の中で、海咲は『カタチ』を取り戻す。細く美しい少女の腕が、男の体を舐るように絡みつく。狼狽した様子の男は、狂ったように暴れる他なかった。腕から引火した赤い炎が、瞬く間に男の体を包み込んだのだ。哀れな彼は苦悶に満ちた悲鳴を上げながら、現実を受け入れられない仲間の前で、ゆっくりと炭と化した。
「こいつ―っ」
警棒を手に取った別の男に、少女は指を向ける。その手に握られているのは、ワルサーP38―それを再現した、魔術的なレプリカ品。
「ばん」
高熱を帯びたエーテルの塊を叩きつけられ、男は絶命した。足元に流れ出る赤い血を見て、海咲は少し顔を顰めた。どうにも彼らには、人間と同じ赤い血が流れているようだ。
からん、と音を立てて落ちたペンダント。レン人の兵士が持っていたものだ。海咲は、それを拾い上げた。
ロケットを開くと、二枚の写真が入っていた。少し歳のいった、男性と女性。彼らは、暖かい微笑みを向けていた。恐らく、彼の両親のものだろう。
「…っ。あー、やだやだ」
魔が差した結果、『火遊び』に興じなくとも。結末は同じことだろう。彼らは騒ぎを聞きつけてやって来て、私に殺される。
正直に言えば、やりにくい。地獄と隣接している幻夢境なら、殺しても蘇生が容易い。だからこそ、引き金も軽くなるというものなのだが。
ちらり、と海咲は渡里の姿を一瞥した。頭を抱え、小動物のように震えている。その姿は、海咲に決意を固めさせた。手を抜けば、渡里も犠牲になる。同じ手は通じない、助けもない。何としてでも、ここから二人で逃げなければならない。
「…やるしかないか」
無用な殺戮は好まないが、やむを得ない。
全快した海咲は、檻の鍵を破壊する。足の竦んだ少女の手。それを縛る枷を、吹き飛ばした。例え何人殺してでも、彼女を連れ帰らせてもらう。過去の禍根はどうであれ、友達を助けるのは当たり前だ。
もう誰も―失ったりなんて、するものか。伸ばした手は、いつだって届かなかった。最愛の親友も、私を認めてくれた家族も、私の腕より遠いところに落ちていった。だから。
「え、え」
狼狽する少女は、酷く怯えていた。そんな彼女の手を、海咲は強く握った。
だからこそ、手の届く範囲にいる友達は、誰一人として取りこぼしたくない。
「さあ、地球に帰りますぜ―かぐや姫さま」