11話 渡し守はナマモノ
気がつくと、そこは純白の世界だった。洗いたてのシャツのような、磨かれた大理石のような、それでいて雪原のように温かい、一面の白。
不思議と、恐ろしさは感じられない。
その空間には、寝巻き姿の私と。
「ようこそ、いらっしゃいました」
一頭の、あざらし。
「ええと…」
私は、どうなったのか。ここは、死後の世界なのだろうか。もし仮にここが黄泉の国の入口だとしたら、三途の川の水先案内人があざらしなどと、メルヘンチックなこともあったものだ。
「…うへぇ、あざらしか〜」
いいや、最悪だ。ああ、八百万の神よ。何でどんぴしゃり、あざらしを遣わせたもうたのか。
ところで、私はこのあざらしというナマモノが、たまらなく苦手であるのだ。彼らは飄々として掴みどころがなく、それでいて此方の懐には、雨漏りのように図々しく入り込んで来る。同じようなナマモノとしてパンダの存在が挙げられるが、パンダとは比較にならないほど、あざらしの特異性は卓越している。
敢えてこの嫌悪感を言語化するならば、『気色悪い』。私は他人に媚びて生きている連中が大の苦手であり、私にとっての海獣は『阿諛』の隠喩に他ならない。この世は媚びることだけが全てじゃないと思う。必ずしも、あざらしが万衆に媚びへつらった生き方をしているかと言われれば、絶対にそんなことはないだろうけど。
「ええと、何でございましょう」
じっと見つめすぎたかもしれない。彼―或いは彼女は、困ったように髭をふんふんと揺らした。こういう所である。カワイイ・アピールは自覚してやるものであって、無自覚に垂れ流すものではない。
「何でもない。ここはどこ?」
小首を―どこからが首かどうかはさておき―傾げた彼は、不必要に潤んだ瞳で私を見上げた。
「まさか、このご時世に、しっかりとした『手順』を踏んだ後、『こちら』に来られる方がいらっしゃるなんて。ワタクシ、感動の極みでございます」
あざらしは何処からともなく取り出したハンカチで、こしこしと可愛らしく顔を拭う。こういうわざとらしい態度が、私は大変嫌いである。
「はあ、手順?あの、『こちら』って、どちら?」
此処は何処か、と尋ねた私の問は当然のように黙殺された。ナマモノ式コミュニケーションは苦手だ。向こうのペースに飲まれてしまうと、『無自覚カワイイ・パフォーマンス』に付き合わされるばかりになる。
しかし、唯一分かったことと言えば、どうやら、ここは単なる死後の世界ではないらしい、ということだけである。何故ならこのご時世、飛び降り自殺などという『手順』は、極東アジアでは日常茶飯事だから。
「さあ、花崎さん。切符をお渡し下さい」
切符。何の話だろうか。そもそも、私は紐なしバンジーを敢行しただけであり、『死』役所でも改『殺』でも手続きをしていない。
「切符なんて買ってませんよ。ICカード派なので」
そんなものは持っていない。私はその旨を正直に、あざらしに伝えた。
「そんなことはありません。持っているでしょう、ポケットの中に」
あざらしは、そのくりくりとした可愛らしい鼻をもすもすと動かした。これは不必要な動作である。可愛子ぶるのも大概にして欲しい。同族嫌悪なのかもしれないが。
兎にも角にも、だ。私はあざらしに言われて、恐る恐る、ポケットの中に手を入れる。出てきたのは、四つ折りにされた何かの広告。エレベーターの中で―菜月が、私のポケットに捩じ込んだものである。
「当方それを確認するのが仕事でして。規則なので、提示して頂きたいのですが」
広告をあざらしに手渡す。あざらしは両ヒレで器用に紙を受け取ると、必死にばたつかせる。暫く格闘した後、あざらしが申し訳なさそうに上目使いで見上げてきた。
「あの」
言わんとしていることは分かっている。反吐が出るとまではいかないが、悪態か何かは吐きたい気分だ。あざらしのこういうところが、彼等にとっての美徳であると同時に、私が苦手としているものでもある。
「はいはい」
仕方なく、私はあざらしから紙を受け取り、広げてやる。
そこには、血で描かれた六芒星。そして、その真中には、『飽きた』と記されていた。
「これは…」
一昨日のことだっただろうか。二人寄れば宇宙の開闢―ではなく、喧しい女子高生たちが話していた。これは、『飽きた』。電車の中で聞いた、異世界への行き方。下らない、お伽噺のはずだった。
「なんで、これが…こんなものが…」
呆れた。菜月の切り札が、まさかこんな紙切れだったなんて。暴落である。菜月の株も、切り札の価値も。
しかし、確かこの方法は、五センチ四方の紙で、尚且つ当人は眠っていなければならないのではなかったか。
「紙の大きさですか。そんなものはどうでもいいのです。あれは単に大き過ぎるとワタクシが受け取れなくて、小さ過ぎると確認がしづらいというだけの話ですから。それと、別に寝る必要はないですよ。何にせよ、意識を失えばいいのです」
あざらしは、紙に書かれた線をぺろりと舐めた。
「ふむ、藤井菜月さんの血で間違いないようですね。ここ数年は、赤いインクで誤魔化そうとする人が多過ぎて困りますよ、ほんと。それでいて、強引に確認に伺おうとすると、抵抗されるんですから。あ、もう大丈夫です。畳んで頂いて結構ですよ」
「ねえ、あざらしさん。二つ、質問をしてもいいかしら」
「どうぞ」
あざらしはきょとんとした顔で、頭を縦に振った。
「菜月は?どこに?」
彼女は私に未来を託した。生き残った―どうかは定かではないが、残された者には果たすべき義務がある。
菜月。何らかの方法で、彼女と再会することが出来るはずだ。彼女はあれで、勝算のない戦いにベットする質ではない。それに、彼女は誰よりも諦めも悪ければ、物分りも悪い女だ。易々と死を受け入れる性格では決してない。だから菜月には考えがあったに違いないし、きっと、また巡り会う方法があるはずなのだ。別れてからまだ―体感的には―数分。しかし、あれを今生の別れにはしたくない。
しかし、私の期待を裏切るように。あざらしはふるふると首を振った。
「わかりません」
そう。まあ、いいさ。最初から答えに辿り着けるとは思ってない。山こえ谷こえ、腕と足と弟を失うくらいしないと、人一人蘇らせるのは難しいだろう。水三十五リットルと炭素二十キログラム、そしてその他の元素だけでばダメなのだ。
「…そう」
気を取り直して、私はもう一つの質問を投げ掛けることにした。
「二つ目の質問、いいかな。私、今から異世界に行くのよね。違う?こっちの世界では定番なんだけど」
「ええ。ある意味そうですが、まあある意味では違いますが。正しくは、夢見の世界。人呼んで、『幻夢境』です」
菜月が言っていた『向こう』とは、その世界のことなのだろうか。
幻夢境。聞いたことがない場所だ。それもそうだろう、私は今この瞬間でさえも、自分が夢を見ている可能性を、否定し切れていないのだから。
「もう一つ、してもいいかしら」
あざらしは、頭を横に振った。
「申し訳ありません、時間切れです」
時間切れとは、どういうことだろう。恐らく、何を聞いても、疑問は湧いてくるばかりだ。私は諦めて、目の前の現実を受け入れることにした。
この空間も、あざらしも、先程見た巨大な化物も。この世の中は、私の知らないことばかりだ。それなら、私の『常識<死者は蘇らない>』なんて、アテになるはずもない。
「そうですね、一つ言えることは、貴女はこれから海の魔女の屋敷の真上に落とされます。先程受けた、上司の上司、そのまた上司からの直接の命令でしてね。まあ、理由は存じ上げませんが。
海の魔女は気難しく、性格が捻じ曲がり、恐ろしく傍若無人な方ですが、まあ、悪い方ではないので、何か疑問があればですね、はい、彼女に尋ねてみるのがいいでしょう。まあ、何にせよ、ひねくれ者ですから、心を開いてくれるまで、地道な努力を重ねてくださいませ」
あざらしは自分も海産物の癖に、酷く『海の魔女』氏を扱き下ろしていた。私はコビコビの実の全身媚びナマモノにお礼を言うと、海の魔女とやらに思いを馳せる。
海の魔女。血の気のない色白で、下半身が蛸みたいな形をしていて、足が八本あって。そして―エビとか、食べてそう。
ぼんやりとした意識が、はっきりとしてくる感覚。それと同時に、あざらしの輪郭がぼやけて、霧散していく。
「ご武運を、海咲さん。海の魔女に、宜しくお伝えくださいませ」
あざらしは、にこやかに微笑んだ。
その姿が、突如として燃え上がる。
ナマモノ火葬である。何も荼毘に付さなくてもいいのに―などと思ったが、どうやら燃えているのは私の視界の方であったらしい。
ふと辺りを見回すと、そこは燃え盛る火口の中だった。
私は、溶岩の上に立っていた。
あざらしの姿はない。もしかして、ここが幻夢境なのだろうか。
海の魔女を尋ねるつもりが、火口のど真ん中に叩き落とされるとは、思いもよらなかった。リスポーンポイントがこのザマでは、これにてゲームオーバー、アデューである。
私を取り巻く溶岩の一角が持ち上がり、鎌首を擡げる。何かを叫んでいるようにも見えるが、何を伝えたいのかは分からない。
「何!何なの?!」
私の問に、溶岩は答えない。ただひたすらに、叫び続けるだけである。
「分かんない、分かんないよ!貴方は何を―」
伝えたいの。
意識が混濁する。目がぐるぐる回る。
溶岩が、私を飲み込もうと渦を巻いて―。




