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水縹に咲く二ロトパラ  作者: 山野悠太
第2部 1章『地雷系女子はあざらしの夢を見るか?』
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10話 『地雷は空から落ちてくる』

 幸い、タワーには難なく侵入することが出来た。何故か、今日に限って守衛が居なかったからである。


  私たちは、ガラス戸を蹴破りタワー内に入ると、屋上へ向かうエレベーターに乗り込んだ。


  途中、菜月がエントランスの受付に平置きされていた、エアコンの広告を一枚くすねていたが、何に使うのかは分からない。


「菜月、屋上に行ったら、どうするの」


  私が、横で広告に何やら書き込んでいる菜月に、そう尋ねると。


「うーん、内緒」


  彼女は、真剣な顔ではぐらかした。


「えっと、何を書いてるの」


「内緒」


  八方塞がりだ。菜月はこれからどうするつもりなのだろう。屋上へ行ったら、逃げ場はない。


  いや、考えるのはよそう。あれだけ啖呵を切って見せたのだ。彼女はアホだが、断じて馬鹿ではない。菜月には、相応の考えがあるに違いない。


  そう思い、私は思考を中止した。


  それは、間違いなく。ストレスに耐えかねた私の精神が、現実からの逃避を始めた証左であった。


────


  最上階。曇天の中で、薄い雲が水面のように流れていく。冷たい雪がゆっくりと降り落ち、不気味なまでの静寂と共に、私たちを包んでいた。


「菜月」


  エレベーターから降り、屋上を無言で歩き出した菜月を呼び止める。


「む」


「…本当に、何か、策はあるの」


  これ以上、冷静を装うことは不可能だった。私たちは、訳の分からない何かに襲われ、無我夢中でここまで逃げてきたのだ。


「私たち、助かるんだよね」


  私の精神は、もう既に疲れ果てていた。生に対する執着を、殆ど失いかけるほどに。


「おう。そのつもりやで」


  菜月の言葉に、私は顔を綻ばせる。


「よかった」


  嘘。


  本当は、もう飽きてしまったのだ。この、面白くも何もない、優しくない世界に。


  長きに渡る貧困に喘ぎ、男たちに好き放題された。今度は、優しくない雪空の下、自身の理解の及ばぬ化け物に追われている。


  見返りは、用意されているのだろうか。こんなに苦労した。辛い思いをした。何か、とてつもない大きな見返りは、用意されているのだろうか。


  バイトをすれば、お金がもらえる。だとしたら、例の『お祭り』の対価は。目の前で人が自分のせいで死んだ様を、見せつけられた対価は。一体、誰が用意してくれるというのか。


  そんなものは、存在し得ない。人間万事塞翁が馬なぞ、都合のいい諺もあったものである。


  この世界は、理不尽で出来ているのだ。誰かが幸せになるためには、誰かが不幸にならなければならない。


 いいこともあれば、悪いこともある。人生は、丁度五分の幸福と不幸で成り立っている。そのようなレトリックは、薄幸な人を騙すための、まやかしに過ぎない。恵まれた人間は死ぬまで恵まれて、恵まれない人間は死ぬまで恵まれない。それが、私が十六年の人生で導き出した結論だ。


  私は、恵まれない側の人間だ。両親にも恵まれず、唯一の肉親である祖母も死に、食事も満足にできず、女子高生らしい娯楽も禄にできなかった。おまけに実の母親には金儲けの道具にされ、その母親はどうやら私に追手まで差し向けている始末。


  そして今、最愛の親友と、私自身の生命すら、失おうとしている。


  ああ、なんという悪逆だろう。もし神様がいるのなら、殺してやる。その不平等な秤を、目の前で叩き壊してやる。


「…あら、海咲。ここにいたのね」


  背後から掛けられた声。反射的に身構える。聞き間違える筈がない。これは。この声は。


「…何しに来たの、クソ女」


  数人の男と共に、エレベーターから降りてきたのは、淫猥な色のドレスに身を包んだ、妙齢の女。


  私をこの理不尽な世界に、堕とした女だ。


「何って、貴女を迎えに来たのよ?」


  迎えに来たなどと、今更どの口が言うのだろう。私は平静を装ったまま、心の底で激昂した。


  祖母から離れ、貧窮に喘いでいた私に目もくれず、何処の馬の骨とも知らない男と遊んでいたくせに。思い出したかのように、私に利用価値を見出したとあらば、母親面をするのか。


  ここは地上数十メートルのコンクリート。逃げ場はなく、落下は即ち死を意味する。


  好都合だ。どうせ死ぬなら、お前も道連れにしてやる。私の手で、文字通り地獄に落としてやろう。薄らと開いた口から、乾いた笑いが漏れた。やり方は何でもいい、刺されようが撃たれようが関係ない。小細工を抜きにして、大胆に―そしてなるべく派手に殺してやる。そう考えると、落ち込んだ気分も高揚してきた。


「海咲」


  沸騰しかけた私の意識に冷水を浴びせるように、耳元で菜月が囁いた。


「…これ、渡しとく」


  そう言うと、彼女は私のポケットに何かをねじ込んだ。四つ折りにした紙か何かだろう。彼女の真意は計り兼ねるが、その声色は、決して私を揶揄するようなものではなかった。


「あら、貴女、もしかして藤井菜月さん?」


  女がにやりと笑った。


「生贄の儀をすっぽかしちゃったって噂の」


「おーおー、おさかなランドのとこの売女<クソビッチ>やんけ。さっさと海ン底帰って、魚肉ソーセージにむしゃぶりつく『お仕事』に戻ったらどや?」


  菜月の罵倒に、女はけたけたと嗤う。


「お友達のお母さんに、そんな汚い言葉使っちゃいけません。


  ああそう、貴女も、次の胤袋の候補に挙がってたわよ」


 胤袋。その言葉を聞いた瞬間に、菜月の褐色の顔色が、さっと青くなる。


「なっ…!」


「あらあら、取り乱しちゃって。可愛いわねえ」


 後ろの男たちが下品に笑う。


「今ここで大人しく私に捕まれば、二人仲良く司祭様の女になれるわよぉ」


「お断りや!誰があんな醜い…!」


「—醜いだなんて。散々な言われようですねぇ、ハーヴ?」


  いつからそこに居たのだろう。エレベーターの上、私たちが立っている場所よりも少し高い場所。淡い月明かりを背に、二つの人影が揺らいでいた。


  一つは、帽子を被った背の高い男。そして、もう一つは。


「なに、あれ」


  ソレは、人と呼ぶには余りにも異形だった。恐らくは 、海洋生物の系譜にあるのだろう。水掻きのついた手、でっぷりと肥えた腹。その背には無数の棘が生え、見る者を威圧する。厚ぼったい唇からは腐臭を放つ涎が滴り落ち、その双眸は爛々と黄色い光を放っていた。ソレは聖職者のようなローブを羽織っており、右手には、冒涜的な輝きを湛えた水晶を戴く黄金の杖を握っていた。


「…司祭様のお出ましかい。うちも随分出世したもんやな」


  圧倒され、陸に上げられた魚さながらに口を開ける私の横で、菜月が呆れたように呟いた。


「司祭…?あれが…?」


  菜月の所属していた宗教、『ダゴン秘密教団』の―司祭。支局長をやっている地元の有力者しか見たことなかったが、元締めはあれだったのか。


「不細工やろ?あれの相手をさせられんのだけは、もう二度と御免やで。ぶっちゃけ腹が裂けるかと思ったで、ほんま」


  菜月が、からからと笑う。


 どうして、そんなに平然としていられるのだ。あれは、あれは。


「化け物じゃない…」


  気がつけば、咽喉の粘膜は痛みを訴える程に乾き、四肢は麻痺するまで震えていた。


  おぞましい。あんなものが、この世に存在していたなんて。


  呆気にとられる私を尻目に、女は化け物に向き直ると、媚を売るような声で懇願し始めた。


「ああ、司祭様、私どもがすぐにこの者共を捕らえて参ります」


「ふっ」


  帽子の男が笑う。


「何がおかしい、ルヴァンシュ!」


「貴女がその年で色を覚えるなど。余程…ふっ、ええ、『魚肉ソーセージ』は…ふふ」


「貴様、下賎な身の分際で、司祭様を愚弄するか」


  激昂する女。


  吐き気がする。実の娘の前で、一体何を言っているんだ。


  子供は父と母の愛の結晶とは、よく言ったものだ。仮にそうならば、私は何なのだろう。


  自分が、あの利己的で卑猥な女から産まれたと考えるだけで、寒気がした。


「海咲のお母さん、酷いね」


  菜月が嘲笑ぎみに言った。


「でしょ。でも、菜月の親も相当だよ。あんな化け物に誑かされて、死んだんでしょ」


「おっ、言うようになったな、ひよっこめ。後から宗教にハマった方が、ショックがでかいんやで。勉強になったなカス」


「パラマウント〜」


  冗談目化して言った菜月の瞳には、一片の笑みも浮かんでいない。


  ああ、やっぱりそうか。菜月もまた、十代の少女が一人で抱え込むには、酷過ぎる経験をしていたのだ。


「…菜月、怒ってる?」


「何がさ」


  少し遠くで女と帽子が言い争っているのを眺めながら、私たちはぼんやりと語り合うことにした。帽子はどうも、クソ女を揶揄うのが趣味らしい。そして半魚人は、人語を介さないようだ。私たちを邪魔するのは、今も尚冷たい、降り頻る雪だけ。


  好機とばかりに、私は唯一の親友と、最期の会話をすることにした。


「私ばっかり、もう辛いーとか、死にたいーとか言って菜月に甘えてさ。…菜月だって、苦労してたんじゃん。私、何にも知らなかった」


  私がそう言うと、菜月は微笑んだ。


「あー、正直むかついた時もあったで?でもにゃあ、それ以上にさ。あんまり弱いところを見せると、あんたが心配する思ってん。せやから、頑張った。そんだけや」


「そっか」


  理由は、それだけなのか。たったそれだけの理由で、彼女は道化を演じ続けたのか。


  私を、心配させない為に。


  くだらない。全くもってくだらない。理解ができない。それでも、それでも。


  私は、彼女に救われた。辛い時、苦しい時。私は何も考えず、菜月に寄りかかることが出来た。彼女が強かったおかげで、私は彼女を心の支えに出来た。


  ありがとう、菜月。そして、ごめんなさい。今まで、貴女を理解することが出来なくて。


  私は、貴女のような友人を持つことができて、幸せだ。


「さあ、海咲さん。そろそろあちらさんも決着がつきそうだ」


  菜月は私の両肩をがっしりと掴んだ。


「海咲。最後までうちを信じてくれるかい」


「ええ」


  答えは、もちろん『イエス』。明日は、救世主の誕生日だ。例え硫黄の火に焼かれたとしても、ノーとは言えない。因みに私は、クライン教を信じていない。


  私は、菜月を信じている。このお人好しな、私の『救世主』を。


「よおし。一か八かさね。天に祈りなさい」


  『天に祈る』か。天に御座す父には、先程、殺害予告をしてしまった。あれは、流石に不味かった。このまま、神の助けもなく、死んじゃうかもしれないな。もうダメかもしれないと思うと、不思議と笑いが零れた。


「にゃはは、何がおかしいん?」


「いや、なんでもない」


  幸いこの国には八百万の神がいる。その中の誰かに祈ろう。もしかしたら、地雷系女子とかコスメとかレオパ(ヒョウモントカゲモドキ)とかの神様が助けてくれるかもしれない。ジラジョの神だ。ただし、あざらしとかパンダみたいなナマモノ系神様は勘弁して欲しい。あの手の媚びた生き方が、とても嫌いなので。


  菜月に手を引かれ、屋上の端まで歩く。転落防止の柵を越え、数十センチの幅に立つ。


  あれ。何か流れがおかしい。


「待って、飛び降りるつもり?」


  目を丸くした私に、揶揄う様な素振りで、彼女は微笑んだ。


「他に何かある?」


  嘘でしょ。よりにもよって自殺か。負けじゃん、私の。


「まさか、この世から逃げる策はあるだなんて、言わないよね?」


  よもや柵に掴まりながら。私はそう付け加えた。もう私の思考はネルソン提督状態である。特に今、余計なことを言いたすぎる。言うなれば、お話激長校長先生だ。そう言えば、先程から余り、思考のエンジンを回していない。下手したら、いや多分、もう最後なのだ。フルスロットルで、言いたいこと全部言いたい。まだ言いたかった洒落が沢山ある。


「飛び降りね。そうかもしれないし、違うかもしれんね。どうなるのかは、あたしも知らんし」


「くそ、よりにもよって飛び降りか。マリーナタワー特設飛び込み台から、地上にダイブか。こうなったら神頼みだ、結末は神の味噌汁―God knowsだ。ようし、命綱の神様、紐なしバンジーの神様、蜘蛛の神様芥川さま太宰さま―全ての学問と駄洒落とジラジョの神様。かしこみかしこみ、『花崎海咲は八百万の神々にその義務を果たすことを期待する』」


「こわ、めっちゃ早口やんけ。しかも、話長。マルコフ連鎖で喋っとんか?バカ殿にネルソン提督が…あれ、これこの前言うたな」


  今更ながら、私たちの蛮行に気づいた、化け物が吠える。女が喚き散らす。間抜けだな、なんて思った。


  もう遅い。この距離なら、私たちが飛び降りる方が早い。


「海咲」


  菜月が微笑む。


「一つ、頼まれてくれんか?」


「頼み損だと思うけど」


  だって死ぬしね。私は首を横に振った。


「もし向こうについたら、うちの名を呼んで欲しい」


「向こう?向こうって、どこ」


  私の問いに、菜月は答えなかった。彼女はそのまま柵から手を離すと、仰向けに落ちていく。


  伸ばした手は、届かない。


  しかし、落ちていくとき、菜月は笑っていた。それは、何かを祈るような、暖かい微笑みで。私は、何故か安心してしまった。


  彼女は信じている。自分が蘇る、その方法があることを。荒唐無稽で、馬鹿げている。それができたら、本当に『救世主』だ。それでも、何故か納得してしまうような―そんな笑顔を、菜月は浮かべていた。


  ぐしゃり。紅い花が、地面に咲く。


「貴女も、ですよ」


  いつの間に近くに来ていたのだろう。前触れもなく、帽子の男が、私の右目に親指を深く突き立てた。


  眼球の潰れる音。こんな音がなるんだ、と惚けたことを考えた。


「おやすみなさい、私たちの姫君」


  彼の手によって、私の体は宙に―虚ろに向けて押し出された。しかし、それは一つの切っ掛けに過ぎない。私は自らの手で、自らの意思で、柵から指を離す。


  一寸先の暗闇(絶望)に、臆することなく歩みを進めた友人に倣い。私は希望の海へと漕ぎ出した。


  そして私の泥舟は、一瞬のうちに虚空へ溶けた。母なる海に、沈んでいくように。黒々として、そしてゆらゆらと揺れる夜空が遠ざかっていく。


  砂の城を崩すように、意識が溶けていく。


  廻る。廻る。廻る。


  月と海とエア・コンディショナーが一つになるような、目眩。重力に引かれて、私は、深く、深く。冷たい海の底へと、堕ちていった。

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