8話 テケリ・リ
帰り道は、案の定、吹雪いてしまっていた。このまま行けば、明日はホワイト・クリスマスどころか、ホワイト・アウト・クリスマスになってしまいそうだ。ただでさえ恋に盲目なカップルたちが、聖夜に限っては、物理的に視界を奪われてしまいそうで、少しばかり笑えてしまった。どうか、クライン教の救世主でも現れて、帰宅難民の目を癒してくれることを祈ろう。
そんなことを考えながら、自宅に着いて、午後十時。明後日までに提出の課題は、菜月のこともあり、遅々として進まなかった。
彼女は、どうしてあんなにも悲しそうな目をしていたのだろうか。
両親に裏切られたから。ううん、きっと、そうじゃない。
何か別の感情が、そうさせたのだろう。
考えれば考えるほど、頭は一杯になっていく。
彼女は私とは違う。そう、その筈だった。でも、実は同じだったとしたら。彼女は形だけの両親と、偽りの笑顔を浮かべていただけだとしたら。
孤独。
彼女は仮面舞踏会の中心で、一人道化を演じていたことになる。菜月もまた、その事実に気づきつつ、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
また、そうとは知らずに、私は彼女に甘えてきたのかもしれない。
道化は、私だけじゃない。私は私以外誰も居ない部屋で、自嘲した。
何が、私とは違う、だ。全ては私がそう決めつけてきただけ、そう信じてきただけではないか。私は彼女の胸中を知っているわけではない。彼女の慟哭を、恐怖を、苦痛を、理解しようとしたこともない。
ああ、私は、どうしようもない悪だ。
自身のエゴに従って動いてきただけだ。ただ、普通の少女であったはずの菜月に、同情されることが、心地よかったのかもしれない。他人より辛い境遇にあるということに、酔っていたのかもしれない。
どうして、私だけが。一昨日の夜、私はそう世界を呪った。
私だけではなかった。菜月も、実の親に殺されかけた。
これじゃあ、これから先の私たちの関係は、傷の舐め合いになってしまう。今まで通りの、『可哀想な海咲ちゃん』を演じられなくなってしまう。
「最低だ、私」
仕上げた課題を鞄に放り込むと、私は布団に潜り込んだ。気晴らしにネット小説でも読もうかと思ったが、それすらも億劫になってしまった。
もう嫌だ。こんなの、私じゃない。私は、こんな悪い子じゃない。私は、正直に生きてきたつもりだ。境遇を理由にせず、貧しさから他人を傷つけることもなく、愚直に、生きてきたんだ。菜月に対して、そんな態度で接してきた筈がない。
考えれば考えるほどに、自己嫌悪が蜷局を巻いていく。それは今にもその鎌首をもたげて、醜悪な牙で私を引き裂こうとしていた。
部屋の空気は、重く澱んでいた。息苦しい。消えてしまいたい。咫尺を弁ぜぬ暗い深海に、縛り付けられてしまったようだ。私の味方であったはずのこのワン・ルームにまで、私は嫌われてしまったのだろうか。
私は、逃げるように目をつぶった。
直後に、間抜けなドアベルの音。
こんな夜中に、誰が何の用で私を訪ねてきたのか。私は居留守を決め込むことにして、布団を深く被った。
二回目のドアベル。続いて、三回目、四回目。悪戯のように、ドアベルを乱打している。
仮に大家さんなら、こんな馬鹿なことはしない。いや、過去に一度、こんな馬鹿なことをやった人間がいるではないか。
しかし、彼女はとても動けるような状態ではない。それに、もしかしたら、あの女の大きなお友達の可能性もある。
私は仕方なく布団から這い出ると、恐る恐る声をかける。
「…どちらさまですか」
「ああ、良かったあ!いづっ、ああもう、うちのど阿呆…。海咲、うちやけど、入れてくれへん?」
少し間の抜けた、聞きなれた綺麗な声。
私はドアの鍵を開けると、隙間から覗き込んだ。
幸いにも、吹雪は止んでいた。その代わりに、微生物の死骸のように、無機質で冷たい雪に包まれて。そこに立っていたのは、ミイラ女。私の、唯一の親友である。
「ばか、貴女、なにやってるの!?」
「入れて、お願い、頼むから」
彼女は切羽詰まった声で言った。
私は慌てて彼女をドアの内側に引きずり込むと、ドアを閉めて鍵をかけた。
「悪い、こんな時間に」
余程慌てて来たのだろう。包帯は半分はだけて、彼女の痛々しい傷だらけの体が顕になっている。
見ると、左胸の辺りがじっとりと血に濡れているのがわかる。左胸だけではない、他にも傷口が幾つも開いてしまっている。
「本当に、何しに来たの!?死にたいの!?」
『あれ、今日から居候だっけ?』などという軽口が考えもつかないほど、私は狼狽していた。この雪の中、彼女は走ってきたのか。信じられないし、考えたくもない。
「まあ、聞いてくれ。うちが馬鹿やったんよ」
「馬鹿って、知ってるよ。まともな人はこんな状態でここまで来ないよ。ああもう、包帯にする?消毒液にする?それとも…」
「海王病院も、グルだったんよ」
「…はあ、何を言ってるの」
包帯でグル巻きの菜月は、目に涙を浮かべて、そう言った。
「聞いたんよ、うち。彼処の医者共が喋ってんの。うちをとっ捕まえて処分した後、海咲も捕まえるって。うちが、病室であんな話をしたから…!」
菜月が、こんなに感情的になっているのは、久しぶりに見た。それだけで、事の重大さは理解できる。
「今さっきやねん、逃げてきたの。そしたら連中、あんな姿になって…!
うちが悪いんだよ、儀式のこと、あんたに話しちゃったから。あんたのこと、巻き込んじゃったの!」
「ええと、落ち着いて、菜月。何、貴女が私に件の儀式のことを話しちゃったから、私も狙われてるってこと?なんかその、なんか化け物みたいなのに」
「そう、そうだよ…そう、そうなんよ。いや、海咲さん落ち着きすぎでしょ。理解力の化身か?…はあ…よし。兎にも角にも、はやくここから離れないと!奴ら、すぐにうちが…ここに来たことに、勘付く筈。そうしたら」
ぴんぽーん。
ここで再び、間抜けなドアベルの電子音が鳴り響いた。
パジャマの下の素肌が、ざわりと粟立つ。嫌な予感がする。
「…どちら様でしょうか」
恐る恐る、声を掛ける。
「…テケ」
「…てけ?首置いてけ?」
「テケリ・リ テケリ・リ テケリ・リ」
「ひっ、薩摩隼人」
本能的な恐怖に、私と菜月は一歩後ずさった。
凡そ、人間の出せる声ではない。それでいて、人間らしさが過ぎる。まるで、録音した自分の声を聞いているようだ。
「テケリ・リ テケリ・リ テケリ・リ」
ドアの向こうのソレは、機械音声のように同じ音を繰り返す。
「なに、なんなの…?」
どろり。ドアと床の隙間から、吐瀉物のような玉虫色の粘液が漏れだしてくる。
目、目、目、目、目。
粘液に突如として浮かび上がった、無数の眼球。それら全てが私と菜月を捉えて。
にやりと、笑った。
「逃げるで、海咲!」
弾かれたように、菜月が私の手を取って走り出す。私たちはベランダへ飛び出すと、そのまま夜道を駆け出した。裸足の逃避行。凍える冷気は、私たちを容赦なく突き刺していく。
「海咲が一階に住んでて助かった」
菜月が苦悶の表情を浮かべながら、呟いた。
「菜月、あれ、なに」
「教団のペット!頭は悪いけど、打たれ強くて適度に速い!」
菜月に連れられて、大通りへ向かう。
「ペットって…。あんなおぞましいものが?」
「司祭はもっと醜悪や!」
そのまま、裏路地へ入って隣の通りに入る。恐らく、目的地は警察署だろう。クリスマス・イブとはいえ、こんな時間に、こんな天気だ。女子高生が二人で出歩いている事案を、警察は見逃さない。菜月の狙いは、補導もとい保護されることか。
「もっと気持ち悪いって、どれだけ…」
そこまで言いかけて、足を止める。
通りの真ん中。点滅する街灯の根本に、一人の女の子が立っていた。
「あれ、花蓮?」
満島花蓮。クラスメイトだ。小柄で華奢、性格は気弱で消極的。
「海咲。…と、菜月」
菜月が半歩後ずさる。理由は分からない。
「何してるの、こんなところで」
「何って、遊んでるの。クリスマスだもの。二人も一緒に遊ぼ?」
「海咲」
菜月が私の腕をぐいと引いた。
理由は分かった。
満島花蓮が夜遊びなんて、する筈が無い。
「…っ!」
踵を返し、元来た道をひた走る。
後ろでこの世のものとは思えない笑い声が聞こえたが、気にしない。
「変化ができるタイプまでっ…!」
菜月が悪態をつく。
「ああもう!何だってこんな必死なんや、我らが麗しの司祭様は」




