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水縹に咲く二ロトパラ  作者: 山野悠太
第2部 1章『地雷系女子はあざらしの夢を見るか?』
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7話 見舞い

 日曜日のシフトは、朝十時から十八時までである。裏方に変えてもらったにも関わらず、私は今日も約七時間に及ぶ勤務時間の殆どを、輝かしい営業スマイルで終えた。その名残か、私は菩薩のようなアルカイックスマイルを浮かべつつ、勤務先のファストフード店を後にした。帰り際に寄るスーパーのレジ袋を片手に、顔を綻ばせながらご近所を徘徊するのは、週末のルーティンと言っても過言ではない。


  ところで、課題が残っていたことを勤務中に思い出し、唐突に表情を変えることに定評のある私は、例に漏れず今日もやらかしていることを、バンズにレタスを挟み入れた瞬間に悟った。


  こうして今は、ガーゼだらけのブッディズムな表情の裏で内心憂鬱に苛まれつつ、電車に揺られていた。


 「お、✝︎漆黒✝︎が小説更新してる…どこまで読んだっけ」


  通信費の節約のため、小説は家のパソコンで読むことにしよう。携帯のブラウザを閉じて、私は欠伸をした。ふと、ドアの上の電光ニュースを見上げると、『一家心中 両親は死亡、娘は意識不明の重体 横須賀市』という文字列が流れてきた。


  世知辛い世の中である。私のように、両親に愛されず独りで生きる人間もいれば、両親に愛されて殺される人間もいる。残された娘は仮に意識が戻ったとしても、待っているのは孤独だけ。『ハッピー』ニューイヤーというやつである。めでたく、翌月に来る新年から、私たち孤児の仲間入りである。


  気が滅入ると良からぬことを思い出しそうなので、携帯を開きメールボックスをチェックする。


  菜月から、メールが一件。明日のお昼の献立のことだろうか。あまり贅沢を言える立場ではないことは理解の上であるが、欲を言えばお肉がいいなあ、と切に思う。


  丁度そのタイミングで最寄り駅に着いたので、私は携帯を閉じて鞄にしまった。


  改札を出て、前述の通りスーパーへ向かった。日曜日のこの時間は在庫整理か何なのか知らないが、冷凍食品や一部の野菜などか半額になる。平生私はその時間を目指してこの店に足を運ぶのだが、そう考えるのはご近所に住むご同業も同じで、店内はカゴを片手に荒れ狂う主婦の方々でごった返していた。


  普段なら焦ることもないが、給料日まで三千円生活を繰り広げる必要のある私は、この日だけは負けられない。


  必死の思いで、サバンナを駆けるヌーの群れに揉まれるようにして必要なものを揃え、レジの大行列に並んでいると、携帯がぶるぶると震えだした。


  通話ボタンを押下し、耳に当てる。


 「あ、繋がった?」


  電話の相手は、菜月。


 「もしもし?菜月、どうしたの」


 「にゃー?看護婦さん、もうちっと顔に近づけてくれへん?全然聞こえんわ」


  看護婦。彼女、もしかして怪我でもしたのだろうか。そうなると私の明日のお昼はどうなるのかしら。宣言通りにおからを食べることになるのか。それなら、この行列を抜け出して、おからを買い足しに行かなければ。


  そんなことをぼうと考えていると、私の番が回ってきてしまった。


 「もしもし?海咲?おーい、返事をしてくれーい」


 「あー、もしもし。ちょっと待って、今会計中…あ、袋要りません。えっと、要件は何。三十秒経ったら答えてちょうだい」


  店員さんに代金を支払いつつ。


 「あー、詳しいことは直接会って話したいにゃあ。取り敢えず海王まで来てくれる?一〇三号室」


 「海王?海王病院のこと?私の家の近くの。何、貴女怪我したの?」


 「そーいうこと。じゃ、待ってるぜぇ」


  そう言って、彼女は電話を切った。


  まさか、あの運動神経抜群の彼女が怪我をするなんて。我が母校の、歴史ある八極拳部第二十七代目主将に有るまじき失態ではないか。


  そう、菜月は滅茶苦茶なまでに腕っ節が強い。半分黒人の血が流れていることも、それに拍車をかけている。昔、私と二人で新宿に遊びに行ったとき。絡んできた半グレ紛いのチンピラを返り討ちにして、逆に警察のお世話になったのは彼女の武勇伝の一つである。一度着込んでしまえば、あんな華奢な形をしているが。その実中身が『華奢』とは最も遠い腹筋バキバキの筋肉ダルマなことは、決して他言してはならない。中学のときの水泳の授業で、禁忌に触れてしまった数人のちゃらちゃらした男子児童を再起不能に、どこのナニとは言わないが、不能にしたことはまだ記憶に新しい。


  これらは、彼女が幼少期から近所の中国人に、功夫を習っていたことに起因する。この男性、通称『ラーメンマン』は、常に辮髪にチャイナ服で、公園で朝から太極拳をしている、日本人の持つ偏見の具現化のような中国人だった。この人は近辺にあった中華料理屋の店長で、甚だしく寡黙な人であったが、菜月と言えば学校に行く前に図々しく片言の中国語で話しかけたり、ランドセルを背負ったまま彼の横に立って真似をしてみたりしていた。しかし、どこか彼女の琴線に触れるものがあったのだろう、菜月は何時しか彼と共に毎朝功夫を磨くようになっていった。


  生来運動神経が抜群に良かった彼女は、ベストキッドさながらの勢いで成長し、中学生の頃には本場中国の武術大会に参加するまでになっていた。


  つい最近、ラーメンマンは町から姿を消したが、菜月とは未だに個人的な繋がりがあるらしく、彼女曰く「師範は己が武を磨く為ギアナ高地に赴いた」らしい。どこまで本当かは知らないが、菜月がラーメンマンに心酔していることは、なんとなく理解できた。


  そんな変遷を経て、凡そ尋常ではない戦闘能力を有するようになった菜月が、怪我をするとは珍しい。中学のとき、足を滑らせて校舎の二階から転落したときは平気な顔をしていた。今回はまさか、大型トラックか大横綱か、或いは大鯨(モビー・ディック)にでも撥ねられたのだろうか。


  いや、それ普通死んでるから。


  などと大した心配もせずに、冗談めかして考えていたことを、私はすぐに後悔することになった。


  病室に着くと、菜月は全身包帯姿の、目を当てられない様子になっていた。特に胸部に巻かれた包帯は痛々しく血に滲み、また、顔の半分が包帯で覆われており、表情がよく読み取れない。


 「菜月、どうしたの!?」


  私はここが病院だということを忘れて、思わず大声を出した。


 「にゃー、海咲ちゃん。やられちまったい」


  菜月は、唯一包帯の巻かれていない右目だけで笑った。


 「それよりも、海咲ちゃんこそどーしたん?彼氏にDVでも受けた?」


 「やられたって、何に」


  私の事なんて、今はどうでもいい。菜月の軽口を無視して、私は菜月に歩み寄った。


 「…父親。ニュース見てへんの?あ、テレビないんやっけ。…一家心中未遂や」


  バイトの帰り。電車の中で見た電光ニュース。―一家心中、娘は意識不明の重体―。


 「嘘、そんな…」


  私はその場に崩れ落ちた。


  菜月は、違うと思ってた。いや、違うはずだった。


  彼女は、父親がいて、母親がいて。幸せな家庭に産まれて、それで、それで。嫉妬したことも何度もあった。両親と笑っている彼女を、憎らしいと思ったことでさえ。


  だからこそ、私と同じになんて、なって欲しくなかった。


  こんなこと、悲しすぎる。


 「つい一時間前に、意識が戻ったのよ」


  彼女の傍らに立っていた、目の大きな厚ぼったい唇の看護師が言った。


 「海咲さんや」


 「…なに」


 「ごめんね、明日はお弁当作れそうにないわさ」


  そんなこと、どうだっていい。


  私のことなんて、どうだっていいじゃない。


 「にゃー、だって約束したやんか。そうした以上は、きちんと謝らんと」


 「貴女はっ…」


 「なんで海咲が怒ってるのさ。うちはこの通り生きてるし、別に悲しむことなんてないやろ」


 「だって、貴女自分の家族にっ…」


  そう、彼女は裏切られた。他でもない、自分の家族に。


  ならどうして。


 「どうして、貴女はそんな平然としていられるの…!?」


 「うーん」


  彼女は少し沈黙した後。


 「なんでやろね」


  静かに、笑った。


  その瞳は私の心を真っ直ぐに射抜き、私は目眩を覚えた。


 「あ、そうそう。海咲さんや、一つ頼まれてはくれんかね」


  茫然自失の私に、彼女は語りかけた。


 「うち、もうこのクソの役にも立たない宗教からは足を洗うつもりだから、行く宛がないんだわさ。まー、今回の騒動の原因も、生贄の儀式だか何だかっていう危ないやつやった訳やし。散々ボコられて死ぬ寸前にまで追い込まれるとは、正直うちも考えてへんかったのが、まあ原因かも知らんが。警察屋さんにも掛け合って、どうにかサヨナラする。


  それでなんやけど。退院してからだから、約一ヶ月後の話になるけど、あんたの家に居候させてくれへんかにゃあ」


  私は小さく首を縦に振った。それを見て、菜月は包帯の下で顔を綻ばせた。


 「良かった。そン時はお世話になりますぜ、旦那。今日は忙しいとこ来てくれてありがとさん。バイトとか課題とか、無理すんなよ。それに、詳しいことは聞かないけど、そんな暴力彼氏とは別れた方がええで」


 「はいはい、そうするよ。


  …菜月こそ、無理しないでね」


 「せえへんせえへん。そんな、少年漫画じゃにゃいんだし、満身創痍で無理するかっての」


 「うん、約束だよ。じゃあね。…明日また、プリントとか持ってくるから」


 「おーよ。頼んます。じゃあの」


  私は魚顔の看護師さんに頭を下げて、海王病院を後にした。海風がここまで来たのだろうか。少しばかり、潮の匂いがした。


  嵐が来るのだろう。空は私の心のように、黒く澱んでいた。

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