6話 ランチの予約
深夜。ふと目を覚ます。このまま全て忘れて眠っていたかったが、どうやら私の若く健康な体は、それを許してはくれないらしい。空腹のあまり、お腹がぐうぐうと鳴り、文字通りお腹と背中がキスをしてしまいそう。それも、海外ドラマのように、チープで粗雑で熱烈なキスを。
私は仕方なく布団から這い出ると、タッパに詰めてあったご飯を少し食べた。電気代を節約するために、冷たいまま、暗い部屋の真ん中で。
「…あはは」
また、笑いが零れた。嬉しくもないのに無理して笑って、まるで道化みたいだ、と思った。冷たいご飯の上に、雫が滴り落ちる。今朝からずっと、泣いてばかりだ。
それもそうか、と私は独り合点した。何故なら、こんなに寂しくなったのは、久しぶりだからだ。
時代遅れのガラパゴス携帯を開く。通話ボタンを押して、菜月に電話をかける。この時間ならば、彼女はまだ起きているだろう。
「んあ、海咲?珍しいな。どーしたん、こんな時間に」
小学校時代から何も変わってない、菜月のエセ関西弁。思えば、私は何度もこの声に救われてきた。中学校の生徒会長に立候補したとき、小学校でクラスの女子に虐められたとき、去年、おばあちゃんが倒れたとき。本気のケンカも何度もした。それこそ、盛りのついた猫のような、激しい喧嘩さえ。
翌日になってもお互い意地を張って口を聞かなくて、結局その次の日に二人とも折れたんだっけ。
菜月との思い出が、走馬灯のように蘇る。いや、走馬灯を見たことはないが、きっとこういう感じだろう。私の脳内の中山競馬場では、忙しく映像が駆け回っていた。中山の直線は短いので、それもすぐに終わってしまったが。
「おーい、海咲さんや。こんな時間に電話しといて、だんまりたァ、そうは問屋が卸さにゃいで」
「あはは、ごめん。特に用事はないんだ。急に、話したくなってさ」
「なんだそりゃ。発情期か」
悪いがうちはストレートでね、と菜月が笑った。
「そんなんじゃないよ。ただ喋りたくなっただけ」
「にゃにさ、あんた泣いてんの?どうした、フラれたか。バイトなのとか言っておいて、本当は彼氏とデートだったんか。はーん、どうや、図星やろ。え、違う?ならあれや、本当でおからになったかにゃ」
菜月の言う通り、自分でも気付かぬうちに、私の頬には雫が伝っていた。
やはり、彼女には全てお見通しか。何だか面白くて、私は笑顔になった。
「うん、正解。助けて。死んじゃう」
隠し事をするのは大の苦手だけれど、私は事情を説明することをせずに、ただ彼女にそう伝えた。多分、聡い彼女は何もかも、理解しているのだろう。
「切実ゥ!しっかたないにゃあ、海咲ちゃんは。全く、あんたは昔からうちがついてへんとダメなんやから。まー任せんしゃい。菜月ちゃんがあんたにスペシャルランチをご馳走してやる」
「うん、お願い」
「で、話はそんだけ?土曜の夜くらい寝かせろ。ばか」
「それだけ。じゃあ、月曜日のお昼は任せたぞい。おやすみなさい」
「うぃーす、任せろー。おやすみー」
電話が切れたのを確認して、私は携帯電話を閉じた。
ありがとう、菜月。頼れる家族は居なくても、私には貴女がいる。ただそれだけのことであったが、私は救われた気がした。
────
翌日。土曜日から寝てばかりだったためか、かなり気だるい朝だった。頭の中も思考も焼け付いてしまったように、ぼんやりとしている。しかし、二日連続の欠勤は避けたいので、眠ったままの体に鞭を打つようにしてバイトへ向かう。
私の唯一の取り柄―可愛さは除く―こと、生来の治癒能力の高さもあり、体の方は大分回復していた。それでも身体中を痣が覆っていることは隠しようがないので、仕方なく店長に相談の上、接客からキッチンに変えてもらうことにした。
ところで、店長を始め、バイト先の人たちは全くの平常運転で、私が昨日のことを謝罪する度、笑って許してくれた。
「花崎さんは平日のクソ忙しい時に、よくわからない理由で休む癖して、土日は真面目に来るのは知ってるから。本当になんかやばい怪我で寝込んでいたんでしょ。いいのよ、だから。但し、変に気張ってひっくり返られたらたまったもんじゃないから、無理は絶対にしないように」
とは、店長の弁である。口調こそ刺々しいが、随所に彼女なりの気遣いが感じられた。
店長に挨拶を済ませると、同僚の男子学生たちが、私を取り囲むようにして、口々に安否を尋ねてきた。
どうしたんだ。大丈夫だったのか。流行りの風邪が、新型の感染症が。頬の痣は。腫れた瞼は。
「花崎さん、俺で良かったら、話聞くからね」
その優しい言葉全てが、私には、干からびた言の葉である気がしてならなかった。どうせ、彼らも体目当てで、私に話しかけているのだろう。そんな偏見すら、芽生え始めていた。
「あはは、ありがとうございます。でも、大丈夫なので」
「でも…」
「…ひっ」
そう言って肩に触れてきた先輩を、反射的に突き飛ばしてしまった。私は引きつった笑いを浮かべながら、赤くなった指を見せた。
「ご、ごめんなさい。慣れてなくて、あはは」
咄嗟に。私は熱された鉄板に、人差し指を寝かせたのだ。これなら、何も罪のない彼を傷つけなくて済む。私の指一本など、安いものだ。
そんな私を見て、彼はすぐに、氷を持ってきてくれた。私はそれを受け取り、無理に笑顔を浮かべて、お礼を述べる。元々、火傷には慣れている方だ。これくらい、なんてことはない。これで、いいのだ。これで。
「はは…きもちわる」
気がついた時には、そう零していた。
本心から、心配してくれているのだろう。先輩は最後まで、私の身を案じてくれた。しかし、私は、最後まで。彼のことを、信じることが、できなかった。
彼らは、あの女のお友達とは関係ない。そんなことは、百も承知だ。
それでも、思い出さないように、考えないように、必死に心の中に押し止めている嫌悪感が、何度もその顔を覗かせた。




