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水縹に咲く二ロトパラ  作者: 山野悠太
第2部 1章『地雷系女子はあざらしの夢を見るか?』
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5話 赤い薔薇 濁り 一夜明けて

 目が覚めたのは、太陽が天辺まで登りきった後だった。


  男たちの姿はない。


  私は、大きく伸びをした。


  取り敢えず、シャワーを浴びたい。身体中、何かしらの乾いた液体が張り付いている。その中には、赤いものも混ざっていた。


「…ええと」


  そうしたら、学校へ行って、違う、今日は土曜日だ。バイト、そうだ、バイトのシフトが入っていた。もう三時間も遅刻している。


  店長、かんかんだろうなあ。


「…あはは」


  無理をして、笑った。そうしたら、つうっと、涙が零れた。


  思えば、長い一日だった。


  いつも通りに起きて、いつも通りに学校に行って。いつも通りに菜月をあしらって、バイト先に向かって。


  雪崩をきって、昨晩のことが思い出される。体の節々が痛み出す。


  左腕に目をやった。あれが夢なら、どれほどよかっただろうか。私の左腕には、青白い斑点がぶつぶつと、その現実を嫌らしく物語っていた。


  鏡を見た。ばっちり決まっていたメイクも、崩れてぐちゃぐちゃになっていた。私が私じゃないみたいで、吐き気がした。昨日の夜から、泣いて泣いて、ずっと泣いていた。そのせいで、涙袋が腫れぼったい。これなら、メイクも要らないな。なんて、思った。


「ふふ…っ」


  自嘲の念に押し潰される私を、鏡の中の『誰か』が笑った。


  熱いシャワーを浴びた。気分は暗く沈んだままだ。四十二度のお湯では、肌の汚れは落とすことはできたとしても、心の奥底に居座る暗雲までは、洗い流せないらしい。


  風呂から出て、バイト先に電話する。恐る恐る謝罪して、無断欠席したことを告げると、意外にも、店長は心配そうに私の話を聞いてくれた。普段は少しの失敗でも叱責を受けるにも関わらず、何故か、今日だけは優しかった。


  電話を置いて、改めて部屋の様子をもう一度確認する。すごい臭いだ。


  吐き気を催すほど濃密な、肉欲の臭気。磯と、海産物と、そういう『私の嫌いな』ものを詰め込んだ臭い。それを纏うのは部屋一面に乱雑に積み上げられた酒の空瓶、そして、注射器。


  いっその事、薔薇の花束でも上に置いてみれば、目の覚めるような深い赤が、たちまちこれらを芸術にでも変えてくれるのかもしれない。少なくとも、退廃と欲望をテーマにした、抽象画のモチーフくらいにはなるだろう。有名な小説家―梶井基次郎も、きっとそう言っている。


  気分が悪くなり、窓を開けた。顔を出して、意味もなく空を見上げる。雪はようやく止んでいた。誰かが、雪掻きをしていたようだ。白かった雪は土と混ざって濁り、醜悪になっていた。それは、小さな鯨の死骸のようにも見える。そして、私の吐息は湯気になって、細く、長く、鈍色の空へ向かって溶けていく。


  感傷を振り切って、私は部屋を省みた。上着を着て、散乱していたものをすべて片付ける。特に注射器の残骸は念入りに砕いて、三重にしたポリ袋に捨てた。


  そうでもしないと、また求めてしまうかもしれないから。


  努めて事務的に、部屋を掃除していた。それでも、酒瓶を片付ける度、床の汚れを拭き取る度。自身がされた行為を一つ一つ思い出して、お腹の奥がずきりと痛んだ。


  お腹と言えば、思い出した。別のものでも詰まっているのか、私は別段空腹を感じてはいない。しかし、今後の予定を立てるために、冷蔵庫を開け、その中身を確認することにした。


  タッパーに詰めた白米と、作り置きしておいたカレー。あとは、牛乳と少しばかりのチーズ。


「あはは、大変ダビねぇ」


  余りの干上がり方に、思わず乾いた笑いが零れた。語尾がおかしいのは、からからに乾涸びたゴビ砂漠に掛けてのことである。荼毘に付されたみたいになってしまったが、こんなに死にたいのだから、仕方がない。


 くだらないことでも言っていないと、頭がおかしくなってしまいそうだ。


  ああ、そうだった。私は思い出した。丁度、買い出しをしなくてはならなかったのだ。


  大きい方の財布を探して、中身を見た。小銭が数枚。これでは、モヤシ一パックしか買えない。仕方がないので、玄関に放られたままの鞄から、小さい方のお財布を出した。何とか、こちらは漁られなかったらしい。我ながら見事なダメージ・コントロールである。辛うじて、千円札が三枚入っていた。


  これでどうにか、食費に関しては二週間もつだろう。何とか、諸々の入金日まで耐え凌げそうだ。ただし、宣言通りに明後日以降のお弁当はおからになりそうだけれども。


  今から菜月にお願いしてしまおうか。私は携帯電話を手に取った。


  メールが、一件。あの女からだ。


  ろくな内容ではないのは分かっているが、私は恐る恐るメールを開封することにした。




 件名:海咲ちゃんへ




  おはようございます。母です。


  昨晩はどうでしたか。初めては痛いかもしれないけれど、すぐに慣れるので心配しなくても大丈夫です。




  それと、昨晩のことを誰かに言ったら、これをあなたの学校とバイト先に送ります。




 追伸 もし行く宛がなくなったら、また連絡してください。お仕事を斡旋します。




  メールには、画像ファイルが一つ添付されていた。見る必要はない。大方私がラリって、猿山で腰振りダンスに興じている写真だろう。


  そんな写真、わざわざ見たくもない。


  あと、別に初めてでもない。本当に、私の事何も知らないんだな、あの人。


「最悪…」


 私は携帯をクッションの上にかなぐり捨てると、そのまま布団に潜り込んだ。


  ところで、布団と言えば、昔、祖母から譲り受けた小さなブラウン管のテレビを見ながら、考えたことがある。私は、どういった場所で、どのような人と、結ばれるのか、と。


  例えば、私が彼氏を家に招待して、酔った勢いで、押し倒されて。この布団で、結ばれるとか。はたまた、彼氏の家にお呼ばれして、彼の部屋の大きなベットで、花を散らすとか。もしくは、クリスマスの日に、彼からロマンチックなプロポーズを受けて、そのままホテルで操を捧げるとか。


  しかし、実際は、そのどれでも無かった。実際は名前も知らない小太りのサラリーマンに、初めてを捧げた訳だし。あの場にも、私の妄想通りのロマンスは、欠片も存在しなかった。何人もの男たちに代わる代わる犯されて、あの中の誰とどのくらい繋がったのかさえ、定かではない。


  犯されたんだ。あの男たちに。『私』の意思に反して、『私』を好き放題されたんだ。


  現実が、私に牙を剥く。


  良いようにされて、私に無断で『私』を消費されて。こんなことなら、最初から菜月とパンケーキでも食べに行って、その帰りに新宿で『花』でも売ればよかったんじゃない?結果的にはそれで『同じ』だし、差し引きを考えるなら遥かにプラスだったんじゃないの?


(うるさい…!)


  自分に向けた、その押し殺した心の声は、悲鳴にも等しかった。何年も積み上げてきた『理性』が、自嘲の念に蹴飛ばされていく。


  醜く虚飾されたプライドで以て、自分を安売りしないように言い訳して。何が『最終手段』だ。何が『じぶんだいじに』だ。お前の価値なんて、お前が思ってるほど高くないんだよ。あの女の所に行けばいいじゃないか。どうせ、することは『同じ』なんだろう?


(うるさい…!!)


  心の中で一際大きく叫び、思考を掻き乱す。しかし、再び暗雲が、じわりじわりと立ち込めてくる。


  嫌だ。違う、絶対に違う。私が、花崎海咲が、あの女と『同じ』はずが無い。それは、真っ当に生きてきた花崎海咲に対して、失礼だ。侮辱だ。


  でも、と心の中の声が囁く。


  何が真っ当に生きてきた、だ。蛙の子は蛙、淫売の娘は―淫売に決まってる。


  理性で抑え込めないほど、黒々としたタールのような憎悪が、溢れだしてくる。私は、呑まれてしまうだろう。このままでは、確実に。


  もう、気が狂いそうだ。


  いっその事、首でも吊ろうか。


  だめだ、そんなことをしたら、私の負けだ。これまでの辛い経験が、全て無に帰してしまう。せめて、何か報われないと、採算が合わない。


  そう言えば、今月分の家賃も、電気代も、水道代も、ああ、ガス代だって。今の私には、ないんだ。私はこの街で生きていくための血税を、何一つだって払えないんだ。


  体を売ればいいじゃないか。天井の染みでも数えていればいい。それで、幾ら入るんだ?


  嫌だ。


  もう、『私』を切り売りしたくない。


  辛い。苦しい。


  薬が、薬が欲しい。あの快感を、ずっと味わっていたい。


  それは、だめだ。お前はあの退屈な保健の授業で何を学んだ。


  そんなことはどうでもいい。それよりも今は…。


「うるさい!!」


  今度は、声に出して、叫んだ。


「はあっ、はあっ、はあっ」


  もう、おかしくなりそうだ。気がつけば全身汗だくで、枕は涙でじっとりと濡れていた。


  仕方なく、私はまたシャワーを浴びることにした。そして、気休めとばかり空っぽの胃に風邪薬を一錠流し込むと、私は再び横になった。


  いつも見上げていた筈の天井が―確かに私のものだったはずの世界が、今日はやけに暗い。私を見守ってくれているはずの壁も、刺々しく、陰鬱だ。押しつぶされるように息苦しい。じりじりと、存在しないはずの悪意が、窓の向こうの闇から睨んでいる―そんな心地がした。暗闇に潜む『何か』は、ギラギラとした光を身につけて、鋭利な歯を隠し持っていて。私が眠りにつくその瞬間を、今か今かと待ちわびているのかもしれない。怖くなって、私は布団に潜り込んだ。


  伊達に副作用として眠気を誘うと明記していないのだろう、私はすぐに睡魔に襲われ、そのまま意識を失った。


  窓の外の雪は、水を含んでじっとりと重くなっていた。

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