1話 『2日前』
雪は、一晩中降り続いた。白い絨毯が覆い隠したのは、校舎裏に根を張る蒲公英の群生地。胎内に陽の光を秘める彼女たちは、冷たい氷の下で、永い眠りについている。
私はそれを、ぼんやりと眺めていた。私自身も、少しだけ―鈍色の空に押し潰されるような心地がして、息苦しい。暗澹たる銀世界は、まるで深海のよう。光は澱んだ海水に阻まれ、降り落ちる雪は、それ自体が小さな生き物の死骸のように―悍ましく無機質。
私は再び、曇った硝子を指で擦った。冷たい結露に塗りつぶされた窓硝子とは対照的に、教室の中は暖かい。
二〇二〇年、十二月二十二日、金曜日。今日は、二学期最後の日であった。ただし、来週からは高校主催の『冬期講習』が待っているため、形式だけの終業式である。
「花崎さん、あの…」
「はい、何でしょう。先生」
欠伸が溢れるほど退屈な、ホームルーム。その苦行もようやく終わり、今は放課後。荷物を纏めていると、担任の先生に呼び止められ、私は振り向いた。
「あの、ね。その、言いづらいんだけど…」
先生の口調から、要件を推理する。恐らくは、校則違反。そう予想して、私は自身の服装を確認した。制服も弄っていなければ、体育と服装検査の時だけ煩く注意されるピアス類も、今は付けていない。兎にも角にも、見た目が可愛いだけだ。
確かに私は、歌舞伎町を寝床にしているような『地雷系』メイクをしつつ、髪にはインナーカラーを入れていた。しかし、幾ら歌舞いた見た目をしているとはいえ、校則には反していない。そもそもその高校は、何事も生徒の自主性に任せる、寛大な公立進学校だったはずだ。
「…その、メイクと髪の色が、ね。PTAの方から、苦情が来てて…」
案の定か、と私は溜息をついた。学生手帳を見せびらかして、先生を説き伏せようと試みてみる。
「先生、私…校則違反はしてない、ですよね?髪色は自由、メイクも自由。ただし、一応ピアスは禁止、制服は指定のまま。それで、合ってますよね?」
「そうなんだけど…」
そうなんだけど、何なのだろう。論駁してやりたくなったが、一番の被害者は先生である。
これは私の勝手な妄想だが、『あんな格好の女子生徒、うちの子に近寄らせないで欲しいわ!』みたいな、がっちがちの保守的教育ママ―言うなれば『右ママ』から、我儘な物言いが入ったに違いない。我儘も我儘、余りの難癖具合にむかがぷんぷんになってきたな。しかしまあ。そう考えると、夜な夜なその相手をする羽目になった先生が、可哀想になってきた感じもしないでもない。
「はぁ…具体的には、どれがダメでした?」
少し譲歩してみることにする。歩み寄りは交渉の基本だ。交渉の渉の字にも、歩けと入っている訳だし。
「…その、髪の…明るいピンク色が…ね。私は、ほら。いいと思うんだけど…ね。PTAが…」
どうせ、『こういう髪色の女は、ガラが悪いに決まっているザマス』というような、偏見に基づいてのクレームだろう。徒党を組んで暴れるような、声だけ大きな自称マイノリティママ―言うなれば『左ママ』から、ザマスザマスと物言いが入ったに違いない。
多様性。髪色も肌も人種も出身国も、誰もが認め合い尊重し合う。そんな世の中を世界中が目指しているというのに、この後進国ニッポンポンでは、このような偏見が平然とまかり通っている。それも、比較的コミュニティ内の知性の高い、進学校で。どうにもここは、『花崎海咲』を許容してくれる、寛容さは持ち合わせていないらしい。何とも、息苦しい気持ちになった。
「…はあ。先生、クリスマスプレゼントは期待してますよ。…今度給料が入ったら、黒染めしてきます」
そして、こうして折れてしまう自分も、かなり嫌いだ。もう少し、我を強く持ちたい。中身は優等生、しかし見た目は地雷系。そんな中途半端な女が、この私である。文字通りの『地雷』のように、ここで爆発―激昂してやる気概を持った方が、もしかしたら幸せに生きられるかもしれない。そもそも、私にとっては思案を重ねるより、素直に力押しする方が性分に合っている。したいな、爆発。これじゃあ『不発弾女』がいいところである。あーあ。
あまり自己嫌悪に陥ると、見た目ならず心までメンヘラになりそうだった。この辺りで打ち止めにしたい。せめてもの抵抗に、私はもう一言だけ、小言を残してやることにした。
「その右近左近…じゃないや、教育ママさんたちに言っといてくださいよ、先生。白髪染めより安くないんだぞ…って」
どうせなら白髪染めの商品名<シエロ>に掛けて『消えろ』とでも言っておきたかったが、目上の人間の前で使う言葉ではないなと思い自制した。
先生は、ありがとうありがとうと『ありがとうbot』のように、何度もスタックした単語を繰り返した。まあ、彼女が喜んでくれたのなら、それでいいだろう。いつだって、板挟みは辛いものだ。
そうやってヒーロー気取りになっていた私に、声をかけるものが一人。彼女は勢いよく、私の前に躍り出る。
「海咲さぁん、今日暇ー?帰りにさ、いつものパンケーキのお店行くで」
「む、ナーチャン。ごめん、今日バイト。それも三テラバイトの大容量だから、貴女の分の空きはないんだ。ごめんご…後醍醐天皇」
えー、今日もかいなー、と口を尖らせる菜月。彼女とは小学校時代からの長い付き合いで、互いに気の置けない相手である。彼女は割とアホめであったが勉強はできるようで、気がつけば横浜市内の同じ公立高校に入学していた。友達の出来にくい私にとって、彼女はずっと大切な友人である。
しかし、今日に関しては、話は別である。私はいつものように、心を鬼のようにして親友の菜月を乱雑にあしらわなければならない。何故ならこの後には、長時間のアルバイトが控えている。
菜月には悪いが、金欠の私からすれば。アルバイトを休み、再び彼女と外食するなど、到底許される行為ではない。何なら髪なんて染めてる場合ではないが、そこのところは大目に見ていただきたい。カワイイ・費用は税金なので、生きているだけで消えていくのだ。
只でさえ両親が離婚して、その両方と別離している私にとって、一分一秒でも多く働き、貯蓄に励むのが生き残るための最適解だ。しかし、そこは花の女子高生。わかっていても自制が効かない。本当は無駄なお金など使いたくないはずなのだが、こうも毎日誘われると、つい。時々、誘惑に負けてしまうのである。
そんな自分を、たまに少し嫌悪してしまう。こういった軽い不快感が、俗に言う『ぴえん』という概念なのだろう。
もう私に説教する祖母はいないし、また新大久保のハングルが乱舞している辺りで『花』を売るのも吝かではないが。いくらお金が足りないとはいえ―『お花屋さん』は最後の手段としておこう。『じぶんだいじに』だ。それに、高校では徹頭徹尾優等生であろうと決めたのだ。見た目以外。
その辺の事情に察しの悪い菜月は、今日も私を放課後のティータイムに誘い、そして失敗して尚諦めず、子供じみた駄々をこねていた。
私は、心を悪魔のようにして、菜月にきちんと告げることにした。
「…菜月」
「お、行く気になったかい、海咲さん」
「そんなに食べてばっかりだと、太るよ」
「ええよ、運動すれば脂肪なんて直ぐに剥がれるし。うちの代謝を舐めんなや」
などとは、運動神経抜群の菜月の弁である。確かに、と納得してしまった。珍しく論破されてしまったので、私は咳払いを挟んで言葉を重ねる。
「それはさて置き、今月菜月のせいで火の―暁の車だから。もうギターラも魔法陣もグルグルなんだから。責任とって?養ってくれるなら籍入れてもいい」
プロポーズの割には突き放すような口調で言った私に、私の気楽なガールフレンドは、口を窄めて抗議の意を示した。
「無理無理海峡梅雨時雨。今日サボタージュキメると、来週のお昼ご飯が全部おからになっちゃう。もう砂漠みたいに堪らなく干上がってるの、私。拳銃だとデザート・イーグル」
ばきゅん、と付け加えてやった。財布がすっからかんなだけに、そう抗議した。
「もしお弁当の中身全部おからだったら、うちのちょっと分けたるわ。ええやろ?」
一年前に、近所に来た移動動物園を見に行ったときも感じたが、彼女は私と少し笑いのつぼが異なるらしい。酸欠になるほど笑い転げた私とは対照的に、互いの尻尾を追いかけてぐるぐると回るモルモットたちのダンスに、菜月は呆れたような表情をしていた。エセ関西人の癖して、お笑いのセンスだけはあるのかもしれない。
「面白くなかった?今の」
「財布がすっからかんだから、おからってことなんか?砂漠はタクラマカン砂漠?はあ、バカ殿のゲストに、ネルソン提督が呼ばれるくらい面白くにゃい」
「そう。忙しい時に限って、私のお話が長いって言いたいの?」
「せやで、さすが学年一位の頭脳」
「保健体育と家庭科の試験だけな。ぶい」
「言われんでも知っとるわ。実は誇りに思っとんか?」
自覚はあるので、あまり強くは反論しない。私の話は、確かにナガメカタメシャレマシマシである。言うなれば、言語的ラーメン二郎だ。客には聞かなきゃあいけない。『ウンチクいりますか』ってね。
「まあ、まあ。おからでもなんでも、来週もしあんたがそんな目にあうようなら、うちが海咲の分も作ってくるから、さ。だめ?」
「その時は是非ともよろしくお願いしたいな。
あと、いくら小動物みたいな目を向けられても、無理みなものは無理め。無理通り越してマリ。赤道が直下もいいとこなの」
「マリは赤道直下じゃな…ああ、くそ…」
そう、マリは赤道直下ではない。赤道『が』、ブルキナファソとガーナを挟んでマリの真下―真南である。騙されたな、ばーか。
「あと普通はバイトのシフトって、そう簡単に変えられないから。フェイズシフトがダウンだから」
「そこを何とかするのが、海咲姉さんの仕事やろ」
「流石に二週連続はマズいって。あと貴女、今日礼拝の日じゃないの。ほら、ネーフェサしてきなさい。そんな事じゃ、また親御さんに怒られるぞ。ネーフェサ」
「にゃー、うちクライン教じゃにゃいんやで」
何を言っても私の心を動かしようがないことを漸く悟ったのか、菜月は不服そうに手を振った。
今日の菜月は、しぶとかった。まるで最後には『金属の燃素は重さが負』などと言い出しそうなくらいの、圧倒的しつこさ。うむ、我ながら今日も教養の滲む言い回しである。今の頭脳労働で、四千カロリーは消費してしまった気がする。
敗戦して尚もパンケーキに未練があるのか。瞬時に狩人のように目を光らせ、他の子に狙いを定めた彼女に私は『一人で行けよ』などと呆れつつ、足早に学校をあとにした。
急がないと電車に間に合わないので、学校の前の坂を走り降りる。
春には、この通りの天気予報を桃色の雨模様で埋め尽くす、桜の並木も。気の滅入るような冬の曇天の下では、物寂しいオブジェクトにしかならないようだ。桜の花びらの代わりに、しんしんと。冷たい雪が、静かに降り落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと。じわりじわり、命の熱を奪うように。凍えるように風に揺れている、桜の幹を一瞥して、私は訳もなく悲しくなった。
陰鬱とした気持ちを振り切るように。私は、雪の中を走り抜けることにした。広い道路を、法定速度超過―お巡りさんがハーメルンするぎりぎりで通り過ぎるバイクを横目に、私は歩道を駆けていく。
何回か信号に捕まりはしたものの、私はどうにか、最寄り駅に、時間通りにたどり着いた。




