3話 間違っても、食べたりしないから
渡里にとっては、全てが新鮮であった。ロシアの宮殿を思わせる、カラフルな球体から構成された―役所の前を通り。六脚と二つの車輪で壁を走破する―官営バスの前を横断し。古代ローマの黄金劇場、そのレプリカを冷やかして歩くこと、二時間少し。彼女は、東南アジア風の通りを歩いていた。
相当な距離を歩き周り、彼女は空腹になってしまった。目に止まったのは、屋台のサンドイッチ。様々な言語で記載されているものの、値段の表記は円(¥)表示で、サンドイッチ一つ百五十円と記載されている。幸いにも、制服のポケットには小銭が入っていた。彼女は牛肉のサンドイッチを注文し、百五十円を支払おうとした―のだが。
「ちょっと、これは使えないよ」
「ええ」
良く考えれば―良く考えなくとも、その通りだ。普通に考えて、通貨が同じはずがない。つい、『円』という表記に釣られてしまった。
途方に暮れる渡里。店主の女性は溜息をつくと、何事か呟こうとした。
「ホンちゃんのお母さん、しんちゃお。いつものスペシャルを一つ。あ、この子の分も払います。ツレなのだ」
店主の言葉を遮るように。渡里の後ろから、一人の少女が横入りする。歳の頃は渡里と殆ど変わらない。ただし目を引くのは風景に似合わない地雷系メイクに、歌舞伎町で見かけるような甘めのブラウスにフリルスカートのセットアップ。ビビット・ピンクのインナーカラーが入った長い黒髪を揺らしながら、彼女はスマートフォンを差し出した。
「パクチーマシマシで。彼女のやつにも後乗せで。支払い乙姫Payで」
「何、みさちゃんのお友達だったの。ええと、いつものね。みさちゃん、今日はもう学校終わったの?」
『おっぺい!』と卑猥な音と共に、決済が完了された。がらがらとトイレットペーパーを巻くように引き出されたレシートを懐にしまうと、少女は態とらしくため息をついた。
「そーです。放課後バインミーな身分なんですけど、この後も労働に従事しなきゃなんです。かなしみ」
「あら、忙しいわね。お姫様みたいに綺麗なカッコして…水商売のアルバイトはダメよ?」
ひらひらとフリルの付いた黒とピンクの服装を眺め、店主は顔を顰めてみせた。そんな彼女に、少女は悪戯な微笑みで返す。
「私、可愛いので安売りしませんよ―って言うのは置いといて、何とびっくりお役所のインターンなのです。ぶい。服装自由なんで、一番気合い入る格好してます。ホンちゃんから聞いてないです?」
「もー、あの子は何も。みさちゃんは偉いわねー。ホンにも見習わせたいわ」
「ええ、『ホン』とうに」
「それホンが嫌がるからやめてちょうだいね」
少女はちろりと舌を出した。
「ありがとうございませ。ホンちゃんにはご内密に」
「また来てくれたら手を打つわ」
「くう、商売上手」
一頻り世間話を終えると、少女は渡里に微笑みかけた。笑顔でバインミー(ベトナム風サンドイッチ)を受け取ると、渡里にも手渡してくれる。
「はい。パクチー平気?嫌いならごめん」
「え、ええと。ありがとう」
べらべらとよく舌の回る人だな―というのが、渡里が少女に抱いた第一印象だ。
「タメ口〜?」
「ありがとう、ございます」
「ぶいなのだ」
「お陰でその…助かりました」
「あ、タメ口でおけまるなのです」
どっちなんだよ、と渡里は思った。とても一方的なコミュニケーションで、とても取っ付き難い。この人は、あんまり友達が多くないと思う―などと、失礼ながら渡里はそう感じてしまった。
そう思われることには慣れているのか、見た目だけは『地雷系』な彼女は、渡里の怪訝な顔を意に介そうともせず、渡里の手を引いて歩き出した。
「しばし歩こうか。この日当たりは夜型には堪える。おばさん、ありがとうございます」
「はあい、またいらっしゃい」
ぺこりと礼儀正しく一礼して、彼女は足早にその場を後にした。彼女の言うとおり、屋台のある通りは少し日差しが強い。渡里は少女に促されるまま、路地裏の日陰へと連れ込まれた。
「ホットしたね。あ、日焼け止めあるけど、使う?」
彼女が差し出したのは、現世でもよく見かけるブランドの日焼け止めだった。渡里は、静かに首を振る。
「あ、私は海咲。気軽に海咲って呼んでね」
海咲は、ひらひらと手を振った。生真面目で清純な渡里は、この類の人種には全く免疫がない。大型犬に触るようにおっかなびっくり、おずおずと頭を下げる。その様子を見て、ビビット・ピンクの少女はくすくすと笑った。
「渡里…ええと、夢沢渡里です」
渡里は、丁寧に自己紹介をした。すると、やや食い気味に、目の前の地雷系少女は言葉を重ねる。
「ワタリ・エエト・ユメサワワタリちゃんか。エエトがミドルネーム?」
「違います…」
得意気に話す様子に、渡里は少し辟易した。あまりにもノータイム過ぎて、移動時間に考えてたんじゃなかろうか、と邪推してしまった。この人は、ネットのノリを現実に持ち込むタイプだ。そういう、お茶の間を冷やすようなユーモアを感じ取り、渡里は本当に辟易した。因みに海咲は尚も得意気であった。
なんなの、この人。
「あの、ありがとうございました」
人を食ったような態度の海咲だが、渡里にとっては恩人に変わりない。彼女は丁寧に頭を下げた。海咲は気さくな笑顔を向けると、渡里にサンドイッチを食べるよう促した。
「いただきます」
「いただきませ」
日陰に置かれていたベンチに腰掛けながら、サンドイッチの包み紙を開ける。そのまま、もきゅもきゅ、と二人でサンドイッチに被りつく。パクチーの匂いが少し気になるが、スパイスの効いた風味が美味しい。
「ねえねえ。渡里ってさ、ミド高?」
「えっ…」
突然出身校を言い当てられ、渡里は驚いた。あまり意識はしてなかったが、彼女はまだ制服を着ていたのだ。
「因みに、私もミド高。縁があるね。山田ハル先生のクラス」
「あ…一個上の」
自殺者を二人出してしまった、山田ハル先生。彼女は五月まで在籍していたが、八月現在は休職中らしい。
「あ、そうか後輩になるのか。ふーん。焼きそばパンでも買ってきてもらおうかな」
「お金ないです」
「そうだった、ヤクザものだった」
「いやだから紋紋はないんです」
『一文無し』と『紋紋』と掛けているのだと思い、そう答えてやった。第一印象こそ悪かったが。海咲と話している間に、渡里はどこか楽しくなってきていた。そう言えば、高校に入ってからは、こんな他愛のない話をすることも、少なくなってしまった気がする。
「そう言えば、渡里はいつここに来たの?」
「ええと…」
嘘をつこうかと思ったが、通貨を知らないのでは辻褄が合わなくなってしまう。渡里は困ったように目線を逸らした。彼女の心を見透かすように、海咲はくすりと笑った。
「つい最近でしょ?騙されるよね、貨幣制度。払えないなら体で払う世界観だから、気をつけてね」
そう冗談めかして笑う海咲。体で払うとは、つまりそういうことなのだろうか。渡里は、海咲のホストクラブに出入りしていそうな見た目から、自身の卑猥な想像があながち間違いでもなさそうな気がしてきた。
「ま、冗談はさておき。かく言う私も最近来たばっかだけどね。現世での暮らしが嫌になって」
「貴女も?エレベーターやったの?」
「へー、エレベーターガール呼んだんだ。顔見た?可愛いよね、顔だけは。ちなオカ板とか見る系?」
海咲の言葉に、渡里は更に親近感が湧いてきた。
「見る見る!最初はね、ストレス発散のつもりだったの。最近、学校で嫌なことがあって。それで、皆に嫌われてる感じがして…」
あ、と。渡里は、動き始めた口を止めた。オカルト掲示板の話をするはずが、堰を切ったように自分を語る言葉が流れ出てしまった。気持ち悪いと思われても、仕方がない。恐る恐る、渡里は海咲の表情を伺った。
「異世界に行きたくなった?わかるよ、現実ランナウェイもしたくなる。現世では常に虫唾がランニング。逃げ回れば死にはしない」
彼女は気にも留めていないというように、渡里の言葉の続きを紡いだ。一息入れてから、海咲は話し始める。
「隙自語で恐縮だけど。私、こんな喋り方でこんな見た目でしょ?現世ではマングース負けで…間違えたハブられがちでさ。友達、猫一匹しかいなかったし。ハル先生も私を助けてくれないし。生きづらかったな〜、なんて。貴女は渡里?」
生きづらさ。そんな想いを誰もが、漠然と抱えている。他ならぬ渡里も、その一人だった。
やっと、分かってくれそうな人がいた。渡里は心の内を、長々と、海咲に話した。学校のこと、家庭のこと。海咲は相槌を打ったり、時折茶化したりしながら、渡里の話に親身に寄り添ってくれた。それは、渡里にとって久々の―一方的でない、コミュニケーションであった。
「私ね、小説家になりたいの。でも、お母さんに怒られそうで…」
「いいじゃん、小説家。親の言うことなんて聞くことないよ。貴女の人生なんだから―やりたいことやったもん勝ち、でしょう?」
親にも話していない夢のことも、包み隠さず。理数系に強くなりなさい、そして公務員になりなさい、その為に勉強をしなさい―はい、分かりました。私は自由に生きているようで、人生の全てが親に管理されている。それは、幸せなことなのかもしれない。親がいることが、どれほど恵まれているのか。
それでも、それでも。
「私、なりたいんだ。小説家」
親の敷いたレールを外れてでも掴みたい、尊い夢。実現出来ないかもしれない。それでも私は、諦めたくないのだ。
「…ごめん、引いた?」
「何で?生きたい明日があるっているのは、素晴らしいことだよ」
屈託のない笑顔で、海咲はそう言った。自身の―不安定で、遠くて、儚い未来への希望。誰に話しても鼻で笑われるその夢を、彼女は『良いこと』だと言った。それは、渡里にとって、初めての経験であった。
「ありがとう。…こんなにちゃんと話せたの、初めてかも」
「良かった?初めてが私で」
茶化すように笑った海咲に、渡里は頷きで返した。
「…話は変わるけど。ここは、貴女にとって、良い世界だと思う?」
少し―影のある言い方に。渡里は、怪訝な顔をしてしまった。エレベーターの先の、冒険と未来に溢れた世界。色々な種族が、妖怪が、魔物が―互いに助け合い支え合い、生きている世界。そして現世に居場所を得られなかった自分が漸く辿り着いた、桃源郷。少女は、この世界のことを―そう認識していた。あるいは信じ込んでいた、と言い換えてもいい。
「ええ。…そうではないの?」
渡里の問い掛けに対して、海咲は視線を落とした。
「…うん、良くはない。この世界は、私たち『人間』には少しばかり薄暗い。それでも、平等に『夜明け』は訪れる。だから懸命に藻掻いて、足掻いて。夜明けがくるまで、頑張ってる」
バインミーを食べ終えた海咲は、口元を青いタコ柄のハンカチで拭った。
「貴女は、夜明けに踏み出す覚悟がある?」
彼女は視線を上げた。そして真っ直ぐに、渡里の瞳を見据える。その視線を受け止めた渡里は、決まりが悪そうに目を逸らした。
踏み出す覚悟。海咲の言っていることを、渡里はあまり理解できなかった。普通の人生を送ってきた夢沢渡里には、想像することさえ容易ではない。
それを悟ったのか、海咲は冗談めかした笑顔を浮かべた。
「…なんて。人生の一年先輩から後輩へ向けた、説教臭いアドバイスなのでした。…あ、ミントいる?」
ごそごそ、と彼女はプラスチック・ケースを探していた。無言で頷き手を差し出すと、黒い革製のバック<歌舞伎町のランドセル>から、ミントのケースが取り出された。中身があればからころと音が鳴るはずのそれは、全くの無音である。
「あれ、入ってないや。ごめん」
後で買ってくる、と彼女は笑った。そして、ケースを懐にしまった。
「ところでさ。自己紹介も程々に、本題に入ってもいいかな」
「うん?」
海咲の改まった素振りに、渡里は小首を傾げた。そんな渡里の表情を見ながら、海咲は悪戯な笑顔で微笑んだ。
「わたくし、『入国管理局』の執行官。花崎海咲と申しますが」
差し出されたのは、顔写真付きの手帳。それは、渡里に『警察手帳』を想起させた。
「不法入国者の通報を受けて来ました。この辺りで、『今日』ここに迷い込んだ『人間』―見ませんでした?」
冗談交じりの一言に―どきり、とした。
「…え?」
それは、間違いなく自分のことだ。恐らく―否、ほぼ確実に、海咲も気づいているはずだ。渡里の脳裏を、様々な『可能性』が駆け巡る。すっかり、安心しかけてしまった。何と答えるべきなのか。仮に『それは自分のことだ』と返したら、それを聞いた彼女は、私をどうするつもりなのか。
『この世界は夢沢渡里にとって、良い世界か』。彼女は先程、そう問いかけてきた。あの質問は―果たしてどういう意図だったのか。
「私がそうだって言ったら、海咲はどうするの…?」
そもそも、海咲は本当に。私を助けるつもりで、近づいてきたのか。
「残念だけど」
彼女は、少し悲しそうな顔をした。申し訳なさそうな―しかし、決意の滲むような表情に、悪寒がした。
「出会っちゃったからにはもう、ね。殺すか、それとも捕まえるかしないといけないんだ。不本意だけどそういう仕事で、そういう役回りだから」
急に、海咲のことが怖くなった。渡里は後ずさり、海咲の言葉に頭を振った。彼女は路地裏の影から外に出て、陽の光の下に出る。それは、彼女が現世で何十年も培った、『不審者』から逃れる大原則―人気の少ないところは避けろ、である。
脱兎のごとく逃げ出そうとした渡里。しかし、彼女の足は魔法にかけられたように動かなくなる。渡里は想像もしていないが、事実―海咲は魔術を行使していた。
「…ああ、逃げないで。間違っても食べたりしないから―」
渡里の視線の先には、『人間の串焼き、米兵風』の文字。背後から笑い声が聞こえる。海咲の揶揄うような声色に、渡里は背筋が粟立った。
「ふふ。ちょっ…と、ここいらの人は食べるみたいだけど。私は食べたりしないから―」
往来を歩く人々が、足を止める。足を止めて振り返るが―誰も彼女を助けようとはしなかった。彼らはただ、渡里を見ていた。無表情で、無関心―ならば、まだ良かっただろう。思いがけず偶然に、観衆の一人と目が合った。
渡里を見るその視線は、強い憎しみに満ちていた。
「―大人しく捕まって。私に、銃を抜かせないで」
彫像のように立ちつくした彼女に、海咲は魔力で編まれた半透明の手錠を掛けようとする。
「ごめんね、パフォーマンスだから。詳しい話はあとで。…大丈夫。あとでこっそり、家に帰してあげるから」
渡里の耳元で、海咲はそう囁いた。いつの間にか、野次馬に囲まれていた。海咲はスマートフォンを耳に当て、誰かに電話をかける。
「確保したよ。取り敢えず収容所でいいかな?」
話はすぐに終わり、渡里を拘束する力が少し緩んだ。彼女はその隙を見逃さず、渾身の力で逃れようとする。
「ごめんね、渡里。貴女の為だから―」
からん。彼女の言葉を遮るように響いたのは、乾いた音。円筒型のそれを認識し、執行官の少女は顔を背けた。
「…っ!?」
突然のフラッシュ。渡里は目を覆う。同時に、誰かに突き飛ばされた。体制を崩した渡里は、そのまま優しく抱えあげられる。
「逃げるよ」
清涼な声色が、少女の耳元で囁かれる。声の主に連れ出されるまま、渡里はその場を後にした。
一人残された海咲は、仰向けに倒れていた。びくりびくりと陸に上げられた魚のように痙攣を起こした彼女は、顔から煙を吹いていた。