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水縹に咲く二ロトパラ  作者: 山野悠太
第1部 3章『天を裂き咲くアグニの火』
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閑話 月世界の新たなる神

 渡里は未だ、祭壇に辿り着いてはいなかった。時折、医官を務めるムーン・ビーストが彼女の身体を診ていたが、それも少し前からなくなっていた。


  限界を迎えた彼女は、朦朧としたまま歩いていた。再び足を縺れさせ、転んだ彼女を蹴ったのは、翼竜の女性。彼女は渡里が白装束を汚す度、渡里の体を痛めつけた。きっと翼竜を睨めつけた渡里は、立ち上がることをしなかった。自身を助け起こそうともせず、執拗に追い討ちをかけるその精神性に、酷く腹が立ったからだ。そんな彼女を見つめていた、女性―プトーリアの瞳に、憐れみの色が浮かぶ。


「…馬鹿ね」


  ぼそり、と。鶏冠頭が左右に小さく揺れた頃には、渡里は神官に鞭を振るわれていた。青白く光る電磁鞭に打ち据えられた渡里の体は、魚のように飛び跳ねた。彼女の脳髄に叩きつけられたのは、想像を絶する苦痛。『苦しみ』という概念を形にしたような、剥き出しの痛みだった。


  声にもならない悲鳴を上げ、彼女は失禁してしまった。何時間も歩かされた彼女の膀胱は、元々限界だったのだ。びくりびくりと痙攣する彼女に、再び鞭が振り上げられる。


「控えろ、拷問好きの変態め」


  神官であるムーン・ビーストを制すると、彼女は渡里を蹴って回した。仰向けにされた渡里は、白い服を濡らしながら泡を吹いていた。


「ここで彼女が命を落としたら、貴方が責任を取るのよ」


  プトーリアに睨まれ、神官は不機嫌そうに唸った。一触即発の空気に、公爵が現れる。


「そこまで。お前、それを貸しなさい」


  神官は、公爵に電磁鞭を手渡した。彼はそれの電源を入れると、躊躇うことなく渡里に向かって振り下ろした。今度は血のように赤いスパークが、彼女の細い身体に襲いかかる。


  今度は、悲鳴を上げることが出来た。人のものとは思えない、家畜のように情けない悲鳴だ。豚の鳴き声のように甲高い声を漏らして、渡里は腰をへこへこと突き出した。あらゆる神経が暴発し、渡里の幼い脳髄はショートしてしまった。苦痛と快楽が入り交じり、彼女は顔を引き攣らせながら、下腹部を庇うようにしてうつ伏せになった。


(苦痛)の次は(快楽)を。青を続けて打つと、人の身体は壊れてしまいますから」


  そう言って、彼は再び電磁鞭を青く光らせる。それを見た渡里は、恐怖に竦み上がり―彼女自身が驚くほど、機敏な動きで立ち上がった。


「…た、立ち、立ちます!歩けます、から…」


  打たないで。産まれたての子鹿のように脚を震わせながら、彼女は卑屈な笑顔を浮かべた。その悲痛な声を聞き、公爵は柔和に笑った。


「我が神よ。今は辛抱の時です。彼処に見える祭壇に見えたとき。貴女は苦しみから解き放たれ、『新世界の神』となるのです」


  恭しく跪き、にたりと笑みを浮かべた公爵。その表情が恐ろしくて―おぞましいほど、醜悪で。渡里は抵抗する気も、失せてしまった。


「…歩きなさい」


  プトーリアに背中を押され、渡里は歩き出した。また蹴られるかもしれない、今度は背中を突き飛ばされるかもしれない。その恐怖が、渡里の足を鈍らせた。


「お優しいねぇ、妖精の姫君は」


  翼竜の横に立ったのは、筋骨隆々の蛇女。彼女はくつくつと笑うと、プトーリアを揶揄するような口調で言った。


「…別に」


  素っ気ない態度で答えると、彼女はレベッカから逃げていく。元々、立ち位置が決まっていた訳でもない。誰に咎められることも無く、翼竜は最後尾に並び直した。


「けっ、随分嫌われたもんさね」


  でも、と彼女は舌舐りをした。啜るような音が背後で響き、渡里は背筋を凍らせた。


「…ここであたしがドン、と押したら。アンタはまた鞭打ちだ。可哀想にねぇ、馬鹿みたいな夢を見たばかりに」


  『馬鹿みたいな夢』。どの夢のことだろう。異世界で出会った美男子(リウ)とのボーイ・ミーツ・ガールのことだろうか。それとも、異世界に来たいなどと、幼稚な夢を願ったことだろうか。或いはもっと前、小説家を志したことだろうか。


  全部だ。どれか一つでも欠けていたら。私はここにはいなかった。この苦しみは、現実にはならなかった。親の言うことにだけ従っていれば。こんなことには。


  ぼろぼろと。枯れ果てていたはずの涙がこぼれ落ちた。それは、彼女に残った最後の自由意志だった。


  もう、痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。これ以上辛い思いをするのなら、嫌な気持ちになるのなら。私は、『私』でなくていい。従います、委ねます。『将来の夢(未来)』もいりません。貴方たちの神になります。全部、貴方たちの言う通りにします。だからどうか。これ以上私を、傷つけないで。


  悲痛な心の叫びと共に。黒い涙が零れ落ちた。熟れて爛れた膿のようなそれは、果たして彼女の何だったのか。どろりと落ちた涙は、ウボスの湖を満たす粘菌に溶けていく。


  その様子を見て、公爵は歓喜に震えた。


  神は自我を吐き出した。儀式は終わり。我々は遂に―『イデア』に至れるのだ。


  祭壇までの道のりは、儀礼用に飾り立てられた車での移動となった。遠くにぼんやりと見えるばかりだった祭壇が、その威容を露わにする。


  粘菌の湖に浮かぶ島。寂寞とした月の地表に、それはぽつりと佇んでいた。渡里の前に現れたのは、黒々とした月の岩に支えられた、水晶の宮殿。七色の光を放つその建造物は、高貴さすら感じさせる。まるで種子のようなその水晶塊の名は、『サーキュレイト・トラペゾヘドロン―循環螺旋式ねじれ双角錐』。対象を永遠に循環する疑似多元宇宙に幽閉し、『そこにあるがそこにはない』状態を作り出す。とある大悪魔が命と引き換えに放った、封印術である。


  幻夢境から反射した淡い太陽光を受けて、光り輝く水晶―そこに収まる巨大な影。瞳を開けたまま眠るように動かないそれは、邪神『ムノムクア』。その姿を端的に表現するなら、全長百メートルを超える翼の生えた爬虫類―つまり、竜。邪神の威容を前にしても、渡里は動じなかった。否、動揺できるだけの心の余力すら、残っていなかったのだ。


  車から降ろされた彼女は、導かれるまま水晶塊へと向かっていく。水晶塊までは一本道になっており、道の両側は落窪み、岩造りのプールのようになっていた。深さは二メートルほどだろうか。美しい曲面で切り取られたその貯水槽の底には、血糊がべったりとこびりついていた。そこに、放り込まれているのは、連れてこられた生贄たち。無造作に、そして乱暴に―同胞であるレン人の兵士に蹴飛ばされ、妊婦と思われる女性が貯水槽に突き落とされる。辛うじて腹部を庇うことができたものの、腰を強く打ち付けた彼女は苦しそうに呻いていた。そんな彼女を助け起こすどころか―痩せ細り、食欲と血に酔ったレン人の女が、妊婦に噛み付いた。このような地獄が、当たり前のように広がっていた。


「最後に残った百人は、解放しましょう」


  ナイフ、農具、食器。簡素で殺傷力が低い武器が、窪みに向けて放られる。『同族を殺せば』助けてやる。公爵の言葉を聞いて、生贄たちの間に動揺が走る。


「…?どうしました?ここで、全員死にたいですか?」


  彼は銃を構えて、手近な『生贄<レン人>』を撃ち殺した。そして漸く、生贄たちは気がついた。自分たちにはもう、『殺す』か『殺される』以外の未来が、残されていないのだと。レン人の男は、フォークを手に取った。レン人の女は、ナイフを手に取った。そこから先は、言うまでもない。醜悪な一幕を見せられ、渡里は顔を顰めた。それが、今の彼女にできる、最大の感情表現だ。


  渡里たちが水銀の灯りがゆらゆらと揺れる道を進んでいると、質素な作りの祭壇が見えてくる。水晶塊に明けられた穴―嘗て物理的にムノムクアの解放を試みた公爵たちが掘削した坑道の奥に、それは置かれていた。


  冒涜的な意匠のレリーフが刻まれた、金属製の椅子。それが、ムノムクアの祭壇であった。椅子と言っても地球のそれではなく、ムノムクアの舌を象った流線型のフォルムをしており、お世辞にも座りやすいとは言えない形をしていた。椅子には両手足を縛る枷が取り付けられており、渡里はそこに座らされると、枷により拘束された。祭壇周辺の水晶は磨き抜かれ、万華鏡のようにして渡里の姿を写している。自分ではない沢山の自分に見詰められているようで、渡里は不愉快な気持ちになった。


「いあ!いあ!むのむくあ!」


  公爵による祝詞が始まる。脳髄に施されたインプラントを介し、渡里の脳内に声が響き渡る。頭が割れるように痛くなり、少女は苦しそうに呻いた。その様子を、水晶に写った『誰か』が見つめている。


「う、ううっ…」


  電磁鞭とは異なるベクトルの苦痛に、渡里は喘いだ。ざらざらとした舌で、心を舐られているような不快感。精神を『名状しがたい何か』に土足で踏みにじられ、渡里は吐き気を催した。


  いつの間にか、水晶塊に写った像が、全て渡里を見つめていた。水晶塊は、鏡面になっていた。つまり、苦しみ喘ぐ彼女を見つめているのは、彼女自身では無い。


「やめ…っ、こ、来ないでぇ…っ」


  そして。渡里の顔をしたそれは、その容姿の持ち主が一度もしたことがないような、邪悪な笑顔を浮かべた。


  その瞬間。渡里が感じたのは、強く体が引き込まれる感覚。水晶の壁が迫ってきて、渡里は意識を失った。


  暗い、粘液の湖の底。渡里は漂うようにして、そこにいた。身体を起こし、周囲を見渡す。無気力に回りを眺めていた少女の前に、饐えた臭いを振り撒きながら、『ソレ』は姿を見せた。巨大な爬虫類は、渡里を一呑みにするかのように大きく口を開き、叫んだ。それは言語かどうかも疑わしい、野性的な咆哮。渡里は恐ろしくなり、顔を引き攣らせた。直後、渡里の中に粘液が入り込んでくる。口からだけではない。肛門から毛穴に至るまで、全ての穴という穴に、汚泥が注ぎ込まれていく。


「おえっ、おっ…むぐっ」


  声にならない悲鳴。しかし渡里は汚泥を受け入れた。彼女には、反抗する心も、残ってはいなかった。そして彼女は再び気を失った。


  渡里の細い首は、水晶から伸びた腕に締め付けられていた。鉤爪に裂かれた渡里の首から滴る血は、青黒かった。静かになった渡里の姿を確認し、公爵は高らかに笑った。儀式は、成功した。これで、新たなる神による統治が始まるのだ。『力による支配』『支配による統制』『統制によるイデアへの回帰』。この三つを掲げ、彼らは『イデア』への探求を繰り返してきた。大戦に負け、雌伏の時を過ごし、屈辱の日々を耐えた。そして今日、長年の研鑽が漸く実を結んだ。新世界の神の降臨、それは彼ら『月の狂気派(モントリヒト)』によるイデア探求への、新たなる一歩となるだろう。


「これで、イデアへの道が拓ける」


  この一歩は、彼らムーン・ビースト全体にとっては、小さな一歩に過ぎないのかもしれない。しかし、盈月が満ちるが如き偉大な所業であることに間違いはない。何せ彼らは―『神』を作り出したのだ。


  そんな彼の絶頂に水を差すように。伝令役のレン人が、坑道に駆け込んでくる。そして開口一番、彼は報告を始めた。


「伝令です!同盟が仕掛けて来ました!」


  解放同盟、まだ生きていたのか。公爵は不愉快そうに口元の触手を動かした。頭を潰して安心していたが、どうやら徹底的に殺し尽くす必要があるらしい。


「蛆共め、何度殺しても湧いて出る」


  害虫は徹底駆除に限る。公爵は腹心の部下に指示を出した。


「フライ・カナフ艦長。『ズィアーリ』残党の掃討を命じます。彼らはレン民族のガン細胞です。一人残らず始末しなさい」


  幽閉機関ステム級一番艦『スノードロップ』の要請をすると、彼は腹立たしげに唸った。生き延びていた我妻天使を含む―憎き『ドミナ(女王の)エクィタトゥス(十二騎)』の妨害を受け―何年―何十年待たされたと思っている。我々はあと少し、もう少しで『原器(イデア)』に到れるのだ。我ら『月の狂気派(モントリヒト)』千年の悲願、これ以上邪魔されてなるものか。


「つ、追加の報告が…」


  最早普段の柔和さを取り繕うこともせず、苛立ちを剥き出しにした公爵に、伝令役のレン人兵士は恐る恐る話しかけた。


「…聞きましょう」


  まだあるのかと苛立ったが、ここで声を荒らげてしまっては、レン人共下等知覚種族と同じだ。彼は努めて―穏やかに、報告を促した。


「ウボスにて、クーデターが発生。第二艦隊が、裏切りました。工廠にて修繕中であったステム級二番艦『サイサリス』が奪取され、現在は解放同盟によって運用されているとの情報が…」


「他には?」


「え?い、いえ。報告は以上ですが…」


  腹が立ったが、声を荒らげてしまうのは高次の知覚種族として情けない。そこで、彼は無言のまま鞭の電源を入れ、兵士に向かって振り下ろした。困惑する男に向けて、青白く光る鞭を何度も何度も振り下ろした。幸い、それを見ていた他の兵士はいなかった。


「…外に捨てておきなさい」


  神官に死体を預け、公爵は坑道の外に出る。血腥い死臭が充満した水晶塊前の広場に立ち、彼は彼方の戦場を睨んだ。


 公爵の視線の先―冷たい月の空は、俄に騒がしく―妖しく輝いていた。

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