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水縹に咲く二ロトパラ  作者: 山野悠太
第1部 1章『夢を渡る少女』
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2話 とある少女の不法入国

 これは、少し前の話。


「…さん」


  少女はぼんやりと、教室の窓から地面を見下ろしていた。何の変哲もない、寂寞とした校舎裏に、ゆらゆらと蒲公英が咲いている。蒲公英は、昨日も、その前も、そして今日も変わらず咲いている。どこにでもある、くだらない花。


「…沢さん」


  つまらない花ではあるが―しかし。例えば、この花の茎が太く大きく伸びて―どこまでも伸びて―そして、こちらに向かって倒れてくる。それを見ていた私は叫ぶのだ。『皆、()()()!』。


「夢沢さん!」


  夢沢渡里は、首都圏の進学校に通う女子高生。他人より少しだけ勉強と空想が得意な、どこにでもいるオタク少女。


「…はいっ?」


  ぐっと背筋を伸ばし、立ち上がって担任教師の呼び掛けに返事をした。担任のため息と共に、教室中からくすくすと押し殺すような笑い声が上がる。


「自分には関係ない、と思ってるでしょうけど。一応大切なのよ、こういう時間って」


  『心の健康』と書かれた黒板を、若い女教師はコツコツと叩いて見せた。去年二人も自殺者を出してしまったこの学校は、どうやら種々の団体から目をつけられているらしい。進学校としてはそれなりの実績があったとはいえ、『紐な市立バンジー高校』『GSARCHに特化した進学校』『飛躍の年』―などという不名誉なあだ名を、どうにか払拭したいのだろう。一学期に一回ほどのペースで、クラス単位のカウンセリングが催されていた。


「それで。夢沢さんは何か悩みがあるのかしら?」

 

「ええと…」


  彼女は、クラスメイトに注目されるまま、しどろもどろに話し始めた。本来、注目されることに慣れているタイプではない。


「…穴があったら、入りたいです」


  最近は友人とも先生ともディスコミュニケーション気味だ。しーんとしてしまったクラスの端で、彼女は隠れるように席に座った。


  そろそろ、夏も中盤だ。初めての期末試験、期待してくれている両親のためにも、渡里は恥をかくわけにはいかなかった。


「よし、やるぞ」


  机に向かって、ペンを執る。決められた課題、決められた予習範囲。誰かに規定されたタスクを、何も考えずにこなしていく日々。


  しかし気合いとは裏腹に、彼女の気持ちは沈んでいた。


  良い成績、良い進学先。両親には口が裂けても言えないが―本当はそんなもの、全部どうだっていいのだ。鉛蓄電池の化学式を覚えて―将来何の役に立つのだろう。


  誰にも言っていない、彼女の将来の夢。それは、小説家。そのような不安定な職業を口にした瞬間、両親や担任から袋叩きに合うだろう。それ故に、彼女は自分を押し殺し、毎日机に向かうのだ。そんな彼女だが、時折―自由な妄想の世界に行きたくなる。何もかもが決められた、鬱屈として抜け出せない毎日に、彼女は辟易していた。


『私の居場所はここじゃない』

 

  それが、彼女の口癖だった。


  本日分の課題を片付けると、彼女はスマートフォンを手に寝転んだ。ブルー・ライトの淡い光と共に、モバイル端末用のワープロ画面が開かれる。幾つかあるタイトルの中から、彼女は一つの物語を開く。


  どこまで、書いたっけ。


  渡里は、自身の妄想を認めたテキストを、さっと走査していく。一通り目を通した少女は、端末の前で指を空転させた。


  そうだ、不思議な世界に迷い込んだ女の子が、『逃がし屋』の男の子に出会うところまで、だ。


「続き、どうしようかな」


  色々な居場所、様々な『明日』。それは、退屈で不自由で逃げ場のない渡里を、色鮮やかな世界に導いてくれる―神聖な儀式。止まることなく流暢に―渡里は文字を滑らせていく。それは、まさに魂の漂流(ドリフト)。万華鏡のように広がる空想の世界を、彼女は活字の船で渡っていく。一番楽しくて、一番有意義で―一番素敵な時間。本当の自分に、隠れた欲求に、正直に。何に縛られず、誰にも指図されない。物語の海を駆ける『船長(さっか)』である間だけは、彼女は自由であった。


「それにしたって」


  少女は、キーボードを打鍵する手を止めた。少し不快なように眉を顰めて、彼女は物語の―最初のくだりを見つめる。トラック、トラック―或いは目が覚めたら、あとは、トラック。大体、トラックに轢かれている。テンプレ、王道と言えば聞こえが良いが、これではトラック運転手が異世界への水先案内人になってしまっている。


「代替案ってないのかな」


  息抜きがてら、渡里はネットサーフィンを始める。検索欄に書き込んだのは、『異世界』と『行き方』。そして彼女は目を引く記事に出会う。それはネット掲示板のまとめで、タイトルは『異世界に行く方法』。渡里はあまり期待せず、そのサイトを開いた。


  記事の中には、『如月駅』や『飽きた』など往年の大手掲示板系オカルトが列挙されていた。その中で渡里の興味を引いたのは、時空の隙間からエレベーターガールを召喚し、異世界に案内してもらう方法である。


「エレベーターガールって。昭和の文化じゃん」

 

  彼女はくすりと笑ってから、スマートフォンを枕元に放り投げた。明日も学校だ。夜遊びは、ここまでにしないと。


「…あ」

 

  シーツに潜り、電灯を消した直後。危ない危ない、と言うように、彼女はスマートフォンに充電ケーブルを繋いだ。神経質に見えて詰めの甘い渡里には、よくあるミスであった。


  月日は流れて、学期末試験。昨晩はしっかりと机に向かい、趣味の『漂流』も控えた。予習は十分、手応えも十分。しかし、渡里は知るよりもなかった。問題に付け加えられた一文を、うっかり読み飛ばしてしまっていたことに。


「夢沢、お前ちゃんと問題読んだか?次から気をつけろよ」


  五十九点の答案が返されたのは、英語のテスト。配点の大きな読解問題の先頭には、『次の英文における文法上の誤りを記号で答えなさい』、と書いてある。この簡単な問題―救済用の問一を英単語で回答し、四問を全て丸々落とした。畢竟、二十点の減点である。他にも問題を読み落とした結果、目標としていた九十点には、残念ながら届かなかった。


  因みに、六十点未満の点数を取ると補習となり、これまで成績優秀で通ってきた渡里にとって、これが初めての落第となった。クラスメイトに点数を冷やかされ、先生には釘を刺される。他の科目では八割以上の点数を取っていたにも関わらず、両親には滔々と説教され、彼女は気が滅入ってしまった。


  夕食後、彼女は逃げるように足を抱えて横になった。ぐるぐると、思考が反芻される。生真面目で自罰的な性格の渡里は、自分を必要以上に追い込んでしまった。


「消えたい」


  それは、誰もが抱える小さな願い。このまま、消えてしまえたら―。こんなに、嫌な思いをしなくても済むのに。それは躁鬱の様なもので、気持ちがプラスに入ってしまえば、即座に忘れてしまうものである。しかし、渡里の場合は、どんどんその思いが強くなっていった。あまりよく眠れなかった、翌朝。妖怪や宇宙人が往来を闊歩している夢を見た、その次の朝。彼女は日に日に空想に耽ける時間が長くなり、最近はずっと、『別の世界』―彼女が、『小説家』として活躍している世界―テストで赤点など取るはずもない世界の存在を、夢想していた。


「…沢さん?」


  もしも。もしも異世界に、行けたなら。テストだって何だって、思いのまま。魔力にステータスを振ろうかな、痛いのは嫌だし―防御力に振ろうかな。触れるだけで相手をやっつけてしまう、『チート』能力でもいい。先日覚えた鉛蓄電池の全反応式を披露して、羨望の眼差しで見られてもいいのだ。何にせよ、何にせよだ。


「…夢沢さん、聞いてます?」


  こんな、鬱屈とした毎日を過ごすことはないのに。


  『夏期講習に集中していない』という旨の電話に、母親が激怒した、ある夜のこと。ヒステリックに泣かれ、『貴女のためを思っているのに!』と激昂され、何もかもが嫌になった、夜。空を見れば、気味の悪いほど赤い月が、彼女を見下ろしていた、その真夜中。渡里は人生で初めて、門限を破った。自室には着替えがないので制服を着た彼女は、そのまま玄関から抜け出した。呑気に寝静まった両親は、娘の脱走に気がつく素振りなど微塵もない。


「ええと、まずは四階に」


  これは、ティーン・エイジャーの現実逃避。心を痛めた少女による、自暴自棄なひとり遊び。彼女は、自宅の高層マンションにて掲示板に書き込まれた手順の通りに、エレベーターガールの召喚を試みることにしたのだ。


  恐る恐る、しかし期待は段々強くなる。手順の通りに、エレベーターのボタンを押していく。そして、彼女は一階のボタンを押す。


  しかし。当然の事ながら、エレベーターガールなど現れようもない。掲示板の書き込みによれば『十階に上がっていくはずの』エレベーターは、指示通り五階から下に向かっていく。


「…何やってんだろ、私。バカみたい―」


  渡里は自嘲した。さっさと帰ろう。きちんと、現実に向き合おう。来週からは、ちゃんと夏期講習に参加するんだ。部屋のあるフロアのボタンを押そうと、彼女は決意に満ちた顔で、視線を上げた。


「…ひっ」


  エレベーターのボタンに、何かが映り込む。自分の影の後ろ、不自然に大きな黒い影。誰も、誰一人として乗ってきていないはずだ。恐る恐る、渡里は内装の鏡を一瞥する。小さな鏡に、女性らしき姿が映る。渡里は絶句して、呼吸を止めた。ゆっくりと振り返る。


 そこに、『ソレ』は立っていた。


「――。――――、―――――」


  それは、何かを口にする。水に濡れた獣のような、生臭さ。確かにそこに、顔があるのに―何も、人相が認識できない。真っ黒な瞳だけが、渡里を見据えている。


  渡里は口を塞ぐ。『エレベーターガールとは、喋ってはいけない』。それが、手順とともに記されていた絶対のルールだ。


  エレベーターガールは首を傾げる。刻一刻と、否、恐ろしい勢いで、エレベーターの階数表示が乱舞する。


『上に参ります。上に参ります。上に、上に参りま上に上にウエウエウエウエウエ』


  狂いだしたアナウンス。否、そもそもこのエレベーターに、アナウンスの機能は存在しない。音声ガイダンスを流すような機構を、このエレベーターは持ち合わせていない。


  恐怖に押し潰され、金縛りにあう渡里。エレベーターガールの毛深い腕が、渡里を掴む。内装が明滅する。目の前の光景が乱舞する。高級感のある白と金色を基調とした内装や、塗装もされていない質素な木製の内装。更には、枝を麻糸で繋げたような原始的な籠まで。それらは赤青緑の三色の光にずれたり戻ったりし、けたたましいデス・メタルのように苛烈に明滅する。余りの光の激しさに、渡里は意識を失いかける。平衡感覚が狂い、天地が入れ替わる心地がして―。


『ドアが開きます』


  間の抜けたベルとアナウンス。一拍置いて、扉が開く。渡里はエレベーターガールを振り払い、光の中に飛び出した。


「――。―――――――ー!」


  そして、黒い壁に衝突する。


「いたっ…」


  それは、壁ではあるが―ただの壁ではない。


「くぉら!いきなり飛び出しおって、何考えとるんじゃ!」


  身の丈三メートルを超える、塗り壁。直方体の身体に張り裂けんばかりのスーツを身にまとった彼は、渡里を怒鳴りつける。


「ご、ごめんなさい…!」


  気が動転した風で、渡里はその場から逃げ出した。どうやら、どこかのオフィスビルの中らしい。ガラス張りの部屋の間を、渡里は訳も分からず駆け回る。


「何してる、おいこら!」


「学生か?勝手に入るな!」


  制服は、そのままだ。まだ、エレベーターガールの匂いが鼻の中を回っているが、大丈夫。


  赤い鬼とグレイ型のエイリアンの静止を無視して、彼女はオフィスを飛び出した。そしてそのまま、大通りの喧騒に混ざる。


  大通りはまるで、SF映画のセットのよう。渡里はこの通りを知っていた―否、実際には似たものを、であるが―彼女が夢で見た異世界、そのものであった。背の高い三つ目の軟体動物が、不格好なビジネス・スーツに身を包んでいる。その横では、自身の股下ほどの背丈の小鬼が、こちらも糊のきいたスーツを着て歩いている。


「すごい!私、本当に…!」


  異世界に、来たのかもしれない。


  周囲を見回しながら、彼女は頬を抓った。痛い。この痛みはきっと、本物だ。


  周囲の人が振り返るほど―大きな歓声をあげた、渡里。そんな彼女を見つめる、影がひとつ。


  ふと気配を感じ、渡里は振り返る。まるで韓流のアイドルのような―背の高いセンターパートの男性が、涼し気な目元で微笑んだ。彼はくすりと笑うと、少女に小さく手を振りながら、路地裏に消えていった。


  渡里は恥ずかしくなり、目を伏せた。すうっと、大きく深呼吸をする。まずは、何をしようか。今夜の宿を探すがてら―教会でも探そうか。渡里は高揚する気持ちの赴くまま、大通りを駆けていく。

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