閑話 新しき、月世界の神へ
渡里は、明るい部屋で目を覚ました。かちり、かちり―と。無機質な、食器の音が響いている。彼女は猿轡を噛まされ、手足を拘束された上で、椅子に縛り付けられていた。混乱のあまり間抜けな声を漏らした少女に、怪物たちは微笑んだ。
「御機嫌よう。ワタリ・ユメサワ」
耐え難い悪臭に、渡里は目眩がした。白く清潔なテーブルクロスの敷かれた円環状のテーブルには、所狭しと料理が並べられていた。それらは地球人の感性からすれば、決して料理とは言えない悪辣で醜悪な品々であった。
「お初にお目にかかります。私のことは―『公爵』とお呼びください。僭越ながら、貴女に仕える下僕どもの代表を務めております」
ムーン・ビーストは個体名を持たない場合が殆どである。特に高位のムーン・ビーストは、役職で呼ばれることが通例であった。
背中の曲がった召使いに猿轡を外され、渡里は喘いだ。彼女の顔には、複数の器具が取り付けられている。金具で固定された口は渡里の意思で閉じることが許されず、彼女ははしたなく涎を垂らさざるを得なかった。
円卓には、公爵以外にも六人のムーン・ビーストが席を連ねていた。その中には、『ン=グィ』の首長の姿も見える。更には『幽閉機関月面支部』その局長までもが、この円卓に加わっていた。渡里は知りようもないが、彼らはこの月の裏側を実効的に支配する有力者であった。
「それでは、乾杯しましょう。我らの神の誕生に」
彼らは声を持たない。異種族と交流するときは、常にテレパシー変換器を持ち運んでいた。
渡里は知らない。自身の脳に、変換器がインプラントされていることを。
「いあ いあ!むのむくあ!」
彼らは赤褐色の液体が入った盃を掲げる。彼らは異端。ムーン・ビーストの歴史における、イレギュラー。月の邪神『ムノムクア』を崇拝する、邪教の一団。彼らは、自らをこう称していた。『月の狂気派』と。
「我らの神となる女性に」
ちぃん、と盃が音を立てた。
それはまさに狂気的で―そしてどこか美しい―しかし極めてごく一般的な、月の貴人の食事風景。調子の外れた、太鼓の音。必死に、あるいは反射的に奏でられるそれの正体は、『料理』の断末魔。
充血した目で、アジア人の男が唸る。猿轡を噛まされた口から、涎が垂れる。彼は、頭から『角』を生やしているように見える。V字に曲げられた金属板に、円筒状の細い柄。否、正しくは角では無い。頭に突き立てられているのは、この料理専用の『食器』。男性のぱくりと切り取られた頭蓋からは、薄桃色の内蔵が覗いていた。
『生きたまま』脳を啄まれる感覚は、果たしてどういうものなのだろう。月の獣たちに食器を突き立てられ、脳髄を掻き回される度に、男の体が跳ね上がる。発汗、痙攣、脱糞―射精。あるいは、喜怒哀楽。『基盤』に刺激が加わる度に、男の体は本人の意に沿わぬ反応を見せる。薄気味悪い蛞蝓達は、その反応を楽しんでいるようであった。
「んーっ!んーっ!!」
常軌を逸した光景に、渡里の精神衛生は忽ち決壊する。彼女は半狂乱になりながら、少しでもこの現実から目を逸らそうと必死に藻掻く。その様子に卑しい召使い―拷問吏は、嫌らしい笑みを浮かべていた。彼の手には、V字の器具が握られている。口に汚泥のような『食べ物』を流し込まれ、渡里は絶叫した。食道は焼け爛れたように熱くなり、強制的に開かれた彼女の瞳は、口の中に入れられたものを否が応でも認識する。
目の前に置かれた人間の顔には、渡里は見覚えがあった。忘れもしない、それは、彼女をここに連れてきた人間の顔であった。リウたち人攫いだけではない、同盟のメンバーを含めた見知った顔が、食卓に並べられている。
こんなことが、行われて良いはずがない。人間の倫理観に照らし合わせるのであれば、およそ知性体の行って良い行為では無いはずだ。食道を『汚泥』が抜ける感覚に錯乱状態に陥りながら、少女は走馬灯のように思考を巡らせる。
初めて、リウに会った時。ランの、温かい手に触れた時。
一口ずつ、一口ずつ。口の中に彼らの脳髄が注がれる度。憧憬や憎悪、様々な感情が湧き上がって、少女の心に混ざっていく。それは、剥き出しの神経を塩酸に浸されているような、耐え難い苦痛が伴った。
「うぷ…おえぇぇえ」
拒絶反応を起こし続けていた少女の体は、とうとう強硬手段に踏み切った。噴水のように吐瀉物を噴き上げた渡里を見て、蛞蝓達はご満悦であった。
「習合は羽化への第一歩です」
公爵の声が脳髄を侵す。神経を錯乱させた体が跳ね上がる。しかし、逃走は許されない。彼女は、受け入れるしかないのだ。自らの、呪われた運命を。
狂宴は続く。
生誕の儀式は近い。




