面識
そう呼ばれるのは久しぶりだった。
その言葉が脳内に届いても、しばらくピンとこなかった。それほどまでにその言葉は心の奥底に眠っていたのだろう。遠い遠い記憶だ。
雇い主が偽造した履歴書には偽名を使っている。名前は白谷和俊。
あの施設では収監者は常に一人でいて、声をかける相手といえば基本看守である。
収監者同士が必要もないのに集まり、交流するコミュニティは存在しなかった。
その看守たちも私たちのことは番号で呼ぶ。
私の本名を知っているのはごく少数。ありえない話だが、私がふとしたきっかけで口走る相手といって真っ先に思いつくのは龍興。だが、私の本名を呼ぶのは女性であった。
つまり彼女は私が施設に入る前からの知り合いだ。
それにしてもあの龍興に自分の本名を知られるのはなんだか不甲斐ない気持ちになる。
私はその女性の顔をよく見た。
彼女の顔と小学校の頃の記憶を照らし合わせたが、その後の記憶がトラウマとなって小学校の記憶などほとんどなかった。
「もしかして覚えてない?」
そう言われても、思い出せない。
「ええ〜と、どこかでお会いしましたっけ?」
「やっぱりそうなんだ。そりゃあ覚えてないか。石川棗」
「棗さんですか」
名前を言われても、脳内の検索は止まらなかった。
「本当に覚えてないのね、小学三、四、六年生と一緒のクラスだったでしょ」
「あ…」
なんとなく思い出した。
昔から静かで、相手が話しかけてこない限り、一向に口を開かなかった私と違い、彼女はいつでのクラスで明るく振舞っていた印象だ。成績も優秀でスポーツも万能だったのを覚えている。もし彼女がもっと陰気な性格だったら覚えていなかっただろう。
確かにあの強気な性格とボーイッシュな雰囲気は今と変わらないかもしれない。
しかし話したことがほとんどなかったはずなのに、なぜ彼女は私のことを覚えていたのだろう。
「小学校の最後突然姿消しちゃって、みんな悲しんだんだよ。引っ越すんだったらもっと早く言ってくれれば寄せ書きとか書いたのに」
そうか、家族には交通事故と理由つけていたが、学校には引っ越したと言っていたのか。
まあ、交通事故にあったなんて学校に伝えても後始末が大変だしな。
「でも、こんなところでまた会うなんて運命かもね」
女性は微笑んだ。
「あ、はい…」
「相変わらず、無口なの?」
「はいまあ」
覇気のない返事を何度も言った。人と会話するのはやはり苦手だ。相手と話を合わせるのは疲れる。
「でもその様子じゃあちゃんと働いてるんだね。ってなんか失礼な言い方になっちゃったね」
「あ、いや」
”ちゃんと働いてる”…無口な奴は無職になりやすいのか。それにしても女性とはどう接していいかわからない。
「あ、もしかしてここが克くんの住んでるところ?」
「はい」
「へえ、いいところ住んでるんだね」
この社会に出て学んだことはたくさんあるが、その中でもめんどくさいことその一、社交辞令。もしかして家に来る気か。
「ねえ、連絡先交換しよう」
「え、あ、はい」
断れず、私は雇い主から支給された携帯電話を取り出した。
「やだ、三人しか連絡先登録してないの?」
「は、はい」
「じゃあ、私が四人目だね」
棗はにっこりと微笑んだ。
私は恥ずかしさからなのか目線を外した。昔は何でも拒絶してたはずなのに、この社会に出て来たらイエスマンになっている自分。自分が無力なのを改めて思い知らされて下手に出るようになった自分。完全にこの競争社会に飲み込まれている。情けない。
「よし、ごめんね。疲れてるのにこんなところでとどめちゃって。また、連絡するから」
そう言って手を振りながら帰って言った。
私も手を振り返した。
そうか、私を知っている人がまだいたんだと、また嬉しくなった。
これも承認欲求だろう。
きっとこれからもっといろんな人と交流して普通の人としてこの社会に順応していくんだろうな。




