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1 グレン

 母の葬儀を終えても、幼かった僕は母がいなくなったことがちゃんと理解できていなかった。

 家に戻れば、母がいつものように「お帰り」と行って、笑って迎えてくれるような気がして、ずっと待っていた。何日も何日も待ち続け、その笑顔が永遠に失われたのだとわかるのに、一ヶ月以上の月日が必要だった。

 待っても待っても現れない母に、僕は家を飛び出し、近くの馬小屋でうずくまって泣いていた。すぐそばで一緒になってしゃがみ込み、黙って頭を撫でてくれたのは幼なじみのミーアだった。

 ミーアは手に持っていたクッキーを僕に渡してくれた。クッキーは、ほんのりとメープルの味がした。

 母のことは何も言わず、泣くなとも、元気を出して、とも言われなかった。そして僕が泣き止むのを待って、いつものように一緒に遊んでくれた。


 一年もしないうちに、父は新しい母を迎え、仕事も変わってこの町を出て行くことになった。

 ミーアにそのことを話すと、手にしていたクッキーを全部くれた。

 一つかじると、いたずらをするかのような目をして笑った。

「そのクッキーには『びやく』が入ってるんだよ。だから、もう私のことを、忘れられないよ」

「『びやく』って何?」

「…忘れられなくなるお薬だって」

 そう言って、僕のほっぺにキスをして、さよならも言わずにミーアは走って行ってしまった。

 その後、僕がこの町に戻ることはなく、ミーアに会うこともなかった。


 父の再婚相手は商人の娘で、父は小さな会社を任されて、順調に業績を上げていた。大きな街で僕は特に不自由することもなく、新しい家族ともなじみ、昔のことは忘れていった。

 父は忙しく、あまり家にいなかった。母は少し遠慮しながらも、「家の子供」として僕と接してくれた。


 やがて妹が生まれた。母は変わらず僕を家族として接してくれていた。だけど、僕は「家の子供」であり、妹は「母の子供」だった。僕も本当の母ではないことが判っていたので、例え妹の方をかわいがってもそれは当然のことで、それ以上を望むのは過ぎたことだと思っていた。

 妹のことは大事にしたつもりだった。でもそれは、自分を守るために大事にしていたのかも知れない。

 時々わがままを言う妹が、僕は怖かった。

 あんなに愛されていながら、どうして僕のおもちゃまで取るんだろう。どうして僕の本まで奪うんだろう。そして、全て渡しても泣きながら母に愚痴をこぼし、僕が悪いという。僕が妹に譲らなかった物なんてないのに。

 母はそれを知っていて、僕を叱らなかったことが救いだった。でも妹を怒ることもなかった。そのせいか、僕は女の子を、女の人を怖いと思うようになっていた。


 シティの学校に通うようになり、友達もできて、それなりに楽しく暮らしていた。成績は二百人中の三十番前後、とまあ悪くない。大きな心配事もなく、学校を出れば父の後を継いでそれなりに過ごすんだろう。そんな軽い気持ちで気楽に生きていた。


 高等部の一年の途中で、転校生が来た。

 昔住んでいた町にいたミーアだった。

 その姿には、全く昔の名残はなかった。つやつやと光り輝いていた金の髪はきっちりと編み上げられ、冷たげなめがねをかけ、何を食べて育ったのかひょろりと背が高く、クラスの男子の三分の二はミーアを見上げていた。僕でさえ、同じくらいだろう。

 着ている服はちょっと流行遅れで、似合わない物を少し無理して着ているような、ぎこちなさがあった。町では比較的裕福な商家の娘だったけれど、都会に来るとやはり垢抜けない。かつて住んでいた町が田舎だったことを見せつけられたようで、少し落胆した。

 そんなに様変わりしているのに、どうしてすぐにミーアだと判ったのかは、自分でも判らなかった。

 成績はかなり上位で、隙がなく、あまり笑うこともなく、女の子同士でつるむこともない。終業の鈴が鳴ると、大抵さっさと帰ってしまい、誰かと一緒に帰ることもない。

 そんなミーアに僕も特に話すことはなく、距離を置いていた。課題で一緒の班になっても、お互い顔を見ることもなく、話しかけることもなかった。


 ミーアが最後にくれたあのクッキー。「びやく」が「媚薬」のことなら、僕はきっと恋に落ちていたはずだ。だが、別れた後も、今こうして再会しても、幸いにもそんな感情は全く沸かなかった。

 媚薬なんてあるわけがない。仮にあったとしても、幼い子供が手に入れられるものか。


 僕は高等部で何人かの女の子と付き合い、いずれも特に大した理由なく別れた。

 好きだと言われて付き合いをはじめ、やがてあっさりと他に好きな人ができた、と言われて別れたり、何かを忘れたことを責められ、それっきりになったこともある。さよならと言ってそれで終わり。実にあっさりしたもんだった。

 そのうちまた女の子に告白されて、それじゃあ、と付き合うことになった。

 じゃあね、と笑顔で去って行く姿に手を振り、特に意識せず溜め息をつくと、渡り廊下をミーアが歩いていた。ふと目が合うと、向こうが先に目をそらした。ツンとすました顔が去って行くのをただ見ていた。

 彼女になった女の子とは図書館で一緒に勉強をしたり、街に出て買い物を楽しんだり、よくあるように過ごしていた。腕にしがみつかれ、夕暮れの湖畔の公園で求められるままキスをして、相手が顔を赤らめてもドキリともしないまま、笑みを浮かべる。

 そのうちに、ちょっとしたことが原因でギクシャクし始めると、面白くない人だ、と言われ、好きと何度も言わされ、そのくせ心がこもってないと言われてもそれが事実だからどうしようもない。

 やがて、見切りをつけられて去って行っても、寂しいとも思わない自分がいた。

 欲しいものだけ持っていって終わり。女の子なんて、そんなもんだ。


 二年生も終わる頃、ミーアが転校するという噂を聞いた。本人は全くそんな素振りも見せず、いつも通りに過ごしている。

 何の気まぐれか、僕は自分からミーアに声をかけた。自分でも、何でそんな気になったのかが判らなかった。

「転校する前に、シティのいいところ、教えてやるよ」

 そう言って週末の予定を聞くと、空いていると答えた。


 週末に教会の塔の下で待ち合わせをして、まずは街中の評判の店を回った。

 初めは教室同様、にこりとも笑わない顔でいたミーアが、女の子が好きそうな小物を売っている店や、お菓子の店などを巡るうちに、キョロキョロと目を動かし、時々じっと見ては少し俯き気味になり、ぷいっと目をそらせた。

 視線の先にあった、小さな銀色の花のついた髪留め。きっと髪に映えるだろう。

 気がつかれないように買って、ポケットに忍ばせた。

 店のある通りを抜けると、北にある公園に行った。この季節は池の畔に白いカラーが咲く。僕らが昔住んでいた町にも同じようにカラーが咲く水辺があった。

 それを見て、ふと緩まった表情が、昔のミーアを思い出させた。

 何故だか心の奥がずきんと痛んだ。


 この学校にいた記念に、と、さっき買った髪留めを渡した。

「こんな…。もらえない」

「いいから」

 無理に手渡して、触れた手に心臓が弾んだ。

 あの媚薬は、触れたら効果が出るんだろうか?

 どんなに他の女の子と手を触れても妙に冷めているのは、あの時口に含まされた薬のせいなんじゃないか、ふとそんなことを思った。

「ありがとう」

 小さな声で礼を言い、そっとそらせた目がすましているのではなく、照れているのだと判った。ミーアは包みを開けることなく、渡したものをそのまま鞄にしまった。開いて、喜ぶところが見たかった。きっと気に入ってくれると思ったのに…。少し残念だった。


 日暮れも近くなり、そろそろ帰る時間になった。

 ミーアは、持っていた鞄から何かを取り出した。

 それは、一包みのクッキーだった。昔、一緒に食べた、あのクッキーだ。

「これ…。グレン、好きだったよね」

 覚えていたんだ。

 一年半、あまりにも素っ気なくされて、別人かも知れない、とさえ思った時もあった。だけど、ミーアはやっぱりあのミーアだった。

 リボンをほどくと、あのメープルの匂い。

 一枚食べた。

 あの味だ。媚薬が入っていて、忘れられなくなる、あの…

 何をとち狂ったのか、気がついたらミーアの腕を引き、唇を重ねていた。ほんの一瞬だった。

 次の瞬間、僕は左頬に平手打ちを食らった。

「グレンのばかっ。女がみんなそんな軽いもんだなんて思わないでよねっ」

 そう言って、走って行ってしまった。

 自分でも、何であんなことをしてしまったんだろう、と、後悔した。

 望まれもしないのに、自分からキスすることなんてなかった。

 あの媚薬のせいだ。あの匂いのせいで。

 そうやって自分を正当化しようとしているのが自分でも判って、嫌な気持ちになった。


 もらったクッキーの袋には、手紙が入っていた。



 グレンへ


 今日は誘ってくれてありがとう。

 懐かしいと思っていたのに、ずっと声をかけられなくて、ごめんなさい。

 あなたがすっかり立派になったのに、私は落ちぶれてしまって、でもそれをあなたに言われたくなくて、意地を張っていたのかも。

 私は、とある男爵様と結婚することになり、勉強を続けることができなくなりました。

 明日、シティを離れます。

 その前に、昔みたいに、もう一度話す機会を与えてくれたことに感謝します。

 このクッキー、懐かしい味がするでしょう?

 昔おばあさまに、特別な味のするものを同じ人と何度も繰り返し食べていると、それを食べただけで自然とその人を思い出すようになると聞いたのです。メープルシュガーの独特の香りと味できっと素敵な秘薬になる、と。

 この味を口にして、あなたが昔の思い出を忘れないでいてくれると嬉しい。

 あなたと遊んでいた頃の私が、一番幸せだったから。

 さようなら、お元気で。



 秘薬…。媚薬じゃなくて…。

 子供の耳で聞き違えて、意味を知ってからずっと誤解していた。

 この味を言い訳に、大切な幼なじみを傷つけてしまった。


 ミーアとさよならしたあの日から、僕はいつも諦めていた。

 父は新しい母のもの。母は妹のもの。裕福になったのは新しい母と父の力。集まる女の子が見ているのは家の力。

 小さいなりに家族の機嫌を伺って、薄笑いを浮かべて、表面だけ取り繕って、でも自分のことを見てくれる人なんていやしない。勝手にそう思い込んでいた。自分が大した努力もしないままに。

 自分が寂しかったことにも気がつかなかった。


 次の日から、もうミーアは学校に来ることはなかった。

 どこに行ったのかもわからない。


 僕は、ちゃんと本気で勉強をすることにした。まだまだ伸びしろはあった。

 近寄ってくる女の子の話を聞き、適当に付き合うのをやめたら、誰とも付き合わなくなった。

 母や妹には、変わらず適度な距離をとりながらも、家族として少しだけ他の人より親しみを持っていることを示すようにした。

 そして、卒業をしたら家を離れ、父の知り合いの商家に住み込みで働き、下積みからはじめた。


 時々、メープルの味のするお菓子を口にすると、そのたびに思い出すのはミーアのことだった。

 秘薬の効果は絶大だった。


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