#45 心臓に粘りつく感情
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火孁が金剛寺に襲撃された直後。
薄暗い灰色の空の下で、白夜たちがその場所についたころにはポツポツと雨が降り始めていた。
赤い血溜まり。その中心にいる少女を白夜が知らないわけがなかった。
「火孁!」
字の背中を追い抜いて、白夜は仰向けに倒れていた火孁へと近寄る。
そして白夜は、腕の欠損によって血だまりができた彼女のすぐそばで膝をついた。膝に嫌な生温さを感じながらも、その手で彼女の肩に触れようとするが、片方がない現実を前に白夜の動きが止まる。
――自責の念で、白夜の動悸が加速した。
胸の鼓動が重く湿っているような気がする。四肢へ伝達されるはずの酸素が胸骨あたりで突っかかって、返ってきた二酸化炭素と混ざり、心臓に不協和音をぶちまけているような気持ち悪さが白夜を襲った。
森のさざめきの中で、微かに聞こえる火孁の過呼吸が白夜の耳に重くのしかかる。
彼女の黄色の瞳がいやに霞んでいた。顔色が悪く見えるのは暗い天気のせいではない。白い着物が土と血で汚れ、片腕と共に千切れた不揃いな袖の断片が妙に生々しかった。
「……んな顔するなよ……白夜」
かける言葉も見つからず、ただ膝をついて火孁を見ていた白夜に、火孁は残っている右腕を上げる。その小さな手で白夜の頬に触れた。
それにはいつもの暖かさが感じられなくて、白夜の鼻の先がキューっと冷たくなった。胸も締まって、不意に背中が重くなる。視界がぐわんと遠ざかっていくような感覚を覚えながら、今更気温の低さに嫌悪感を抱いた。
ぽたり、と火孁の汚れてしまった巫女服の上に大粒の雨が降り出した――否、それが自分の瞳から零れ落ちたのであると知るや、さらにそれはあふれ出た。
白夜は自分がどんな顔をしていたのか今まで分からなかったが、この時初めて自分がどんな表情をしていたのか何となく察せた。そして改めて、目の前の事実を実感する。
「……痛い?」
背後から字の声がした。字は膝をつく白夜の隣に立つと、火孁を見下ろした。彼女の長い髪がゆらりと垂れる。
「――かなり削られてるね、火孁。貴女は貴女のことだけを考えて、今は寝てなきゃ。気配りは嬉しいけど、今この状況でそれは邪魔でしかないよ。……たった一つの命、零れ落ちたらどうすることもできないからね?」
「は……ァ……流石我が主……お見通しだ……。襲って、きたのは……はァ……ぁ、金剛寺、といったか……。容姿は――」
「……」
力なく笑う火孁だったが、その口をしゃがんだ字の白い人差し指に遮られた。思わず口を閉じる火孁に、字はじっと見つめて言った。
「――大丈夫。今は何も考えなくていい。ただじっと、静かに目を閉じて」
字の言葉は頭の中にゆっくりと浸食し、気持ちよく溶けていくような音色であった。目を細めた彼女に火孁は目を見開いて、彼女の人差し指を無視して白夜の方へ視線を移す。
「白夜――お前の……」
火孁が白夜へ何かを言いかけるも、それは最後まで続かなかった。火孁の瞳から力がなくなると、首の力が抜けてその顔が横になる。地面に頬がついてしまうよりも先に、字の手が彼女の頬を優しく受け止めた。
その火孁の様子はぷつりと糸が切れた人形のようだった。字の手腕により眠った火孁を前に、白夜は顔を上げられずにいた。
「……俺の、せいか」
白夜は吐き気と共にぼそりと言葉を吐く。彼の首の後ろにしとりと冷たい雨の粒が落ちた。
「俺との手合わせのせいで、火孁は……。もし万全だったら、こんなことにはならなかっ」
「ま、そうかもね」
白夜の言葉を遮るように、字は軽い肯定を口にした。意識を失った火孁を抱きかかえると、ゆっくりと立ち上がる。
もう血溜まりに火孁はいないのに、白夜は下を向いたまま動かない。
そんな彼を字は上から見下ろし、そのまま続けた。
「確かに、火孁が万全だったらここまで状況は悪くなかったかもしれない。君を鍛え上げるため、火孁は霊力を落としていたからね」
白夜が自責を感じているのも、その部分が大きかった。
火孁はわざわざ白夜と手合わせするために、自らに枷をつけることで、霊力、すなわち能力を白夜と並ぶ程度に低めていたのだ。
能力値を同じぐらいに下げたとしても、手合わせの結果が五分五分に変わるわけではない。火孁には白夜にはない戦闘技術がある。それを下から見上げるのではなく、同じ目線から見て体験することで、白夜の成長を促そうとしていたのだった。
「……どんな顔をして、目覚めた火孁と顔を合わせればいいんだ……」
白夜はぎゅっと固く拳を握り、しかしすぐにそれは解かれる。力が行き場を失い、その場で霧散していった。
そんな白夜に字は躊躇もなく言ってのける。
「――自責なんてそんなものだよ」
字は瞳を細め、そのまま続けた。
「君が責任を感じるのも分かる。だけど、それは"君のせい"であることを証明することにはならないよ。そもそも、火孁の霊力を格下げしたのは我だ。我がそんなことをしなければ、こうはならなかったかもしれない」
字の言葉を聞いても、白夜は顔を上げることができなかった。責任の所存が字にもあるとしても、白夜自身が持つ自責が消えるわけではないのだ。
しかしそんな白夜のことなど字は分かり切っていたようで、様子が変わらない白夜を気にもせず字は次の言葉を紡いだ。
「だけど、火孁は自責を感じる我たちを責めたりはしてない。それどころか、不器用なりに気遣いまでかけてきて……瀕死のくせにね。分かるかな、その時点で我たちの自責は自己満足の産物になっちゃってるわけだよ」
「自己……満足……?」
ピクリと白夜の肩が揺れた。それを見た字の口元が微かに綻ぶ。
「そう、優しい自己満足さ。それが不要とは言わないし、それがあってこその我たちなんだけどさ。ま、大事なのは自分に潰されないことよ」
「……」
白夜は瞳を細め、火孁がいなくなった血だまりの地面を薄く見つめた。
ようやく冷静になってきた頭で、火孁の事を考えてみる。
白夜は火孁とは長い間、共に生活をしてきた。それは字と火孁の二人の付き合いに比べれば短いのだろうが、それでも少なくとも白夜にとっては長い時間であることには変わりがない。
それこそ、自分を捨てた親の顔を忘れてしまうぐらいには、火孁、そして字との生活が白夜にとって人生の軸となっていた。
短いながら、今までの覚えている人生のほとんどを彼女らと過ごしたのだ。だから白夜は、字や火孁の趣向や考え方をある程度は推測できる。
――火孁はそう簡単に白夜を切り捨てることができるほど、器用ではない。
立ち上がる白夜に、字は背を向けて言う。
「そもそも、誰が一番悪いかなんて明白でしょ?」
「誰が……?」
「そう、簡単なクイズだよ」
腕に抱いた火孁に頬を近づけ、その苦しそうな寝息を感じながら、字は静かに、しかしはっきりと告げた。
「私の家族の腕を切り捨て、我たちに喧嘩を売った奴のことだよ。いずれ、この三人の内の誰かが奴と巡り合うことになる。その時は――」
岐路に向けて字は足を踏み出した。かさかさと地面の草木を踏みつぶしながら、ゆっくりと歩む字の背中に、白夜は息を呑む。
「己の気持ちに従って、心行くまで歓迎してやろうじゃないか」
――その後。白夜たちはそのまま字の住居の一つである、とある隠れ家の一室に戻った。
腕を千切られた火孁をすぐさま治療しなくてはならない。しかし火孁を診てもらえるような場所はそれ相応のリスクがあるので、今この場合は字が彼女の面倒をみることになる。
「……火孁、ごめんね。どれだけ痛くて死にたくなって叫んでも、我は辞めないから」
自室のベッドに火孁を寝かせた字は、そう言って火孁の千切れた腕の断片に手をかざした。
「――ああぁっぁああああああ!!」
ギギギ、と火孁を乗せたベッドが揺れる。白夜も聞いたことがないような、喉の奥底から戦慄く火孁の叫びが、狭い部屋にドス黒く響き渡った。
彼女は目を見開き、残った右手で布団のシーツを握りしめて、あがいた。苦しみから絞られた汗をまき散らしながら、その叫びを自ら閉口して抑えようとさらにもがく。
その姿を白夜は、同じ部屋の隅で座って見ていた。とてもじゃないが、必死に彼女のそばに立って治癒行為を行う字の隣で立つ勇気は白夜にはない。
天井の電灯はついていなかった。机のそばに淡い蝋燭がたてられているだけで、部屋の中は少々薄暗い。蝋燭の明かりがもがく火孁の影を壁に映し出し、あがいた火孁の衝撃が蝋燭の火を揺らす。
白夜はそれを膝をかかえてじっと見つめていた。別にこの光景を見ていろと命令されたわけではない。だが、これを見ておかなければいけない義務感が白夜の中に渦巻いていた。
誰が為の自責だ。白夜の中にあるものは白夜自身の自己満足に過ぎないのか。
答えは分からないけれど、白夜の行動が巡り巡って火孁を苦しめていることは確かだった。なれば、その苦しみを代わることはできなくても、せめて見届けるぐらいはするのが筋であると白夜は判断した。
火孁の体が反って跳ねる。その火孁の体を字は押さえつけると、素早く額の汗を拭いて再びその腕を火孁へ持っていく。
白夜の体は火孁と違って五体満足だ。けれど、痛かった。
何もできず、苦しむ彼女を見ているだけの自分が、くだらなくて、小さくて――その上、目の前の光景から、火孁の苦しみから目を背けたくて仕方がない自分が嫌だった。
白夜は火孁を見る目だけは背けず、座ったままうずくまる。腕に口元を埋めて、その中で言葉を吐き出す。
「……金剛寺」
火孁の口から出てきた人名。そいつが、火孁の片腕を千切った人間。その名前を想起すると、それに付いてくるように字の言葉までもが頭に響く。
『私の家族の腕を切り捨て、私たちに喧嘩を売った奴のことだよ。いずれ、この三人の内の誰かが奴と巡り合うことになる。その時は――』
――その時は。
「金剛寺……!」
白夜はぎゅっと拳を握りしめた。体内に渦巻く、熱くて喉のすぐ上まで逆流してくる胃液のような何かが、握る拳をさらに硬化させる。
――その"何か"は、恐らく"怒り"だった。
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