#1 続く世界
平成三十六年。令和の風が吹き荒れなかった世界。
濃い錆色の髪をした高校生――陌間 白夜はアパートの一室にて、インスタントで作ったアイスコーヒーをスプーンでかき混ぜていた。
時刻は午前十時。そして今日は平日である。普通の高校生ならば学校で勉学に励んでいるはずだが。
「……ふわぁ」
白夜という男はそんな気など全く起こそうとせず、呑気にあくびをしていた。彼からは全く持って登校するような気概は感じられない。
ミルクも混ぜ終わり、白夜は完成したコーヒー片手にソファーに腰を落ろす。ベランダの窓から見える空はいやに蒼天で、白夜は目を逸らした。
同年代の学生たちは将来のためにいそいそと学校で机に向かっているのだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら、白夜は一口コーヒーを含むと、それを目の前の机に置いてソファに背中を預ける。
ぎしりと軋むソファ。
静かな時間が穏やかに流れていく。
その雰囲気に白夜は再び微睡みそうになって、重い瞼をゆっくりと閉じた。意識は途端に夢の中へ誘われ――、
そうになったところを、ガン! という大きな音が引き留めた。
突然の大きな音に少しびっくりしながらも、折角の気持ちの良い眠りを妨げられた白夜は少々穏やかではない。あの音はベランダの窓から聞こえた気がする。
「……窓に何かぶつかったのか」
音のせいですでに眠気は覚めてしまった。仕方ないので音の正体を探るべく、ソファーから立ち上がる。
その足で問題の窓に向かったところで、ひょっこりと見覚えのある顔が窓の端から出てきた。
その顔には白夜はとても見覚えがあった。忘れるはずもない顔。
「火孁……?」
白夜が目撃したのはベージュのは短髪に黄色の瞳をした少女――火孁。それが彼女の名前だった。
ベランダにてどこかにぶつけて赤くなった額をさすっている火孁を見て、白夜は息を呑む。何故なら、彼女は本来ここに現れるはずがない人物なのだから。
白夜があっけらかんとしている中、火孁がそんな白夜に気づく。涙目の火孁は窓に手を伸ばすと、ガリガリとかきはじめた。
「……あけろぉ……」
突然のありえない訪問に白夜は立ち尽くしていたが、彼女の声にハッとして我に返った。
「……爪とぎするネコかお前は」
白夜はため息混じりに窓に手を伸ばす。ここで窓を開けず、窓越しで悔しそうに白夜を見つめてくる火孁はそれはそれで見ていたかったが、白夜はおとなしく窓を開けた。
ふわりとカーテンが舞い、それと同時に火孁もベージュ色の髪をたなびかせつつ入ってきた。白い素足が露見するのをみるに、どうやら靴を履いていなかったようだ。だからといって、足の裏は汚れていない。
火孁は上は巫女服のようなものに、下はミニスカートというよく分からない格好をしていた。それらを揺らしながら火孁はそっぽを向く。
「勘違いするなよ……着地ミスって窓に頭をぶつけたとかじゃないからな……」
「窓に頭をぶつけたのか……」
そもそも窓から入ってくる時点でどうなのだろうか。白夜の頭にそんな考えが過ったが、火孁とは久しぶりの再会なのでここは黙っておくことにした。
「随分と……綺麗な部屋じゃん」
ペタペタ。火孁は白夜の部屋を見渡しながら、ちょこちょこと歩き回る。白夜はそんな彼女を横目で見つつ、とりあえずベランダの窓を閉じた。
「まぁな。特に置く物もねぇし」
「……」
白夜は火孁にそう返し、気を取り直して再びソファーへと腰をかけた。それから机に置いていたコーヒーを飲む。
白夜が火孁から視線を離したところで、火孁は頭痛薬や鼻炎薬が幾つか並んだ棚の前まで歩いて止まった。
棚の表面には薄く埃がついていて、火孁は人差し指で表面を撫でる。撫でた人差し指が灰色に汚れた。指で撫でたところだけ表面が綺麗になっている。
それは、棚に埃が被るほどには掃除をしていないという証拠だった。
「……腑抜けめ」
ぼそり、と火孁は小さくぼやく。彼女のその声は白夜の耳には入らないほど小さく、舌打ち交じりの苛立ったものだった。そしてその表情はさっきまで見せていた幼い少女のそれとは異なり、とても苦々しいものになっていた。
白夜はコーヒーをまた一口飲むと、火孁へ視線を移して言う。
「で、お前は一体何をしにきたんだ?」
火孁が振り返る。その表情には先ほどの苦々しいものはない。
火孁は白夜の瞳をじっと見つめながら、淡々と報告した。
「主が死んだ」
「……え」
それは突拍子もない訃報。しかし火孁が言う"主"のことは白夜もよく知っていた。白夜は目を丸くしつつも、半ば納得して顔を上げた。
その後、短い沈黙が流れる。
「……そうか」
ソファーがきしむ音が静寂を際立たせる。膝の上で手を組んで、白夜はどこか寂しそうに遠い目をして言った。
「字さんが……」
火孁が"主"と呼んだ存在――その名は字。実質的な白夜の保護者であり、白夜が住むアパートの一室も彼女から譲渡されたものだ。掴みどころのない人物で、数年行動を共にしていた白夜ですら、その本性や出自には謎が多い。
字とは二年前のある事件以来、白夜は会っていなかった。その事件後に彼女は火孁をつれて、白夜の前から姿を消したのだ。その時、字は白夜にも手を差し伸べたのだが――。
白夜はその手を取れなかった。
「……そうか」
白夜はソファーから立ち上がった。コートラックからコートを手に取り羽織ると、玄関へ向かう。
火孁はため息をつくと、白夜と代わるようにしてソファーに座った。そのまま白夜が机に置いていった飲みかけのコーヒーを飲み干して、背もたれに腕をかける。
それから火孁は家を出る白夜の後ろ姿をを横目で見て、軽く鼻で笑った。
「くだらなくなったね、君」
「……これが本質だ」
白夜は反射的にそう答え、玄関の靴を履いた。痛みきったその靴は白夜の足によく馴染む。
人間が死に際にたつと、その人格の本質が染み出るという。以前何かしらの本で読んだ覚えがあった。白夜は玄関のノブに手をかけながら、二年前の事件以来何度も頭の中で反芻させたその一節をまた想起していた。
二年前の事件――妖星墜落。
二年前、突如として東京都の天空に浮かび上がった衛星、"軌骸妖星イデア"。数週間にも及ぶ時間のもと蒼天に浮上していたそれは、ある五人の手によって太平洋に墜とされた。
その一連の事件を関係者は妖星墜落と名を付け、呼んだのだ。
そしてその事件は、白夜の未来を腐らせた。
「俺は、字さんみたいにはなれなかったよ」
玄関の扉を開けながら、白夜は小さくぼやいた。それが火孁の耳に入ったとは到底思えない。白夜は扉の先からあふれ出た、憎らしくも存在する青い空の光に目を奪われながら、コートのポケットに手を突っ込んで宛てもなく歩き出す。何となく、外の空気を吸いたくなったのだ。
アパートから出て、歩道を歩いて、色んな人とすれ違って、行き違う車の騒音を聞いて、変わらない空のもとで、何も変わらず進んでいく時間と世界の中で、白夜は静かにぼやいた。
「今日も世界に置いていかれた気分だ」