守護の一歩 その二
翔とマルティナが激闘の末にお互いを分かり合っていた頃、どことも知れぬ荘厳な屋敷、その屋敷の軒先で、真夏だというのに咲き乱れる梅の花を眺めながら、口元に酒を傾ける大男の姿があった。
大男の隣には鎧を身に着けた美丈夫が腰を下ろし、同じように勧められた酒を手に取り、一息に飲み干す。それを見て、大男は笑いながら手を叩く。
それが合図だったのだろう。質素でありながらも素材の良さが感じられる立派な着物に身を包んだ姫野が、徳利に入った酒を盆に載せ、二人に向かって恭しく、三つ指を立てて頭を下げる。
彼女は、一カ月前の悪魔との激闘で使用した魔法の代償によって、神々の元へと奉仕に赴いていたはずだ。その期日内の出来事であるとするならば、彼女の恭しい態度を向けられる二人の正体はおのずと絞られてくる。
そう、この二人の正体は、武速須佐之男命と倭建命。姫野が悪魔を討伐するに至った魔法の力を貸し与えた、一番の功労者だったのだ。
「ずいぶんと侍女働きが板についてきたじゃねぇか。今日で勤めが終いなんて、寂しいもんだ」
大男、武速須佐之男命は、姫野が持ってきた徳利をさっそく受け取り、升に注ぐ。その豪快さの中には、切り取って額縁に飾ってしまいたいと思うほどの洗練された所作も持ち合わせていた。
「先住の皆様のおかげです。けれど、失礼を承知でお聞きいたします。私のお勤めは、本当にこれだけで良かったのでしょうか?」
神からの素直な賞賛に、謙遜で返す姫野。彼女がこの超常の空間でお勤めを始めてから今日でちょうど一か月、雷の剣を使用した代償の清算が終わる日だ。
今日が終われば、次にこの場に足を踏み入れられる日がいつになるかわからない。そこで姫野は、この地で働き始めた頃から抱いていた疑問を、神に向かって口にしていた。
彼女の疑問、それは武速須佐之男命に命じられたお勤めが、あまりにも普通過ぎた事だった。
一般的に、人間が神の御許に呼び出された時の用件など、嫁になれだの、生贄になれだの、現世に降りる器になれだの碌な要件ではない。
姫野自身も、武速須佐之男命から、多少条件は緩くなるだろうが、そのいずれかに近いことを命じられると思いながら、この神域に足を踏み入れた。
しかし、命じられるのは屋敷の掃除だの、酌係だの、大変名誉なことだが言ってしまえば雑用ばかり。そんな日々を過ごすうちに期日の日が訪れてしまった。
この程度のお勤めが、雷の神剣を振るう代償に果たして相応しいのか。そう言った疑問も含めて、姫野は武速須佐之男命に質問したのだ。
「なんだ?嫁の座でも狙っていたか?」
姫野の質問に武速須佐之男命は、悪戯っぽい笑みを浮かべて聞き返す。
「いえ、侍女の分際でそんな恐れ多いことを考えるわけがありません。ただ、侍女仕事であれば、私でなくとも神祈派の巫女の方々から選出すればよかったはずです」
「やなこった。あいつらは、何でもかんでも拡大解釈しやがる。ミシャクジの野郎なんて、不要な生贄で住処を荒らすなという意味を込めて、現世に天罰を落としたというのに、奴らは勘違いしやがったせいで、あいつの住処は余計に血肉まみれよ。俺達はニンゲンじゃねぇ。けれど、心が無いわけでもねぇ。下心丸見えで、仰々しく敬われるくらいなら、てめぇみたいに不愛想なくらいが肩肘張らずに済んでちょうどいいんだよ」
「それでも初めは、我も武速須佐之男命様も何かしらの重い代償を取り立てておこうかと思っていた。神々が文字通り、一人の女子の尻を追いかけて、いいように転がされている現状に何も思わないわけではなかったからな」
ここで初めて、武速須佐之男命の隣に腰を下ろしていた鎧武者の美丈夫、倭建命が口を開いた。
「ならどうして、その代償を取り立てなかったのですか?」
元々は何かしらの代償を取り立てるつもりだったと聞かされてしまえば、姫野としては疑問が深まるばかりだ。無礼は承知で、二体の神へと質問を重ねていく。
「なら今取り立てちまうか?そうだなぁ、ウン千年ぶりに現世に俺の雷を顕現させやがったんだ。その代償としちゃあ、両腕を貰うくらいが、ちょうどつり合いが取れてるだろうな」
「えぇ。貴方様の神格を考えれば、模造品の雷とはいえ、ニンゲン如きが振るった代償としてはあまりに安い。それなら我は、不敬にも足で弓を引きおった代償に、その片足を代償としていただこうか。自分から言い出したことだ、もちろん嫌とは言うまいな?」
神々が提示した代償、それは姫野にとってあまりにも重すぎる代償だった。仮に支払ってしまえば、もう姫野は人魔大戦の中で最前線で悪魔と戦うことは不可能といっていいだろう。
そうなれば、姫野は神々に見限られる。明日の朝日が昇る頃には、姫野の全てが神々に等分されることになっているだろう。
とても受け入れられる代償ではない。
見れば泰然とした倭建命はともかく、武速須佐之男命の方はにやにやと姫野の様子を楽しむように眺めている。
彼らとしても、この代償が受け入れられるとは考えていない。むしろ姫野がどういった理由でこの申し出を断るのか、その部分について、興味を持っているように思えた。
「申し訳ありません。その代償をお支払いすることは出来ません」
「ほう、自ら代償の不足を我らに申し出ておきながら、今度は代償の過分を申し出る。不敬が過ぎるのではないか?」
倭建命が、姫野を追い詰めるように、プレッシャーをかける。
「はい。私としては代償のお支払いは構いません。けれど、お支払いしてしまうと、私の周りの人達が悲しむだろうと思います。ですので、もう少し軽い代償で許していただけませんでしょうか?」
けれど、姫野はそんな圧力に屈することはなく、己の心の内を神々にさらけ出した。
姫野の心によぎるのは、ずっと自分の世話を焼いてくれた尊敬する大熊達、そしてこんな自分を対等だと言ってくれた翔。もし、姫野が支払いに応じれば、彼らはおそらく自分の判断を怒り、そして悲しむことだろう。それが姫野には何となく嫌だった。
いくら力を貸してくれている神の申し出といえど、受け入れるわけにはいかなかったのだ。
そして、そんな姫野の判断を目にした神々の反応は劇的だった。
「ぎゃーはっはっはっは!!!おいおいおい、村のため、家族のためって生贄になる奴はいても、逆はねぇだろ!ほらな!言っただろ倭建命。こいつはただの生贄として数えちまうには勿体ない存在だって!」
「えぇ。武速須佐之男命のご慧眼に狂いは無かったようです。むしろ我自身の眼がどれだけ曇っていたか、恥じ入るばかりでございます」
「えっと......何を......」
突然の神々の反応に、姫野はついていけずおろおろとするばかりだ。しかし、そんな反応すらも愛おしいとでもいうように、武速須佐之男命は姫野の頭を、乱暴にごしゃごしゃと撫でまわした。
「それでいいんだよ!ニンゲン共も生贄は差し出す癖に、ちょっとばかしの良心は残っているんだろうな。生贄役にそういう教育を施しちまう。年老いたニンゲンには、満足いくほどの食事、家族の安堵。生まれたばかりのニンゲンには、神に捧げられることこそが至上の喜びであるという教育とかな」
「そういったニンゲンは満ち足りてしまう、我らを全肯定する存在になり果ててしまう。そんなものはニンゲンではない。懐いた獣と変わらんではないか」
「あの、おっしゃっている意味が......」
「まだ分からねぇか?お前は俺達の好みを凝縮した肉人形だ。そういった教育も完璧に施された。けれど、お前はそれで終わらなかった。人形なら何も考えずにこなした仕事に疑問を覚えた。人形なら喜んで頷く場面で拒否を突き付けた。いくら好みのニンゲンだからって、俺達最高位の神々まで魅了することは人形にゃ出来ねぇよ。お前に心があったから、神崎姫野という人格を手に入れたから、俺達は力を貸してやろうと思えたんだよ!」
「業腹だが、貴様の魂に巣食う運命の悪魔も、その可能性を感じたからこそ貴様と契約したのだろうな。可能性の拡大への希望と、据え膳を食らい損ねた怒り、神々の中でどちらが勝るかは我でも判断がつかぬよ」
「あっ......」
いずれ全てを捧げるべき相手、幼少期からずっとそういった教育を施されていた姫野にとって、神々の要求を跳ね除けることすら後ろめたい感覚があった。契約できないのは戦いに支障が出るから、断るのは周りの人間が悲しむからと、遠回しの理由を付けて拒否するしかなかった。
けれど、神々自身から大きすぎる要求は拒否していいのだとお墨付きを貰えた。そして、神崎姫野という一個体の存在を認めてもらえた。その事実は、感情の起伏に乏しい姫野の心すら打つ、大きすぎる出来事だった。
突然の言葉に動揺を隠せない姫野だったが、いつの間にやら屋敷の周りが騒がしくなっていることにようやく気が付いた。
「おー、おー。ずいぶんと大所帯で来なすったな」
「なんの騒ぎでしょうか?」
「貴様の客だ。神崎姫野」
「えっ?」
「肉人形に力を貸す義理はない、俺様の欲求を満たせないなら契約は許さないって意地を張っていた連中の一部が顔を出してきたんだよ。そりゃ、お前を一か月も独占したんだ。悔しくて悔しくて仕方がなかったんだろうなぁ、かかっ!」
「それは......」
武速須佐之男命の言葉によって、姫野は突然の事態とその言葉に隠された大きな意味を理解した。
武速須佐之男命の屋敷を訪れた神々は、姫野と新たに契約することを目的にやってきた。自分の理念を曲げてでも代償を得るために、もしくは神崎姫野という人間を見極めるために。
理由はそれぞれだろうが、契約してくれる神々が増えるということは、単純に姫野の力が強化されることも意味していた。
「まさか、武速須佐之男命が私に求めた代償は、これを狙ってくれていたのですか?」
「はっ、知らねぇよ。だが、せっかくの機会だ。さっさと契約して、さっさと神域から出ていくんだな。お前がここに居を移すのはまだ早ぇよ」
「本当に、本当に、厚く御礼申し上げます」
そう言って姫野は、集まった神々に対応するために、向こうへと走っていった。後に残されたのは、二体の神のみ。
「よかったのですか?あそこまで一人のニンゲンに肩入れなどして」
「仕方ねぇだろ。どいつもこいつも一人のニンゲンに執心しやがって、みっともねぇったらありゃしねぇ。希国のスケコマシ共でも、もう少しましな態度を取るってのによ」
「その点においては武速須佐之男命も、他神のことを言えないのでは?」
彼が、かの大蛇の牙から救い上げた妻を、一途に想い続けていることはあまりにも有名である。
「うっせぇ!だからだよ!今後どこぞの神に魂を捧げることになろうと、好いたニンゲンと添い遂げたいと思おうと、どうやったってあの馬鹿な取り巻き共は邪魔になる。だから、さっさと力をつけてもらいてぇんだよ。自分の我を通すだけの力をな」
「八百万の神から恨まれることになりましょうぞ」
「今は喧嘩を売ってくる神も、憑依して現世に降臨する機会もめっきり無くなっちまったからな。ぶちのめす相手が出来て願ったり叶ったりだ。どうせ、てめぇも退屈してんだろ?ついてきな」
「えぇ。その時はお供させていただきます」
その返事を聞いた武速須佐之男命は満足そうに、升の中身を傾けるのだった。
一時的に戦線を離脱していた姫野の回でした。
次回更新は、12/23の予定です。