デトロイト狂乱 その一
アメリカはミシガン州デトロイト。自動車産業で栄えていたこの街は、労働力の中心であった黒人との諍いと、それに伴う産業地帯の移転によって一時は大きく衰退をした。
大国家アメリカの都市でありながらも、世界犯罪係数はトップ10入り。貧富の差も激しく、ビル街とスラムを同時に写した写真は大きく話題になった事もあった。
しかし、そんな街も少しずつ復興が行われていき、人が最低限生きるのに必要な雇用数も少しずつだが増えていた。
人は生活に余裕が生まれると、心にも余裕が生まれるものだ。余裕は理解を生み、融和へと繋がる。縮まりつつある貧富の差は、そのまま街で生きる人々の心を繋げようとしてた。
けれども心の余裕は、言い換えれば心の隙となる。街全体が融和ムードとなっていたのなら尚更だ。
小さな綻びから害虫が家へ入り込むように、復興を掲げる街はとある事変の中心となってしまった。
「こ、これで! これで俺の借りは全部返済される筈だ! 確認し、確認を、お願いします......!」
デトロイトにあるスラム街の一角。そこで元々は高級であったのだろうスーツをいくらかくたびれさせた男が、平伏もあわやといった恰好で目の前の人影に書類の束を渡そうとしていた。
手渡そうとしているのは、土地や機材、人材等の権利書一式。自宅と自らを除けば、男の全財産と言っても良い程の資産だ。それを全て渡さねばならないほど、男は負けた。目の前に立つ人影とのマネーゲームに完敗してしまった。この場はすでに戦争の後、敗戦処理の最後の事務だったのだ。
焦りと焦燥がいくらか男の格を下げてこそいたが、その目は妖しく輝き、これで終わってなるものかという逆境精神が垣間見える。
きっと彼は、命と健康な身体さえあれば、どんな場所からでも這い上がれる人種なのだろう。明日には権力の階段を上がりなおすために、新たな金儲けの種でも見つけ出す事だろう。
「ふむ、確認させていただきましょう」
男から書類を受け取った人影、それは実に珍妙な恰好をしていた。
緑を基調としたスラッとしたダブレットに同色のズボン。膝近くまで長さのあるブーツを履き、顔には白一色のコロンビーナのハーフマスク。
いくらこの場がスラムの一角と言えど、契約周りの話し合いをするには不適当な恰好に見える。
おまけに付近の壁にはイタリアの水路でよく見られるゴンドラが立てかけられ、セットの櫂が彼の腕に抱かれている。まるで水の街の漕ぎ手が、わざわざデトロイトくんだりまで足を運んだようにも見えた。
この場はスラム街。貧者や負け犬達が水場の付近を陣取れる筈も無く、ここらにゴンドラを浮かべられる程の水場は無い。
ならばこのゴンドラは何かの演出か。いいや、違う。
男の目の前に立つ人影であれば、このゴンドラを活用出来る。どんな場であろうと一定の不信感を募らせる恰好の彼なら、水場の有無など問題が無い。
なにせ彼の正体は悪魔。国外代表が一体、渡界のパツィリエーレであったのだから。
「結構、これであなたの負け分は補填されました」
「ふん、当然だ。それじゃあ_」
ペラペラと書類をめくっていた手が、満足そうに止められる。思わせぶりな言葉を吐いたのだ。これでこの場における戦いは終戦の筈。
時は金なり。男は敗北の怒りを静かに燃やしつつも、新たな金儲けに向けて自宅へ踵を返そうとしていた。
「えぇ。ボスも久しぶりに楽しめたとおっしゃっていましたし、最悪の末路は勘弁してあげましょう」
「はっ? ボス?」
「はい。何か?」
男の足が止まった。
今、目の前の珍妙な男は何と言った。
ボス。それは組織のトップに君臨する人間へと与えられる通称だ。男はもちろんボスであったし、非公式とはいえ、そんな彼と書類の受け渡しを行うのは当然ボスだと思っていた。
まさか、このような場に使い走りを送り出したのか。自分は相手にとって、その程度の男であったと認識されていたのか。
抑えていたドス黒い炎が、同じく正統な勝負であったのだからと我慢していた憎悪を燃料に激しく燃えだす。
「......さっきの、楽しめたってのは嘘か?」
「? なぜです?」
「楽しめたってんなら、せめて見送り程度するのが、この世界の掟だろうがッ! それを、こんな、こんなふざけた恰好の奴を使い走りに......! 侮辱もいいところだろうが!」
勝者が全てを奪い取り、敗者は命以外何も残らない。そんな世界だからこそ、彼らは礼儀を重んじる。影でどんなに口汚く罵り、後ろ手でナイフを握ろうとも、敗者の門出には礼を尽くす。
最早、我慢がならなかった。非公式と言えど、いや、非公式だからこそ労いの一つを貰いたかった。
常に紳士であるべきビジネスマンたる自分が、声を荒げたのだ。珍妙な男に関わらずとも、どこかで耳の良い誰かが拾い上げる事だろう。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
彼が紳士の仮面を外したのは事実であるが、紳士であろうとした彼の顔に泥を被せたのは珍妙な男の主人なのだから。
男の人間としての価値は、数日もしない内に引き下げられるだろう。けれどもそれ以上に、彼のボスの価値は大暴落を引き起こす事になるだろう。
この世の金は有限だ。いくら一人の力で押し潰そうとしても、数人がかりで抑え込まれてしまえば身動きは出来なくなる。そして、停滞したビジネスマンの寿命は短い。
彼の叫びは、裏で踏ん反り返るボスとやらを道連れにするはずだった。
噂のボスが人間の範疇に収まる存在であったのなら
「遅いぞ。何を手間取っている」
それは空から舞い降りた。
ガシャリという無様な落下音。バサリという大翼を翻す着地音。両者を同時に響かせて、パツィリエーレ等とは比べ物にならない程の珍妙な生物が現れた。
彼の見た目を表現するとしたら、まずは一体と一羽が適当と言えよう。
一体の方は各種宝石をこれでもかと散りばめられた洋服と、それに負けず劣らず豪華な王冠。なのに身に付けている本人は白骨死体。しかも黄ばみが酷く、眼窩には蜘蛛の巣がかかった年代物の死体だ。
一羽の方は一見するとただのカラスの様に見える。しかし、よくよく見てみれば瞳はダイヤモンド、カギ爪はアイボリー、羽の一枚一枚全てが、カーッカニルと呼ばれる特殊なサファイアで出来たカラスだった。
「ヒッ! な、なにが......!?」
ここまで強気一辺倒であった男も、さすがにこの異常事態には耐えきれなかったらしい。
白骨死体の出現に驚愕し、それが自立行動を始めた事で腰を抜かし、先ほどの声の主がカラスの方であった事に言葉を震わせていた。
「これはこれは特権様。御足労、申し訳ございません。実は先日まで特権様との遊戯に応じていたこの男が、礼を失しているなどと難癖を付け始めまして」
「ほう? 我が無礼であると? この我が? クワーッ、カッカッカ! この特権、外道と詰られる事こそ幾度とあれど、儀礼に後ろ指を指されるなど初めての経験よ! 本当に、現世の流れは飽きが来ぬ。して、我のどこが無礼であった?」
ぎょろりと向けられる宝石の瞳。見慣れたその輝きが、男を芯から震えさせる。
「い、いえ、そんなことはな_」
「言え。それとも、まさか。我の遣いを戯れ半分でからかったとでも?」
「ウッ......アッ......」
喋れない。どんなプレゼンにも、どんなパーティでも閉じる事の無かったこの口が、二の句を紡げない。
彼の掟は人の掟。バケモノ相手に通用する道理でない事は、少し考えるだけですぐに分かる。だから彼は沈黙した。普段はスラスラと生まれ出る言い訳が、この時は一つたりとも出てこなかった。
それがこの男の器だったのだろう。今の今まで、人の道理の範囲で勝負に興じてくれた相手なのだ。せめてなにがしかを話していれば、良き悪きに関わらず、興味は引けたかもしれなかったのに。
「......どうやらこのニンゲンは、敗北の衝撃で言葉すら忘れてしまったらしい。対話の通じぬニンゲンなど、もはや一銭の価値すら無い。やれ」
「ふっふふふ。では」
パツィリエーレが握っていた櫂を男の足元に刺し込んだ。
まるで水面へ触れたかのようなトプンという音と共に、櫂が土中へと沈み込む。
付近にいた男を巻き込んで。
「えっ? おぶっ!? ガハッ!? やめっ! 助けっ!」
必死にもがく男。けれど掴もうとする全てが液体へと変わり、水を吸った衣服が重厚な鎧の様に男を土中へと押し込んでいく。
「特権様は礼儀を尽くしていたというのに。ニンゲンの作り出したルールの中で、何一つ歪ませる事が無いまま勝負を終わらせようとしてくれたのに。敗者はよく落ちると例えられますが、あなたの落ちる先は予想よりも深かったようですね」
「たっ、たすけ_!」
とぷん。
パツィリエーレが櫂を引き抜くと同時に、地面のうねりは何事も無かったかのように静まり返った。男の姿はどこにもない。
「せめて罵詈雑言の気概があれば、この街の行く末を見物させてやったというのに。ニンゲンはいくらか賢くなった。だが同時に、致命的なまでに愚かとなった」
「感傷ですか?」
「まさか。これから万と潰れる光に目をやって何になる。いつだろうと我の根源は奪う事。全てを失った抜け殻などに興味は無い」
「......失礼いたしました」
「よい。それよりも、挑戦者の配置と来客の歓迎準備だ。ぬかるなよ?」
「重々承知にございます!」
悪魔の悪事によって、一つの命が理不尽に奪われた。
しかし、これはデトロイトを巡る狂乱の、始まりの悲劇に過ぎなかった。
次回更新は8/23の予定です。




