天上の遣い
雨が降りしきる田舎道。舗装もろくにされていない道路から少し外れた林道に、一本の木に正面衝突したらしい、ボンネットから煙を吹く一台の乗用車の姿があった。
道路に残るブレーキ痕からして、どうやら雨によるスリップによって事故を起こしてしまったようだ。
この事故で後部座席にいた少年は大きなケガを免れたが、運転席にいた母と助手席にいた兄は衝撃で額から大きく血を流しながら意識を失ってしまっていた。
幼さの残る少年だけでは助けも呼べず、ただ母と兄の身体から命が流れ出していくのを号泣しながら眺めることしか出来なかっただろう。
しかし、ちょうどその場を通りかかった男がいたのだ。彼は村々を巡って回診をしている医者と名乗り、二人を車から助け出すと雨がかからぬよう傍にあった木陰に寝かせてくれた。
そして電話で助けを呼んでくれたのだ。これで助かると安心した少年だったが、二人のケガを診ていた男が恐ろしいことを言い出した。
このケガでは救急車の到着まで二人は間に合わない。一人の血液を輸血してもう一人の命を助けるしかない。どちらか一人しか助けることが出来ない。君が選んでくれと。
「坊や、難しいことを言っていることは俺も分かっている。だが、出来れば急いでくれ。そうしないと二人共間に合わなくなる」
「うっ、うぅ...... 選べないよぉ......」
少年には選べなかった。自分が選ばなかった家族が死ぬ。その事実を意識したとき、死というものに対する根源的な恐怖が、少年の心を真っ暗な闇の衣で包んだのだ。
少年にとって母は、暖かな光のような存在だった。常に自分を肯定し、夜の恐怖に怯える日は常に傍にいて優しく抱きしめてくれる。それを失うことが少年には許容できなかった。
少年にとって兄は憧れのようなものだった。自分の出来ないことを平然とこなし、自分を遊びに誘ってくれる。そんな二人きりの兄弟を失うことが少年には我慢ならなかった。
「もう限界だ。坊や、最後にもう一度聞くぞ。お母さんを助けるか、お兄さんを助けるか選んでくれ」
「あっ...... あう...... いやぁ! 死んじゃうなんて嫌だあぁぁ!」
「ふくっ...... すまんな......」
ついに少年は責任の重大性に耐えきれず、泣き出してしまった。しかし誰がそれを責められようか。大切な家族の命を背負うには、少年の背中はまだまだ小さすぎたのだ。
そしてそんな少年に同情を寄せるような態度を取っていた男は、言葉とは裏腹に口角はこれでもかとばかりに吊り上がっていた。
何せ一連の事故は全て、この男の計画によって仕組まれた事態だったからだ。
男の正体は魔界から現界した悪魔の一体、国外代表選択のウィロー。他の悪魔の例にもれず、人類に絶望を振りまく邪悪の権化だ。
この悪魔がこのような回りくどい方法を取っているのには理由がある。
彼の魂に宿る魔力。その回復には、選択を誤ったことに絶望したニンゲンの魂を喰らうことが一番だからだ。
顕現したウィローは手っ取り早く魔力を回収するため、家族の乗る車に魔法をぶつけ、ハンドルを狂わせた。そして助け出した二人の容体をあえて悪く聞かせ、年端もいかない少年に選択を強いたのだ。どちらの命を見捨てる、と聞こえるように。
だが、どうやら少年はどちらも選べなかったらしい。
ウィローにとってはそれでもよかった、なにせ選ばないというのも一つの選択なのだから。さらに少年を追い込もうと、見えないところで二人の傷を広げようとしていたそんな時だ。
「待ちなさい!」
彼の背後から衝撃とも言える、強い意志を感じさせる声が響き渡ったのは。
少年と男が声の元へと振り返ると、真っ白な修道服に身を包んだ小柄な人間の姿があった。
聞こえてきた声からおそらく女性なのだろう。断言できないのは顔が修道服のフードで覆われ、三つ編みにされた金髪のみしか外見が分からぬためだ。
「その悪魔の口車に乗ってはいけないわ、あなたの家族は二人共助けられる!」
「えっ......? でもこのお医者さんが......」
突然降って湧いた希望の言葉に少年は困惑を隠せない。
本当であれば少年にとって願ってもみないことだが、発言した者が教会のシスターだったのが信じ切ることが出来ない要因になっていた。
これを発言したのが同じようなお医者様や緊急隊員なら、少年は嘘だとしても二人が助かる可能性に賭けただろう。
しかし、発言者はシスター。少年にとってはお医者様もシスターもどちらも立派な職業だ。しかし、こと人の命がかかる場面でどちらの言葉を信じるかは少年でも分かった。
「何を言っとるんだ! この傷と出血の量を見ろ! すぐにでも輸血を開始しないと手遅れになる。それに私が悪魔だと!? 人の命を救うために人生を捧げてきた私に対する最大限の侮辱だ!」
ウィローの方も少年の魂を奪うことをまだあきらめていないようだ。
医者とシスター。遥か昔の時代であればいざ知らず。魔法を否定し、自らの可能性の芽を潰し続けるニンゲンにとって、神の下僕という肩書は信用を得るに足るものでは無くなった。
だからこそ自分の正体に気付いている推定魔法使いのシスターに対しても、ウィローは強気に出ることを止めなかったのだ。
「ふっ、ふふふ、あっははは! あー、おかしい! 人魔大戦の代表といっても、話に聞いてた通り実力はピンキリなのね! そしてあなたは間違いなくキリの方」
そんな激昂の言葉を浴びても、シスターは少しも応えていないようだ。それどころかこらえきれなくなったかのように、いきなり大笑いを始める始末。
「何がおかしい!」
「ふっ、ふふふ...... だって、そうじゃない。いくら獲物を喰らう瞬間だとしても、私の魔法に全く気付かないんだもの。可哀そうだから教えてあげるわ。一般的な人類は、胸から槍を生やしたままで悠長に会話なんて出来ないのよ!」
「な......に......?」
「えっ......? ひっ!」
その言葉を受けてウィローは自分の胸元を見た。
そうして気が付いた。彼女の言葉の通りに、自分の胸には背中側から深々と突き刺さった、銀色に輝く槍が生えていることに。
その傷から恐ろしい勢いで魔力が流出し、自身の存在を無へと誘っていることに。
そして魔力の消失による副次効果か。少年の隣に立っていた男は消え去っていた。代わりに片側を肥大化させた天秤を、無理やり人型に整えたかのような無機質な物体が、その場に鎮座していたのだ。
「な、な、なんだこれはああぁぁぁ!?」
自らの危機的状況に気が付いたウィローは悲鳴を上げる。だが、感情の揺らめきとは言い換えれば動揺。大きな隙だ。そんな隙を晒した悪魔をシスターは見逃さない。
寸分違わぬタイミングで、胸に突き刺さった槍と同一のものが何本も身体中に突き刺さる。
明らかな致命傷だ。もう魔力の回収やシスターへの攻勢に転じるといった選択を取る余裕が、ウィローには残されていなかった。
むしろ今すぐにでも全力で逃走を図らないと、魔界に叩き返されるどころか槍から発せられるプラスの魔力で魂が消滅しかねない。そうなってはいかに悪魔と言えども死は確実。時間は残されていなかった。
「再選!」
「私達の世界にお前達は必要ない。その汚れた魔力、世界に返しなさい!」
最後にシスターが投擲した槍は、目盛板を模したウィローの頭部に突き刺さった。
直撃の衝撃によってウィローは大きく空を舞い、ぬかるんだ水溜りに叩き落とされると泥水が大きく飛沫を上げた。
そして舞い上がった泥水が晴れた時、そこには何も残されていなかった。
それを確認するとシスターは少年の元へと近付き、一連の戦いによって尻もちをついてしまった少年を助け起こそうと手を伸ばす。
「あっ、ひっ!」
だが、先ほどとは打って変わって優し気な目をしたシスターの手を、少年は取ることが出来なかった。それどころか命の恩人に向かって悲鳴を上げてしまった。
その態度を見て何かを察したのか、シスターも伸ばした手を引っ込める。そして怯える少年から距離を取ると、話しかけた。
「......あなたにとっては目の前に殺人鬼がいるのと変わらないものね。だからこそ坊や、良く聞きなさい。私を信じないのは構わない。だから目をつむって、手を合わせて、ただ家族が助かりますようにと神様に祈りなさい」
「は、はい!」
機械的に返事を返し、いつも家族と行っているように神様に祈りを捧げ始める。
家族が助かりますように、シスターが自分に槍を向けませんように、これ以上恐ろしい目に遭いませんように。そうして祈りを続けていると、いつの間にか意識が遠くなっていって。
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「おい、おーい! 大丈夫か!? よし、意識回復確認! よく頑張ったぞ坊や」
次に少年が目を覚ました時、周りにはたくさんの大人がいて、自分の回復を喜んでいた。
「覚えているかい? 君の乗っていた車は、水溜まりで滑って木にぶつかってしまったんだ。君はその衝撃で開いてしまったドアから投げ出されて、意識を失っていたんだよ」
「お母さんと...... お兄ちゃんは......?」
「無事だよ。頭を打ってしまっているから病院での検査が必要だけど、命に別状ない。」
「良かった......」
「それで意識を失っていた坊やに聞くのは間違っていると思うけど、我々は事故の通報を受けてこちらに来たんだが、肝心の通報者がどこにも見当たらないんだ。それにお母さんとお兄さんは簡単な応急処置も行われていた。それが不思議でね。何か知らないかい?」
「あっ! シスター様が! シスター様はどこ!?」
「シスター様?」
「あの人に言われたの! 目をつむって、手を合わせて、神に祈りなさいって! そうすればみんな助かるって!」
その言葉を聞いた救急隊員は、どこかで半覚醒状態となった少年が、母と兄に応急処置をした通報者を神の遣いと見間違えたのだろうと考えた。
「そうかい。それなら神様とそのシスター様には感謝をしないとね」
「うん!」
これ以上少年から得られる情報は無さそうだ。しかし、少し時間が空けば何か思い出すかもしれない。救急隊員は今は親子三人が皆無事に助かったことを喜ぼうと考えた。
そんな光景を木々の合間から眺めるシスターが一人いた。フードを脱いだその顔はあどけなさが残り、成人してるとは思えない。
そんな少女は少年が無事に救出されたことを確認すると踵を返し、救急隊員が来た方向とは逆の方向に歩き出す。
「今回は間に合ったけど、次回も私の手が犠牲者の手を掴めるかはわからない。師匠からは止められたけど、所在が分かっている悪魔を見逃すなんてありえないわ。いくら自分から危害を加えないと口で言っても、悪魔なんて次の瞬間には平気で手の平を返す存在なのだから。だから首を洗って待ってなさい。71位、知識の魔王、継承のダンタリア!」
虱潰しに悪魔を探していたら、次に悪魔を発見できる時がいつになるか分かったものではない。
知識の魔王を匿うドイツの化け物は、堂々と知識の魔王と共に日本へと向かうことを宣言していた。
ならば自分が次に向かう場所も決まった。神を信仰する聖職者の少女は、日本に向けて歩みを進めるのだった。
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