古今の行く末は盤上の中で その七
「フンッ!」
まるで相撲取りが踏む四股のように、天高く上げられた大熊の片足が大地に振り下ろされる。
起こったのは、これまでよりもさらに大規模な地盤沈下。いや、地盤固めとでも言うべきか。泥濘だらけであった田園地帯は、その一足だけで荒野の如き乾燥地帯へと変貌してしまったのだ。
「これで足場の心配はねぇな」
大熊の魔法は、密度を操る始祖魔法。その気になれば泥濘の大地から水分を飛ばし、安定した地盤へ変える事など容易である。これまでそれを行わなかったのは、親心に似た手加減のため。
敗北がよぎった事で楔から解き放たれた大熊は、これまで以上に環境に対する支配権を高めたのだ。
そして、前大戦を勝ち残った戦巧者の行動は、たったの一度で戦況を大きく覆す。
「っ!? 大熊さんの姿が!」
対峙していた翔は驚愕する。彼を中心として、深すぎる濃霧が発生していたからだ。
「どうしたぁ! さっきまでの威勢がいい突撃は取り止めかぁ!?」
大地から水分を抜き取り、安定した足場を作り出す。そうなればある種、当然の事として、水分の逃げ先が必要だ。その逃げ先に、大熊は空気中を選択したのだ。
水を大質量の液体として大地から抜き取るのではなく、限りなく気体に近い水蒸気としてバラ撒く。そうする事で生まれるのは、光さえ通さぬほどの深い濃霧。一メートル先にも靄がかかるような状態では、突撃など出来るはずが無い。
せめて翔が魔力感知を習得していれば話は変わっていたが、あいにく彼はその分野ではからっきし。当てずっぽうで突撃しようかとも考えてみたが、外した時の反撃はこれまで以上が予測される。とてもでは無いが、リスクが高すぎる。
「及び腰だってんなら、今度はこっちの番だなぁ! 視界がぼやけていようと、そんな馬鹿でけぇサイズの鳥は見失わねぇよ!」
そして高威力の突撃が鳴りを潜めてしまえば、始まるのは大熊による遠距離攻撃だ。
手に握るのは、水分の抜けきった数個の土塊。一つ一つがビー玉サイズしかない小さなそれを、濃霧の中でもあまりに分かりやすい標的に向けて投擲する。
「くっ!」
大熊の行動を察知し、急いで回避行動を取り始める翔。そんな彼の擬翼の先端へ、いくつもの小さな穴が生まれた。
「っ!」
ゾッとした。それは先ほどまで、翔の身体があった場所だ。動かなければやられていたという事実もさることながら、当たり前のように擬翼を貫いてくる破壊力にも冷や汗を抑えきれない。
彼の翼は突撃用の武器であり、彼を守る鎧でもある。そんな最硬度を誇る部位が、呆気なく粉砕される。下手な防御は逆効果。かといって、翔にはまともな飛び道具が存在しない。攻められない。逃げ回るしかない。
これが大熊の本気。大戦勝者の本気。あまりにも突き抜けた実力と、それをギリギリまで隠していた優しさに心境はぐちゃぐちゃだ。けれども、翔はこの大きすぎる壁との対峙を止めるわけにはいかなかった。
(俺ですらこれなんだ。これで大熊さんを自由にしちまったら、真正面から根こそぎ作戦を食い破られちまう。まだだ、まだ負けるわけにはいかない......!)
機動力で劣る姫野とニナは一瞬で。やり直しが利くマルティナと言えど、退けないタイミングであれば致命的。このバケモノ相手に時間稼ぎが出来るのは翔だけだ。作戦を成功させるためにも、この進撃は止めなければいけないのだ。
「突撃はもう出来ない......ならっ!」
「あん?」
空中に留まっていても、飛び道具の的にされるだけ。ならばと、翔は地の利を捨てた。自ら地面に降り立ったのだ。
「擬井制圧 曼殊沙華!」
逃がさぬように。そして、意表を突いたタイミングを逃さぬように。魔力にモノを言わせ、高速かつ広範囲で結界魔法を展開していく。
「んな!?」
翔の意図に気が付いたのだろう。大熊は急いで次弾となる土塊を拾い上げ、翔に向かって投擲する。
「ぐうっ......!」
だが、突撃への対策で生み出した濃霧が、今度は翔に味方した。
擬翼という大きすぎるシルエットを失った事で、大熊は擬井制圧 曼殊沙華が展開され始めた場所を起点に、大まかな狙いで翔を攻撃するしかなくなった。その結果、いくつかの土塊は翔の肉を削ぎ、あるいは貫通したものの、致命傷に至る事は無かったのだ。
「......んのやろう」
三度土塊を拾い上げた大熊であったが、苦虫を噛み潰す表情で、手の平の土塊も握り潰した。土塊はすでに、それ以上の価値を付与する事が不可能になっていたから。
周囲を見渡せば、全方位を青い十字が覆っている。翔の擬井制圧 曼殊沙華が完成し、放出されるあらゆる魔力を阻害し始めているのだ。内部に閉じ込められた魔法使いに許されるのは、自身の体内で完結する魔法のみ。
「だが」
飛び道具や環境への変化こそ禁じられたが、そもそも大熊の主力はインファイト。少々堅い木刀程度の檻など、壊す事に時間はかからない。一方的に攻撃を封じられたが故の、苦肉の策か。そう思いながら、結界を叩き壊そうと大熊は十字へ近付く。
「......はっ? おいおい......そりゃあ、いくら何でも......全く、お前は本当に期待の星だよ。翔」
近付いた事で気が付いた。展開された結界が一つでは無い事を。それどころか、今この瞬間も三重、四重と結界が展開されていっていると。
一つの結界を壊すのは、数秒もあれば事足りる。そうすれば飛び道具が再度使用可能になり、大熊は同じ陣形で翔を追い詰められる。
それは翔も分かっていたはずだ。だからこそ彼は、結界の多重起動に踏み切った。一つの結界にかかる時間が数秒でも、それが三つ、四つと続けば、かかる時間は比例して増えていく。
そして翔の役割は、一貫して大熊相手の時間稼ぎ。彼の行動を数秒でも長く阻害する事こそが、作戦の成功、ひいては護衛組の勝利に繋がる。ならば、やらない理由などない。
けれども擬井制圧 曼殊沙華は、一つの起動だけでも莫大な魔力を消費する。それを三つも四つも起動していたら、いくら魔力量に秀でた翔でも馬鹿にならない消費のはずだ。
だというのに、彼はこの策に踏み切った。仕切り直しのために結界を起動するのではなく、ギリギリまで大熊を拘束する事を選択した。
リスクを取って十数分を稼ぐのではなく、堅実に数分を奪い取る。翔が展開可能な結界が、あと何枚であるかは大熊にも分からない。しかし、これ以上の時間短縮が不可能になった事は良く分かった。
「ははっ、ったく、本気を出したってのにこのザマか。つくづく俺は、戦いに向いてねぇな」
自分を中心に展開され続ける結界を見て、大熊は皮肉の声を漏らした。訓練だという事を感じさせないほどの覚悟。絶対に勝負に勝つのだという執念。最後まで女々しく、生かす事ばかりにかまけていた大熊には手に入らなかった感情だった。
全ての魔力を消費させる作戦を選ばせた時点で、大熊の勝ちは揺るがない。だが、勝者である大熊は、微塵も勝った気にはなれなかった。
「ふっ、けどな。大人ってのは、数え切れねぇほど負けてきた人間を指すんだぜ。今更負け星が一つ増えるのがなんだ。敵になると決めた時点で、どれだけ泥臭くとも勝負を諦めるつもりはねぇぞ」
例えどれだけ心境が下を向いていようとも、大熊の歩みは止まらなかった。
目の前の結界を砕き、間髪入れずに次の結界へと肉薄する。間違いなく時間を稼がれるだろう。その間にダンタリアの考える作戦は、着実に進行するだろう。
けれども、それが何だ。彼らが本来相対する悪魔達は、いずれも貪欲で諦め悪く、自分達とは比べ物にならないほど周到な計画を積み上げてくる。
そんな悪魔達に負けないよう、そんな悪魔達の計画を食い破れるよう、自分達は大きな壁としてそびえ立たなければいけない。いけ好かない魔王の助力一つで瓦解するような、脆い壁ではいけないのだ。
「相変わらず、俺は間違えっぱなしだな。テメェが正しかったよ。ラウラ」
そう考えれば、昨日の教育方針による言い争いは、ラウラに軍配が上がる事となる。無限に思える反復作業の中で、大熊は小さく謝罪の言葉を吐くのだった。
次回更新は6/16の予定です。